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2015年07月30日 (木曜日)

五輪招致委の竹田恆和会長が東京都へ約27億円の補助金を請求、三幸商事は「ピンバッジ」で約3200万円を請求、懸念されるスポーツの政治利用

【サマリー】「2020招致計画委員会」の竹田恆和会長が、東京都へ約27億円の補助金を請求していた。東京都スポーツ振興局長宛てに、三幸商事が、「ピンバッジ(縦27mm×横15mm×厚1mm)」の買い入れ費として少なくとも約3200万円を請求していたことも分かった。

 五輪・パラには常に高額な資金が動く。これから2020年へ向けて利権争いが激化するのは間違いない。加えて、スポーツの政治利用-観念論教育の推進にも拍車がかかりそうだ。

わたしの手元に、東京都から情報公開によって入手した「補助金請求書」と題する書面がある。中身は「平成23年度2020年オリンピック・パラリンピック競技大会招致活動推進補助金」である。

請求先は「石原慎太郎殿」となっているものと、「東京都知事殿」とだけ記して氏名が明記されていないものの2種類がある。請求の期間は、「平成23年9月1日」から「平成25年4月1日」まで。請求回数は7回に及んでいる。

請求額は約27億円。

請求者はいずれも「2020招致計画委員会委員長 竹田恆和」となっている。

■源資料PDF

さらに補助金に加えて、さまざな企業から東京都スポーツ振興局長宛てに多種多様な請求が行われている。たとえば「平成24年10月10日」には、三幸商事という企業が、「ピンバッジ(縦27mm×横15mm×厚1mm)」の買い入れ費として1705万2000円を請求している。ただし、購入した個数は黒塗りになっているので外部の者は知りようがない。

同社は「平成24年12月10日」には同じ名目で、今度は1543万3500円を請求している。やはり「ピンバッジ」の購入数量は黒塗りになっている。

■三幸商事からの請求書PDF

請求総額は、約3200万円。大変な数量のピンバッジになったと推測される。

◇スポーツイベントと利権

周知のように東京五輪・パラの競技場建費は予定を上回り、世論の反発で計画が白紙に戻された。2000億円、3000億円といった規模の額が話題の中心になると、東京都が五輪・パラの招致に使った資金が少額のような錯覚にも陥るが、補助金27億円だけでも大変な金額である。

スポーツイベントには、常に利権が付きまとっている。たとえば一時期テレビで人気を得たフルコンタクトの格闘技がその典型例である。これにはスポンサーがついている上に、視聴率の高さを武器にテレビ局もCMを獲得しやすいという利点がある。

あるいは、これを逆にいえば、視聴率を稼ぐために著名なスポーツ選手を「参入」させたとも言えるだろう。

当然、視聴率をあげるために格闘する双方のどちらかが完全にくたばるまで試合をストップしない。おそらくレフリーもそんなふうに指示されている。そのこと自体、スポーツの基本原則に反する。

2020年の東京五輪・パラが近づくにつれて、企業はいうまでもなく、
新聞社やテレビ局もこの一大イベントに参入してくるのは間違いない。当然、利権争いが起きるおそれがある。

オリンピックに投入される公費の使い方を監視する第3者機関が必要になりそうだ。

◇スポーツの政治利用

が、懸念されるのは五輪・パラをめぐる資金の透明性だけではない。五輪・パラが政治利用される可能性が極めて高い。スポーツを通じた観念論教育の推進である。「監督の指示に従い、真面目に努力すれば報われる」というサクセス・ストーリーが、これからメディアを通じてばらまかれるだろう。

それは真理の一面もあるが、幻想の側面の方がはるかに大きい。素質がない者がいくら努力しても、オリンピックはおろかインターハイのメダルすら取れない。

2015年07月29日 (水曜日)

海外の各紙が報道、日本のマスコミは沈黙、安田純平氏の消息不明

【サマリー】ジャーナリスト・安田純平氏がシリアで消息を絶っているが、日本のメディアをほんの少数の例外を除いてこのニュースを報じない。これに対して海外のメディア、たとえば米国のニューヨークタイムスなどは盛んに報じている。メキシコのラ・ホルナダ紙も、やはり報じている。

日本でこの事件が報じられない理由は、国会で安保関連法案を通過させる動きがあることに加えて、特定秘密保護法がマスコミを委縮させている可能性が極めて高い。(詳細は、「ルポルタージュの窓」で)

2015年07月27日 (月曜日)

『20人の識者がみた「小沢事件」の真実』(日本文芸社)の問題点と今後の解明ポイント、だれが捏造報告書を外部へ持ち出したのか?

【サマリー】小沢事件における残された解明点は、捏造報告書を何の目的で誰が外部に持ち出し、インターネットで拡散したのかという点である。持ち出しのルートは、検察関係者が自ら持ち出すか ,小沢裁判の被告側が持ち出すかのいずれしかない。

 この点について過去の志岐VS森裁判で、小沢一郎氏と弘中惇一郎弁護士らを尋問することで検証される可能性があったが、結審によりそれも消えた。この事件の解明ポイントのひとつはこの点である。さらに外部に出た報告書をだれが何の目的で、インターネットを使ってばら撒いたのかも明らかにする必要がある。

2013年8月に刊行された『20人の識者がみた「小沢事件」の真実』(日本文芸社)という本がある。小沢一郎氏をはじめ、20人の識者によって書かれた本で、枝葉末節の違いはあるものの、小沢事件の本質は検察権力による「暴走」によって起こされたとする視点を基調としている。

執筆者が20人の多人数ということもあって、個々の原稿に枚数制限があるのか、それぞれの執筆者が小沢事件を深く取材して具体的な資料や証言を根拠に検察権力の「悪」を追及しているというよりも、小沢氏の無罪判決を大前提として検察を巨悪とする一般論が展開されている。

しかし、小沢事件に関する限り、検察諸悪の根源説は慎重に再考する必要がある。検察が関係した他の事件とは区別する必要がある。

幸いに、小沢事件に関する報道としては、事件の背後に検察ではなく、検察審査会の上部機関である最高裁事務総局の策略があるとする別の説もある。これは元旭化成役員の志岐武彦氏と「市民オンブズマンいばらき」の元事務局長・石川克子氏が、「役所」に対して繰り返し情報公開請求を行って入手した膨大な公文書を裏付けとして提唱している説である。

これら2つの説を検証してみると、明らかに志岐・石川説の方が説得力があるとわたしは感じた。『20人の識者がみた「小沢事件」の真実』は、調査報道というよりも小沢無罪に乗じた一般的な検察批判である。その中に小沢事件を位置付けたにすぎない。

◇だれが捏造報告書を持ち出したのか?

小沢事件においては、なぜ慎重に事実を検証する必要があるかを暗示する肝心な点を紹介しよう。検察をひとまとめにして、「悪」とするのは間違っている。検察が「悪」で、小沢氏が「善」といった単純な構図ではない。

小沢事件の検証ではだれが(捏造)報告書を外部へ持ち出し、マスコミにリークしたのかという点を無視することはできない。

捏造報告書の流出事件については、記憶されている読者も多いと思う。これは2012年5月ごろに小沢検審に関する検察の捏造報告書が外部へ流出した事件である。これを機に『週刊朝日』も検察を批判する記事を掲載して、「検察諸悪の根源説」へ世論を誘導したのである。

事実、こうしたメディアの動きの中で、小沢検審の審査員らは検察が作成した捏造報告書によって騙され、小沢氏に対する起訴相当議決を誤って下したとする世論が生まれたのだ。

しかし、捏造報告書を外部へ持ち出すための策略を誰が考案し、実行したのかという肝心の問題を明らかにしない限り、真実は分からない。誰が何のためにどのような方法で捏造報告書をマスコミにリークしたのか?

捏造報告書とはいえ、これらの公文書は検察が厳重に管理しているわけだから、そう簡単に外部へ持ち出せるはずがない。

流出ルートに関して、わたしは複数の法律の専門家を取材した。その結果、流出ルートは、窃盗などのケースを除くと基本的には次の2つしかないことが分かった。

1、検察内部の職員による報告書の持ち出し。

2、裁判のもう一方の当事者である小沢弁護団・小沢氏による報告書の持ち出し。

「1」「2」も違法行為である。

◇黒幕の特定が必要

だれが捏造報告書を外部へ持ち出したのかという点について、わたしが知る限りでは、過去に一度だけ解明の機会があった。それは森裕子元参院議員が志岐武彦氏に対して、言論活動の一部禁止などを求めた名誉毀損裁判(志岐氏の勝訴)だった。その中で志岐氏側は、小沢氏本人と小沢氏の代理人・弘中惇一郎弁護士の証人尋問を申し立てる旨を明らかにした。

が、残念ながら裁判は裁判長の判断で、早い段階で結審してしまった。結局、尋問というかたちで「2」についての解明は行われなかった。

かりに「1」の説が正しいとすれば、『20人の識者がみた「小沢事件」の真実』は基本的には信頼できる内容ということになる。しかし、「2」であれば小沢事件に関しては、抜本的に見直す必要がある。

もちろん捏造報告書が外部へ運ばれた後、インターネットを使ってそれを拡散した黒幕も特定する必要がある。

検察に問題があることは認める。小沢氏がマスコミにバッシングされたことも事実である。が、小沢事件の背景で誰が何をやったのかは、まだ完全には解明されていないのである。

2015年07月24日 (金曜日)

毎日新聞, 年間で250億円超の「押し紙」収入の試算、「押し紙」による自作自演の販売収入は粉飾に該当するか?

【サマリー】「押し紙」による販売収入の中身は、実は折込広告の水増し収入と新聞社が販売店へ支給する補助金である。つまり純粋な販売収入ではない。このような性質の収入を販売収入として処理する行為は、粉飾決算に該当しないか?

毎日新聞の「押し紙」144万部から生じるいわくつきの販売収入の額を試算したところ、実に年間で259億円にもなった。新聞社経営に汚点がある事実を公権力が把握したとき、ジャーナリズムは成立しなくなる。日本の新聞社が抱えている「押し紙」問題とは、ジャーナリズムの問題でもあるのだ。

「押し紙」問題を考える際に欠くことができないのは、「押し紙」による収入を経理処理する際に不正が発生する必然性である。つまり、粉飾決算である。「はてなキーワード」によると粉飾決算とは、次のような状況を意味している。

不正に会計を操作することで、収支を偽装した虚偽の決算報告のこと。取引先・株主・銀行などのステークホルダーからの信頼関係の保全を目的とする場合が多い。

「押し紙」とは、新聞社が新聞販売店に対して実際に配達している新聞部数を超えて搬入する過剰な新聞のことである。たとえば2000部の新聞を配達している販売店に対して、3000部の新聞を搬入した場合、差異の1000部が「押し紙」ということになる。この1000部の卸代金は徴収の対象となる。

◇「押し紙」で自作自演の販売収入

「押し紙」による販売収入の中身を検証してみよう。この種の販売収入は、おおむね2つの要素で構成されている。まず、①「押し紙」に連動している折込広告の収入である。それから、②販売店に対して新聞社が支給する補助金である。これは言葉を換えれば、販売店に「押し紙」を買い取ってもらうために新聞社が補助金を支給していることになる。つまり補助金は、いびつな販売収入に変形してブーメランのように新聞社へ戻ってくるのだ。

こうして得た自作自演の販売収入は、厳密な意味では販売収入ではない。そもそも「押し紙」には読者がいないわけだから、販売によって得た収入ではない。しかもこの種の収入には、既に述べたように、新聞社がみずから支出した補助金が含まれているのだ。

こうした性質の「押し紙」の経理処理が法的な観点から見た場合、粉飾に該当するかどうかはさらなる検討を要するが、新聞社が販売収入と称している金額の中に、みずからが販売店に支出した補助金がかなり含まれているのは紛れもない事実である。

新聞人の中には機会があるごとに経営の好調さを自慢している者もいるが、「押し紙」によるいわくつきの販売収入を正規の販売収入と区別しなければ、業績が好調にみえるのはあたりまえだ。

◇「押し紙」収入の試算

毎日新聞を例に「押し紙」収入の試算を示そう。
毎日の「押し紙」は、2004年に外部へ流出した内部資料「朝刊 発証数の推移」により、2002年10月の段階で約144万部だったことが判明している。同資料によると販売店への搬入部数が約395万部だったのに対して、全国の販売店が読者に対して発行した毎日新聞の領収書の枚数(発証)は約251万枚だった。差異の144部が「押し紙」という計算になる。

■「朝刊 発証数の推移」

次の資料は拙著『新聞があぶない』(花伝社)からの抜粋で、毎日新聞の「押し紙」収入を試算したものである。

■「押し紙」144万部による収入試算

結論を言えば年間で259億2000万円の不透明な収入が「押し紙」により生まれた試算になる。これが粉飾に該当するかどうかは、さらなる検証が必要だが、わたしは少なくとも「販売収入」には該当しないと考えている。

新聞社経営に汚点がある事実を公権力が把握したとき、ジャーナリズムは成立しなくなる。日本の新聞社が抱えている「押し紙」問題とは、ジャーナリズムの問題でもあるのだ。この点を避けていくら紙面を批判し、記者を罵倒しても問題の解決にはならない。

2015年07月23日 (木曜日)

通常の3倍に、送電線などの低周波電磁波による小児白血病の発症率、日常生活に入り込んだ電磁波のリスク

【サマリー】 1995年、テレビ朝日の「ザ・スクープ」が「高圧線の電磁波 人体への影響は?」と題するドキュメントを報じた。しかし、その後、この種のテレビ報道が途絶えている。その一方で配電からもれる低周波電磁波に遺伝子毒性があるとする研究が相次ぎ、2001年にはWHOも低周波に発ガン性の可能性があることを認定した。

 低周波電磁波は配電線だけではなく家電製品からも放射されている。その意味では日常生活に深く浸透している電磁波で、ガンが増えている隠れた要因にもなっている。が、電磁波問題は電力会社・電話会社・電気メーカーの利権が絡んでいるので日本では報じられない。

1995年、テレビ朝日の「ザ・スクープ」が「高圧線の電磁波 人体への影響は?」と題するドキュメントを報じてのち、電磁波問題をテーマとした本格的な調査報道が途絶えている。地方のレベルでこの種の問題を単発的に報じることはあっても、中央のテレビ局が本腰を入れて取り組むことはなかった。すくなくともわたしが知る限り電磁波に関する報道は自粛されている。

電磁波問題といえば、携帯電話の基地局から放射されるマイクロ波が人体におよぼす影響が徐々に知られるようになって来たが、送電線から漏れる電磁波による人体影響については、「ザ・スクープ」を例外として、テレビではほとんど報じられていない。

携帯基地局と同様に送電線も簡単には撤去できないので、これらの設備から放射される電磁波が及ぶ範囲に住んでいる人々は、受動喫煙と同じ原理で電磁波の被害を受けることになるのだが。深刻な問題であるはずなのだが・・

「ザ・スクープ」の冒頭でキャスターの鳥越俊太郎氏は、次のように電磁波問題の中身を指摘している。

「高圧送電線から出されております電磁波を長期間浴びておりますとガンや白血病にかかりやすいのではないかという指摘が一部欧米でなされるようになりました」

番組では送電線の直近に住んでいる家族が次々と白血病になったイギリスの例や、学校のすぐそばを走る高圧線が原因で生徒や教員が白血病になったとして裁判を起こした米国の例などが紹介されている。

◇低周波電磁波からガンマ線まで

しかし、電磁波と言っても、厳密に言えば様々な種類のものがある。それを分類するひとつの基準が周波数の違いである。周波数が高ければ高いほどエネルギーが強い。その頂点として一般的によく知られているものとしては、原発のガンマ線がある。ガンマ線ほどのエネルギーはないが、レントゲンに使われるX線も電磁波の仲間である。

携帯電話・スマホ・電子レンジなどは、マイクロ波と呼ばれる電磁波の領域に入る。そして「ザ・スクープ」が取り上げた送電線からもれる電磁波は、低周波電磁波と呼ばれる。

家電製品などからも低周波電磁波は放射されているので、ある意味では数ある電磁波の中でも低周波電磁波はもっとも日常生活の中に入り込んでいるとも言える。それだけにガンなどの隠れた要因になっている。

1980年代ごろまでは、電磁波の仲間のうちで人体影響を及ぼすものは、紫外線・エックス線・ガンマ線などエネルギーが強い電磁波だけに限られ、マイクロ波や低周波電磁波は安全と考えられていた。しかし、現在ではすべての領域の電磁波に遺伝子毒性があると考えるのが定説になりつつある。

事実、WHOは低周波電磁波に発ガン性の可能性があることを2001年に認定している。また、2011年にはマイクロ波についても同じ認定をしている。

◇小児白血病のリスク

すべての領域の電磁波が危険とする見解が浮上する最初の事件は、米国のナンシー・ワルトハイマー博士による疫学調査だった。1979年に発表された論文で、配電線や変電所の近くに住む子供たちの間で、小児白血病や脳腫瘍にかかる割合が高いことを明らかにした。小児白血病の場合、発症率は通常の2.98倍という結果がでた。

この論文が引き金となって、従来は人体影響がないと考えられていた低周波電磁波の安全性を検証する作業がはじまったのである。そして1992年に世界でもっとも権威がある研究所のひとつであるスエーデンのカロリンスカ研究所が、衝撃的な調査結果を公表したのである。

それによると配電線や変電所の近くに住む子供の小児白血病発症率は通常の3.8倍(3ミリガウス以上の被爆)というものだった。「ザ・スクープ」が送電線から漏れる電磁波の問題を取り上げたのは、この発表が行われてから3年後である。

◇大阪府門真市の送電線問題

実は日本でも低周波電磁波による深刻な被害が発生している地域がある。大阪府門真市である。変電所に隣接するかたちで高圧電線の鉄塔が密集した地域があり、そこで白血病やガンが多発しているらしい。

約160世帯で70人以上がガンで亡くなっているとする情報もある。情報の正確な根拠はよく分からないが、2010年にわたしが現地を取材した際、それを裏付ける証言をたくさん得た。ガンか白血病になったひとが身の回りにいるか、という問いに対して複数の住民から「いる」という返答があった。

日本におけるガン発症件数は、携帯電話の普及がはじまった1990年代から急上昇しているが、もうひとつの要因に低周波電磁波による被爆も原因している可能性もある。ちなみに携帯電話には、マイクロ波と低周波を組み合わせた変調電磁波が使われている。

電磁波は新世代の公害である。危険が指摘されはじめたのが1980年代で、すべての領域の電磁波に毒性があるとする説が有力になったのはつい最近のことである。が、メディアはそれを報じない。IT産業の育成が国策になっているうえに、電力会社・電話会社・家電メーカーが大口の広告主である事情がその背景にあるからではないだろうか。

【補足】この記事を掲載した後、読者から次のような指摘があった。

「1995年以降の、少なくとも2000年以降は以下の3回ほど、テレビで、電磁波に関する報道が行われています。

*日本テレビの「電磁波」番組   
 2004年5月4日 ニュース番組「今日の出来事」の中の特集記事として、
電磁波過敏症・家庭内の低周波電磁波等に関する放映がありました。

*2002年10月28日 TBS TV ニュースの森 の特集「電磁波」

*日本テレビ WakeUPの電磁波報道 2003年3月3日

これ以外にもあるかもしれません。
ただし、この10年間はないのかもしれません。」

 

2015年07月22日 (水曜日)

「押し紙」70年④、「押し紙」の経理処理のプロセスで販売収入の「粉飾」が必然に、東芝の比ではない

【サマリー】1960年代に続いて70年代も「押し紙」が大問題になっていた。関係者は、「押売や包紙は文化国家の恥である」とまで発言している。

 この「押し紙」問題を経理の観点からみると、「粉飾」の問題が浮上してくる。実際には読者に届いていない新聞から販売収入が発生したことにして経理処理するのであるから、当然、粉飾が必然的になる。東芝の比ではない。

 当然、経営の好調さをPRしている新聞社が「押し紙」の経理処理のプロセスで販売収入を粉飾していないかどうかも検証する必要がある。

「押し紙」は、1960年代には既に新聞業界の問題になっていた。日販協(日本新聞販売協会)が発行する『日販協月報』のバックナンバーには、その実態が詳しく記録されている。

1970年代に入っても「押し紙」の実態は変わらない。当然、『日販協月報』にもそれが色濃く反映している。71年1月号には日販協の常勤役員による座談会の記事が掲載されているのだが、その中である常勤役員は次ぎのように新聞発行本社を批判している。

元来新聞というものは、読者の選択によって購読されるものであり、押売や包紙は文化国家の恥である。

引用文の「押売」が、この場合、強引な新聞拡販ではなくて「押し紙」を意味することは、この座談会のサブタイトルが「押紙や抱紙は文化国家の恥」となっていることからも察せられる。

また「抱紙」とは、新聞販売店の側がみずから率先して配達部数を超えた部数の新聞を仕入れる行為を意味する。なぜ、このようなことをするのかの説明はやさしい。おおむね2つの理由が考えられる。

折込広告の搬入枚数は、新聞の仕入れ部数に比例させる原則があるので、仕入れ部数を増やせば折込広告の割り当て枚数が増え、それにより「押し紙」によって生じる損害を相殺できるうえ、さらにそれ以上の折込広告手数料を得ることが可能になる場合があること。このような状況は、折込広告の需要が多い地域で起こりやすい。

「押し紙」の受け入れを断れば新聞社との関係が悪くなり、強制改廃されたり補助金をカットされるなどの「報復」を受けるリスクが生じること。

◇「押し紙」による粉飾

ところで「押し紙」問題が誘発する経理上の問題も見のがせない。「押し紙」制度は実際には読者の手元に届いていない新聞の購読料を「販売収入」として計上するものであるから、社会通念からすれば完全な粉飾である。東芝の比ではない。

わたしはこの点について、「押し紙」取材をはじめた1997年ごろに、全販労(全国新聞販売労働組合)の沢田治事務局長に事情を問うたことがある。その時、沢田氏は次のような趣旨の説明をされた。

「明らかな粉飾なのに、問題がないというのが国税局の見解です」

その後、わたしは同じ質問を産経新聞四条畷販売所の今西龍二所長に投げかけたことがある。今西龍二所長は次のように説明した。

「税務署から粉飾を指摘された時は、国税局の●●さんに電話するように新聞発行本社から指示を受けている。電話番号も聞いている」

●●さんとコンタクトを取れば内密に粉飾問題を処理してくれるということらしい。

改めて言うまでもなく「押し紙」は同時代の問題であるから、現在も「押し紙」の経理処理は粉飾が暗黙の了解になっている可能性が高い。実際には販売されていない新聞を販売されたものとして経理処理するのであるから、重大な問題を孕んでいるのである。

◇虚勢を張っても本当は経営難?

公権力にとってメディアをコントロールする手口は、経営上の弱点を把握して、暗黙のうちに「恫喝」することである。紙面で政府に批判的な論調を張れば、「押し紙」問題にメスを入れますよと仄めかすことで、新聞人は黙り込んでしまう。

「押し紙」による粉飾が暴露されたら、いくら虚勢を張っていても本当は経営難であることが公になるだけではなくて、メディア企業としての信頼が失墜してしまうからだ。

2015年07月21日 (火曜日)

ジャーナリスト安田純氏がシリアで拘束された可能性、報じられない背景に特定秘密保護法に対する警戒心か?

【サマリー】ジャーナリストの安田純氏がシリアで拘束されている可能性が高まっているが、メディアはそれを報じようとはしない。軍事がらみの事件だけに特定秘密に指定されている可能性が高く、メディアもそれを警戒した結果ではないかと思われる。

一方、安保関連法案をめぐるニュースは、採決直前になって、NHKを含む大手メディアも法案に反対する動きを積極的に伝えたが、報道のタイミングが遅すぎた。採決直前に、あるいは法案が採決されてから報道しても意味がない。 日本のメディアはますます権力構造に巻き込まれている。

ジャーナリストの安田純平氏がシリアで身柄を拘束された可能性が高まっているにもかかわらず、大半の大手メディアは沈黙を守り、これを報じたのは産経新聞とCNNだけだった。

17日付けCNNの記事を引用してみよう。

東京(CNN) 消息不明となって3週間以上が経つ日本のフリージャーナリスト、安田純平氏(41)の安否への懸念が高まっている。

 6月23日、安田氏はトルコからの電話で親しい友人に、シリアに入国する計画だと語ったという。安田氏は過去にもシリアで取材した経験がある。この友人(匿名を希望)は、安田氏がイスラム過激派によって身柄を拘束された可能性が高いとの見方を示した。

 安田氏の短文投稿サイトのツイッターへの投稿も、6月20日以降途絶えている。安田氏は最後の投稿で「これまでの取材では場所は伏せつつ現場からブログやツイッターで現状を書いていたが、取材への妨害が本当に洒落にならないレベルになってきているので、今後は難しいかなと思っている」と述べていた。

 日本の岸田外相は10日の記者会見で質問に答え、安田氏の安否についての情報には接していないと述べた。これにより、安田氏の安否をめぐる懸念は高まった。

 折しも衆院では、第2次世界大戦後初めて、海外での自衛隊の戦闘行為を認める安保関連法案が可決された。

 安保関連法案に反対する人々は、イラクやシリアに拠点を築く過激派「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」との戦いを含む国際紛争に日本が巻き込まれるのではないかと懸念している。

 安田氏のウェブサイトによれば、安田氏は1997年に記者となり、2003年にアフガニスタンを訪問した後フリーに。イラク軍などに拘束されながらもイラクでの取材を行う。

 04年にバグダッドで武装勢力に拘束される。この時、紛争地帯に自ら足を踏み入れたにもかかわらず日本政府に解放交渉をさせたとして、一部の日本人から批判を浴びた。

◇ジャーナリストをめぐる2つのケース

周知のようにかつて日本のメディアは、この種のニュースには積極的に飛びついていた。視聴率のアップが期待できるからだ。たとえば2004年にバグダッドで高遠菜穂子氏らが武装勢力に拘束された事件は連日のようにニュースやワイドショウーに取り上げられた。

一方、後藤健二氏が巻き込まれた事件については輪郭こそ報じたが、肝心の真相を解明する作業には着手しなかった。この事件に関する情報が特定秘密に指定されている可能性が高く、どう対処すべきなのか迷走したあげく、ISの残忍性を強調しながら事件の輪郭だけを伝えるという曖昧な態度を選択したのではないだろか。もちろんこれはわたしの推測で、確固たる裏付けがあるわではないが。

今回の安田氏の件では、大半のメディアが報じないという方針で足並みをそろえているようだ。

潜入取材を行う場合、普通、ジャーナリストは定期的に協力者とコンタクトを取る。コンタクトがとれなくなった時点で、協力者は潜入の事実を公にする。公にすることで世論を喚起して、生命の危機を救うのだ。

が、安田氏のケースでは、メディアの側がこの原則を無視している。

◇特定秘密保護法にも報道自粛の要請にも従うべきではない

余談になるが安保関連法制をめぐる報道について言えば、採決の直前になってNHKを含む多くのメディアが反対派の動きを活発に伝えた。それを評価する声も多いが、わたしは報道があまりにも遅すぎたと感じている。

採決の直前になって、あるいは採決した後に安倍内閣を批判してもあまり意味がないからだ。教育基本法のケースのように安倍首相が退陣しても、改悪された法律は将来に負の影響をおよぼす。

今国会の中心的テーマが安保関連法案になることは、閣議決定の段階から分かっていたはずだ。

特定秘密保護法が成立したことを理由に報道を自粛すれば、同法の悪用がエスカレートする。メディアはますます国民にとっては不要な世論誘導の道具に変質する。特定秘密保護法にも報道自粛の要請にも従わないことが、同法を破棄させる最短の道である。

2015年07月20日 (月曜日)

ニカラグア革命36周年、『山は果てしなき緑の草原ではなく』の再読

【サマリー】 『山は果てしなき緑の草原ではなく』は、ニカラグアのFSLN(サンディニスタ民族解放戦線)に加わった戦士が著した記録文学である。大学生だった著者は、当時、ソモサ独裁政権に対峙していたFSLNに加わり、軍事訓練を受けるためにFSLNが拠点としているニカラグア北部の山岳地帯へ入る。そこで著者を待っていたのは、都会とは異質の過酷な生活だった。

 

『山は果てしなき緑の草原ではなく』は、ニカラグアのFSLN(サンディニスタ民族解放戦線)に加わった戦士が著した記録文学である。1982年にキューバのカサ・デ・ラス・アメリカ賞(El Premio Casa de las Américas)を受けた作品だ。

7月19日は、ニカラグア革命の36周年にあたる。この時期に改めてこの作品を読み返して、西側メディアが創りだしている定型化されたゲリラ像と、元戦士による独白が描きだしたゲリラ像の違いを痛感した。

大学生だった著者は、当時、ソモサ独裁政権に対して武装闘争を展開していたFSLNに加わり、軍事訓練を受けるためにFSLNが拠点としているニカラグア北部の山岳地帯へ入る。ソモサ独裁政権は、ラテンアメリカ史の中でも、軍部と一体化した最も悪名高い独裁政権のひとつだった

山岳地帯で著者を待っていたのは、都会とは異質の過酷な生活だった。

辛いのは孤独だ。孤独に比べれば他はたいしたことないのさ。孤独こそは恐ろしく、その感情はちょっと言いようがない。実際、ゲリラには深い孤独がある。仲間がいないこと。それに都会の人間にとってあたりまえのように身の回りにあった一連のものがないこと。

忘れ始めた車の騒音の孤独。夜になって電気を懐かしく思い出すことの孤独。色彩の孤独、山には緑色と黒っぽい色しかないんだ、緑は自然そのものだ。オレンジ色はどうした?青い色がない、水色がない、紫色や藤色もない。そういった現代の色がないんだ。

君の好きな歌がない孤独。女がいない孤独。セックスがない孤独。家族に会えな孤独。君のお母さん、君の兄弟、学校の仲間に会えない孤独。教授たちに会えない、労働者にあえない、隣人に会えない孤独と喪失感。街を走るバスへの孤独、街の暑さや埃への孤独、映画に行けないという孤独。

だが、君がどんなにこれらのものを望んでも手に入れることはできないのだ。欲しいと望んでも手に入らないという意味で、それは君自身の意思に対する孤独の強制だ。なぜなら、君はゲリラを捨てることはできないからだ。君は戦うためにやってきた。そして、それは君の人生の決断だからだ。その孤独、孤独こそが、最も恐ろしいもの、最も辛く、苦しいものなのだ。

◇自由な祖国か死

本書の『山は果てしなき緑の草原ではなく』というタイトルは、示唆に富む。
「山は」単に「果てしなき緑の草原ではなく」て、新しい価値観をもった人間を生み出していく場であるという暗示である。が、それは決してユートピアの類ではない。

ニカラグア革命には、「Paria Libre o Morir」(自由な祖国か死)というスローガンがあった。選択肢は2つしなかい、自由な祖国で生きるか、死を選ぶかという意味である。

自由のない祖国とは、独裁者ソモサによる強権政治が支配する国だった。

◇世代から世代へ

しかし、思想だけでは社会変革はできない。『山は果てしなき緑の草原ではなく』には、命を懸けて戦っている若者たちに協力する人々の姿も描かれている。

著者は、「山」での経験を積んだ後、都市部のオルグ活動を担当する。しかしFSLNが勢力を広げていくにつれて、ソモサ独裁政権による弾圧も激しさを増していく。「山」とは異なり、都市部では隠れ家が必要だ。食糧も手に入れなければならない。

そんな時に著者をかくまってくれたのが大学の友人たちであり、教会の神父だった。さらにはFSLNのシンパたちがあちこちにいた。これらの人たちは、年老いてすでに戦闘には参加できないが、40年前に米国海兵隊がニカラグアを占領した時代に、民族主義者・アウグスト=セサル=サンディーノが指揮するゲリラ戦に加わった人々だった。

『山は果てしなき緑の草原ではなく』を読むと、民族自決の戦いが世代から世代へと受け継がれてきたことが読み取れる。しかも、FSLNに協力する民衆の姿も描かれている。ラテンアメリカ民衆とは何かを考える恰好の書だ

■『山は果てしなき緑の草原ではなく』(オマル=カベサス、大田昌国・新川志保子訳、現代企画室)

2015年07月17日 (金曜日)

安保関連法案の衆議院通過で露呈した小選挙区制の矛盾、民意を反映しない議席配分

【サマリー】各種の世論調査によると、安保関連法案に反対する意見が圧倒的に多い。しかし、自公政権は、安保関連法案を強行採決した。この問題の根底には、現在の小選挙区制が民意を反映しないかたちで、議席を配分している実態がある。

 

小選挙区制の導入に努めた小沢一郎氏の責任は重大だ。小選挙区制を改めない限り、今後も民意とはかけ離れたところで政治が行われ、改憲、徴兵制へと進んでいく可能性が高い。

安保関連法案をめぐる与野党の攻防の中で、水面下である亡霊が輪郭を現している。それは小選挙区制の問題である。

民意が国政に反映する体制があれば、世論動向と政策は方向を同じにするはずだが、安保関連法案に関しては、それと鋭く対立する結果を生んでしまった。

メディア各社が実施した世論調査-安保関連法案の是非を問う調査-の結果は、次のようになっている。

【共同通信】(6月20日、21日)
法案に「賛成」:27・8%、
「反対」:58・7%。

【毎日新聞】(7月4日、5日)

法案に「賛成」:29%、
「反対」:58%

【朝日新聞】
法案に「賛成」:26%
「反対」:56%

法案に反対する世論が圧倒的だ。
一方、法案を強行採決した自民党と公明党の衆議院議員数は次の通りである。

自民党:291議席
公明党:  35議席
(全体は、475議席)

議席の占有率でみると、自公の両党で約69%。ちなみに前回の衆院選における自公の比例区得票率は、47%である。47%の得票率で、69%の議席を占有したのだから、小選挙区制という選挙制度そのものが民意を正しく反映していないことを意味する。

事実、戦争に反対する圧倒的な世論を押し切って、自公が安保関連法案が成立させる事態が起きた。さらに、たとえ参議院で可決に至らなくても、衆議院で3分の2の賛成を得れば法案を成立させることができる「60日ルール」が適用されかねない事態になっている。

小選挙区制で得た「不当」な議席が、数の論理で暴走を始めているのだ。

◇2大政党制のトリック

小選挙区制は、1996年の衆院選から実施された。橋本内閣の時代である。
しかし、小選挙区制の案が本格化したのは、それ以前の時期、急進的な構造改革=新自由主義の導入を主張する小沢一郎氏らが中心となっていた新進党政権の時代である。

小選挙区制を導入することで2大政党制を確立し、構造改革=新自由主義と軍事大国化を迅速に進めたいという小沢氏らの思惑があったようだ。そのために小選挙区制を導入して左派勢力を国会から排除しようとした。実際、社会党は解体に等しい状態に陥った。共産党も伸び悩む。

2大政党制における「2大政党」とは、改めて言うまでもなく、自民党と新進党(後に民主党)である。これらの2政党は、枝葉末節の違いはあるにしても、構造改革=新自由主義の導入と軍事大国化という2つの基本政策では、ほとんど変わりがない。両党とも財界の要求にこたえている。

それゆえに小選挙区制の下で、対立する政党であるかのようなポーズを取り、政権を競いながら、どちらが政権を取っても、結局は同じ方向へ進むという壮大なトリックが成立していたのである。

事実、PKOに始まり、周辺事態法、テロ特措法、有事法制と進んでいった日本の軍事大国化の過程で、民主党はしばしば自民党に協力してきた。構造改革=新自由主義の導入に至っては、最初に構造改革を叫んで、自民党を飛びだしたのは、「非自民」の側である小沢一郎氏らにほかならない。

それに反応して、自民党も「構造改革=新自由主義」の党に変貌したのである。その頂点に立っているのが、安倍内閣にほかならない。

こうした悲劇の生みの親ともいうべき、小沢氏が「生活の党」の党首として、安保関連法案に反対する野党側に席を連ねているのを知ったとき、わたしは、「この人は本当に政治を理解しているのだろうか?」と真剣に疑わざるを得なかった。

小選挙区制を廃止しなければ、日本は改憲、徴兵制へと進んでいくだろう。

2015年07月16日 (木曜日)

安保関連法案の報道で何が隠されているのか?左派メディアも伝えない本質とは、多国籍企業の防衛作戦としての海外派兵、前例はラテンアメリカ

【サマリー】安保関連法案の本質について隠されている重要な点がある。それは企業の多国籍化と海外派兵の関係である。安倍内閣が目指しているのは、旧日本軍式の軍事大国ではない。海外進出企業の権益を政変などから守るための自衛隊の派兵である。こうした観点は、前世期までのラテンアメリカと米国の関係を検証すると明確になる。

特に中米では、米国のフルーツ会社の権益を政変から守るために海外派兵が繰り返されてきた。安倍政権は財界の要求に応じて、海外派兵の体制を構築しようとしているのである。それは同時に米国の要求でもある。

安倍政権が、衆議院特別委員会で安保関連法案を強行採決した。

採決が近づくにつれて、NHKも含め、マスコミは採決に反対する国民の声も報じるようになった。しかし、それはひん死の状態に陥った負傷者を延々と放置したあと、あわてて応急措置をとったに等しい。もやは手遅れだった。

ところて安保関連法案に関して、『しんぶん赤旗』など左派系メディアも含めて、絶対に報じない肝心な部分がある。安保関連法案の隠された目的である。もちろん一般論としては、「米軍と一緒に戦争ができる国」にすることが安保関連法案の究極の目的であるという漠然とした理解は周知となっている。それが誤っているわけでもない。

しかし、「米軍と一緒に戦争ができる国」の具体像が何かという点にまで踏み込んで考えたとき、派兵の目的を誤解していたり、具体像を持っていない人々が少なくないようだ。

安倍政権が目指している戦争のタイプは、旧日本軍のように他国を侵略して、陣地を築き、蛮行の限りを尽くして、最終的に他国を植民地にするというような類型ではない。そうではなくて、多国籍企業の権益防衛のための兵力投入という類型である。そのために世界のあらゆる地域へ、ピンポイントに派兵できる体制の構築が前提条件になっているのだ。

◇新自由主義と海外派兵

なぜ、安倍政権は、軍事面で多国籍企業を防衛する体制を作ろうとしているのだろうか?答えは簡単で、新自由主義の経済政策を押し進めるなかで、日本企業の多国籍化が急激に進んでいるために、財界から派兵体制を構築する強い要求が出ているからだ。その要求が米国からの要求とも一致した結果、安保関連法案の強行採決に至ったのである。

次の記事は、2001年から2013年までの間に経済同友会が発表した軍事大国化の要求を盛り込んだ提言を整理したものである。これらの提言には、多国籍企業の防衛部隊としての海外派兵という視点が現れている。

■参考記事:経済同友会の提言が露呈する多国籍企業の防衛戦略としての海外派兵、国際貢献は口実

◇渡辺治氏らの指摘

わたしが調べた限り、安保法制の問題を企業の多国籍化という視点から論じているメディアや研究者はほとんどいない。唯一の例外は、一橋大学名誉教授の渡辺治氏である。渡辺氏の一連の著書は、この問題について、かなり深く踏み込んでいる。安倍政権が目指す軍事大国と、旧日本軍が主導した軍事大国には質的な差があることも明らかにしている。

さらにジャーナリストの斉藤貴男氏も、どこかでこの点に言及していたように記憶している。

◇ラテンアメリカと米軍

わたしが海外派兵と多国籍企業の関係を考えるようになったのは、1985年にニカラグアなどの中米紛争を取材した時期だった。中米には米国のフルーツ会社が進出している。そこにはパイナップルやバナナを米国へ向けて輸出する体制があった。

その中米で1979年に起こったのが、ニカラグア革命である。この革命にはキリスト教の関係者も含めて、広範な人々が参加したが、実質的には左派の流れを目指した大変革だった。「極めて純粋」な革命として評価が高く、アルゼンチンの作家・フリオ・コルタサルなども、ニカラグアを訪れ、そこに新しいラテンアメリカの原点を発見し、支援に乗りだした。

ニカラグア革命に影響された隣国エルサルバドルの左派は、翌年、FMLN(ファラブンド・マルティ民族解放戦線)を結成して、首都に向けて大攻勢をかけた。

そのころ一連の中米紛争は、「昨日はニカラグア、今日はエルサルバドル、明日はグアテマラ」と評されていた。ニカラグア、エルサルバドル、グアテマラの順に中米は大変革をまぬがれないだろという予測である。

が、ニカラグア革命の影響が広がるのを恐れた米国は、レーガン政権の下で、ホンジュラスの基地化に踏み出した。ホンジュラスは、ニカラグア、エルサルバドル、グアテマラの3ヶ国と国境を接しているので、ここを米軍のプラットホームにすれば、中米全体の左傾化の流れを防止できると読んだのである。

実際、米国はニカラグアの新政権に対しては、傭兵部隊を使った攻撃をホンジュラスから仕掛け、エルサルバドルのFMLNに対しては、同国の政府軍に肩入れすることで、FMLNの撲滅作戦を展開したのである。軍事面で資金援助したことはいうまでもない。

グアテマラに対しては、ニカラグアとエルサルバドルに対する内政干渉ほど露骨な軍事介入こそ控えたが、それはこの国の左派勢力が、軍事力によりある程度まで押さえ込まれていたからだ。グアテマラの場合、1954年にUFC(ユナイティド・フルーツ・カンパニー)とCIAによる軍事クーデターにより、米国の傀儡(かいらい)政権が成立していた。

そのために人権侵害の実態は、ニカラグアとエルサルバドルよりも遙かに深刻だった。たとえば『私の名はリゴベルタ・メンチュー』(新潮社)などには、先住民族虐殺の実態などが詳しく記録されている。

米国とラテンアメリカの関係をみると、多国籍企業と海外派兵がどのような関係にあるのか、その輪郭が見えてくる。そこから安倍政権が目指そうとしている軍事大国の本質や目的が推測できるのである。

■写真:多国籍企業の農園、撮影1992年、サン・ペドロ・スラー、ホンジュラス。

2015年07月15日 (水曜日)

「EUはラテン・アメリカの二の舞を演じている」、ギリシャの悲劇にエクアドルのラファエル・コレア大統領が警鐘

【サマリー】ギリシャ危機のキーワードは、「緊縮策」である。が、この「緊縮策」という言葉は分かりにくい。結論を先にいえば、それは新自由主義である。ラテンアメリカは、1980年から1990年代にかけてIMFより融資の条件として新自由主義を押しつけられた。その結果、財政が破綻した。

同じ悲劇がEU諸国で起ころうとしている。こうした実態に、エクアドルのラファエル・コレア大統領が警鐘を鳴らしている。

意図的に難解な言葉を使って物事の本質を隠すのは、世論誘導の典型的な手段である。ギリシャの金融危機を報じる際にメディアが盛んに使っている言葉のひとつが、「緊縮策」である。

「緊縮策」という言葉がかもしだすイメージは、お金の無駄づかいや浪費を改める政策だ。が、その政策の中身は、国民の生活権や尊厳を守るために必要不可欠な予算をカットする政策にほかならない。

事実、EU側は、ギリシャ政府に対する借換融資の条件として、年金の支給開始年齢を5年も引きあげることなどを要求してきた。

「緊縮策」とは、正しくは新自由主義のことである。新自由主義に基づいた「緊縮策」を採用することで、「小さな政府」を構築して、医療や福祉など公的支援の範囲を縮小する一方で、政府が放棄した公的サービスを民間企業へ新市場として提供する企業利権がらみの政策である。

EUは、融資の条件として、新自由主義をギリシャに押しつけてきたのである。

ちなみに安倍政権が押し進めているのも、新自由主義である。福祉や医療などの「緊縮策」を前面にだしながら、同時にITなど将来が有望視される産業に対しては、財政支援を積極的に行う型の新自由主義である。

◇「EUはラテン・アメリカの二の舞を演じている」

しかし、新自由主義が経済政策として機能しないことは、ギリシャに例を取るまでもなく、既に同時代史が証明している。その典型はラテンアメリカである。

2013年、『ルモンド』は、エクアドルのラファエル・コレア大統領によるcと題する講演を収録している。

IMFなどの国際金融機関はラテンアメリカ諸国に対して、融資の条件として新自由主義の政策を実施するように押しつけたのである。

1980年代初頭、ラテン・アメリカだけではなく世界中で新型の開発モデルが頭角を現し始めた。《新自由主義》である。開発戦略に関するこの新しい総意には「ワシントン・コンセンサス」という異名がついたが、それはその主要な企画と推進を、ワシントンに本部を置く多国籍金融機関が行なっていたからである。

今流行りのロジックで言うと、ラテン・アメリカに危機をもたらしたのは、国の経済が過度に干渉されたこと、適切な自由価格システムがなかったこと、国際市場から離れた場所にあること、などである。こういった特性の根源は、輸入に代えて国内産業を活性化させようという[新自由主義の]中南米モデルにあったのだ。

今EUを苦しめている債務は、新自由主義的原理主義によって生み出され悪化したものである。われわれは世界各地域の主権や独自性を尊重はするが、いかにも賢明なヨーロッパが、ラテン・アメリカが過去に犯した過ちをあらゆる点で繰り返しているのを見て、驚いている。

■ラファエル・コレア大統領の講演PDF

◇ラテンアメリカの激変

しかし、歴史というものは皮肉なもので、ラテンアメリカは新自由主義の悲劇を経験したがために、今世紀に入る直前から急激に変化した。新自由主義からの脱却をはかり、きわめて柔軟な左翼よりの路線を選択しはじめたのだ。

ベネズエラを筆頭に、次々と左派、あるいは中道左派の政権を誕生させた。それしか選択肢がなかったのだ。もちろんこうした流れが生まれた背景には、長いあいだラテンアメリカの民族自決が踏みにじられて、その反動として伝統的に社会運動が活発だった事情もあるが、最大の要因は新自由主義の失敗である。そこへ政治の力学が働いて、新しい歴史の段階へと踏み出したのである。

最終的なゴールが「企業がいちばん活動しやすい国」ではなく、福祉国家の実現にあることはいうまでもない。

2015年07月14日 (火曜日)

山河」滅ぼした自民、「国の安全」を語る資格ありや、長良川河口堰閉門20年、集会に参加して①

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者、秘密保護法違憲訴訟原告)

「国破れて山河在り」。でも、「山河」さえ壊したこの国の政治家と官僚に、「国の安全」を語る資質も資格もあるのだろうか。先の見えないこの国に行く末…。私は「杜甫」(とほ)の詩の1節を思い出しつつ、暗澹たる思いで三重県の伊勢湾河口から岐阜県にかけて長良川堤を歩いた。

「無駄な公共事業の典型」と言われた長良川河口堰。「本州で唯一、ダムのない川の環境を壊すな」との激しい反対運動が繰り広げられたのは1980年代後半から90年代。それを押し切り、国が堰の水門が閉じ、長良川を海から隔絶したのは、1995年7月だった。

それから20年。「豊かな恵みをもたらす『母なる川』の長良川を元に戻せ」と、あきらめずに堰の開門を求める人たちが地元には多く残っている。そんな人たちが5日に岐阜市で開いた集会「よみがえれ長良川、開門調査実現を」に、河口堰とは浅からぬ関係にある私も参加した。

◇死の川と化した長良川

前日の4日、「今の長良川の現状を見てください」と、地元の人たちが堰のある伊勢湾河口を出発点に上流に向けて案内してくれた。河口付近では、背割り堤一つ隔てて揖斐川と並行して流れている。船に乗り、まず堰のない揖斐川の底をすくうと、砂地でシジミも何個か取れた。

次に堤を回り込み、長良川側に出た。底にはヘドロがびっしり溜まり、異臭を放っていた。低酸素状態で、もちろんシジミはいない。堰で流れが止まったら堰の上流でヘドロがたまることは、私にも容易に想像出来た。しかし、水門下流の海側でこれほどとは…。満潮時、逆流したごみが堰で止められて沈み、ヘドロ化するのだという。

堰を超え、上流側に回り込んだ。もちろんそこにも大量のヘドロが溜っていた。「清流」「唯一の自然河川」と多くの人から親しまれた長良川は、堰で海と隔絶されたことで、自然の営みが出来ず死に絶えていた。

堰建設前はアユ、サツキマス、ボラ、スズキ…。潮の干満で海と川の水が混じる汽水域を通って多くの魚が行き来した。海で育った魚が川に上り、また川を下って海に出た。その魚を狙う漁師の小舟が浮かぶのが、日本の原風景でもあった。しかし、魚の棲まない川に舟も浮かんでいなかった。
ヨシハラ堰から上流に向けて10キロ余り、背割り堤の上を走った。
右に長良川、左に揖斐川。堰のない揖斐川には青々と育ったヨシ原が続く。しかし、長良川河原はヨシの姿が消え、セイタカアワダチソウなどの雑草や雑木が生い茂る。

揖斐川のヨシ原に降りた。ベンケイガニがうようよ。あっという間にバケツ一杯採取出来た。一方、長良川河原にも棲んでいたこのカニの姿はなく、以前見られない赤い脚のカニが数匹取れただけ。

◇長良川の天然アユが準絶滅危惧種に

堰がなく、満潮・干潮の影響を受けて水位が上下する揖斐川は、ヨシの根にも酸素が供給され、元気に育つ。一方、長良川は堰で隔絶さえ潮の干満による水位の変化さえなくなった。ヨシも育たず、よどんだ巨大な溜池と化していた。

ヨシの根っこには多くの魚が卵を産み付け、孵化した幼魚にとっては、外敵に狙われにくい恰好の棲家。ヨシ原のなくなった長良川で生物の営みが消えたのは当然だったのだ。

岐阜市は今年、鵜飼で知られる長良川の天然アユを準絶滅危惧種に指定した。アユは、春から夏海から、上・中流部に遡上。岩に着いたコケを食べて成長し、秋に河口堰のある下流部に降りて産卵。孵化した稚魚は海に出て、春になると、また川を上る。

しかし、堰から上流30キロほどまでが「溜池」になった長良川では、川底の岩はヘドロで覆われ、アユの食べるコケも生えない。ヨシ原がなくなれば、安全に過ごす棲家もない。せっかくアユが卵を産んでも死滅する。今は「溜池」までアユが降りて来たとき、漁師がすくって堰の下までトラックで運んでいる。もう、人間の手をかけてやらないと、アユは「自然」では生きられなくなっていた。

木曽、長良、揖斐。木曽三川の流れが集まる伊勢湾河口部の河原には、週末になると多くの家族連れが訪れる。バーベキューに興じ、たっぷりの自然エネルギーをもらって帰っていく。

でも、命の息吹がなくなった長良川には、もらうべきエネルギーがない。古代から水辺で生きて来た「人」という種族は、そのことを敏感に感じるのだろう。堰建設以来、元気に遊ぶ子供たちの声は、揖斐,木曽の河原からは聞こえても、長良からは途絶えた。

◇長良川の開門を求める人々

翌5日、岐阜市の国際会議場での集会。広い大会議室が満員になった。多くの人がまだまだ長良川をいとおしく思い、蘇らせることに執念を燃やしている表れだ。

80歳を超える今まで漁師として長良川とともに生きて来た大橋亮一さん。「堰が出来て3年ほどは、普通に魚が獲れ、堰は心配したほどではないと思った。だが、4年後あたりからみるみる魚が減った。堰が出来ても、それまで棲んでいた魚は何とか生きられた。

でも、産卵の環境がなくなり、稚魚が育たない。海につながっての川だ。自然の循環がなくなり、私たちが育った長良川は死んだ」と語り、改めて生態系を人間が壊したことに怒りを込めた。

今は鵜飼舟の船頭。大橋さんのような川漁師にあこがれる30代の平工顕太郎さん。「漁で妻、子供を養えるようにしたい。自然の長良川が蘇えるように開門実現にぜひ皆さんの力を貸して下さい」と、熱い思いで訴えた。

◇国土交通省、「無駄な公共事業でなかった」

堰で長良川が死ぬことは、多くの人が恐れ、警告して来た。しかし、「将来、必ず水が足らなくなる」「堰を造らないと、水害の心配がある」と強引にその声を封じて、建設に突き進んだのは、この国の官僚と政治家。その周りに利権目当ての人が巣食っていた。住民が最後の砦として、司法に判断を委ねても、裁判官は聞く耳さえ持たなかった。

しかし、水需要は増えるどころか、この20年間ますます減った。河口堰の水など一滴も必要としていないのだ。だが、国土交通省は河口堰で溜めた水が1部使われていることを理由に、「無駄な公共事業でなかった」と強調する。

確かに河口堰で生まれる毎秒22.5トンの水のうち、愛知県知多半島の水道用に2.95トン。三重県津地域と合わせ3.5トン余りが供給されている。知多半島へはわざわざ多額の費用をかけて、導水路まで造った。

しかし、そのカラクリを知多半島に住み、「河口堰の水を考える住民の会」世話人の宮崎武雄さんが教えてくれた。

「知多半島には、『工業用水』として確保した木曽川の水が大量に余り、『暫定』として水道用に供給されて来た。しかし、『河口堰が出来たから』として、強引に『暫定利用』をやめさせ、河口堰の水に切り換えさせた。

しかし、工業用水は使うあてがなく、その分大量に伊勢湾に垂れ流している。何のことはない。国交省のアリバイ作りにされただけです」

「知多半島の住民は、堰が出来たことで、それまでの美味しかった木曽川の水が飲めなくなった。代わりに河口堰に溜った臭い水を飲まされている。しかも、堰の建設負担に加え導水路を作ったことで水道料金は大幅値上げになった」。

治水も同様だ。国交省では2004年、想定を超える毎秒8000トンの大雨が降っても、堤防下2メートルの安全ラインをさらに1.5メートル以上下回ったとして、堰の治水効果を強調する。しかし、この事実こそ実は、「治水のために、堰は不可欠」との宣伝が大ウソだったことの何よりの証明なのだ。

◇長良川河口堰問題の再検証

この点は私の著書「報道弾圧」(東京図書出版)を読んでもらえば分かる。当時の建設省は堰建設前の1990年、堰がなくても長良川は想定される最大大水、毎秒7500トンが流れても、水位は安全ラインの下しか来ず、治水上堰が不要なことを水位計算で十分承知していた。

しかし、私の取材が進み、この計算結果が露見するのを恐れた。なんとしても堰を建設しようと、計算を左右する川底の摩擦の値(粗度係数)を操作。あたかも最大大水では、堤防の安全ラインを超えるかのデッチ上げ水位図を描いて見せ、「治水上、堰が必要」と宣伝、着工に漕ぎつけた。

しかし、この時、建設省がデッチ上げた係数の値が本当に正しいなら、2004年の大雨での水位は、安全ラインぎりぎりか、少し上回らなければならない。しかし、1.5メートル以上下だったということは、この係数の値がウソだったことの証明、治水上過剰投資だったことを物語っている。

つまり、多額の税金を投入し、ウソと言い訳に塗り固めて造った河口堰は、無駄であるだけでなく、人々の川での営みまで壊した。集会では、「河口堰がなくなっても誰も困りはしない。とにかく一刻も早く堰のゲートを開門し、海とつながった長良川に戻してほしい」との声が相次いだ。

◇記事は没に、記者職は剥奪

官僚と政治家のウソを暴く私の河口堰取材は、建設省の極秘資料の入手により、完璧に裏付けが取れていた。しかし、記事にならないまともな理由すら説明しないまま、朝日幹部は止めた。裏によほど後ろめたい理由があったのだろう。ほとんどの記事はボツにされ、異論を唱えた私は記者の職を追われた。

もし、私に朝日を辞める勇気があり、真実を明らかに出来たなら、河口堰工事は止められたかも知れない…。私は何より長良川にすまないとの思いで、ずっと気にかかっていた。

でも、官僚や政治家、住民の声も聴かず着工にお墨付きを与えた裁判官。国民・住民の「知る権利」を裏切った朝日幹部…。彼らの中に、長良川の現状に心を痛めている人はいるのだろうか。もう頭の片隅にも多分、河口堰のことはないはずだ。

もちろん、結果に責任を取ろうとする人は一人もいない。政治、行政、司法、メディアのすべてが壊れたら国・国土がどうなるか、河口堰は身をもって教えてくれた。

「国破れて山河在り 城春にして草木深し 時に感じては花に涙を注ぎ
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」。中国・唐時代の詩人・杜甫は理想の政治を夢見て仕官の道を志す。だが、政治は腐敗し、戦争も絶えない。追われるように都を出て、失意の中で山河に心を癒された。

◇自然破壊から国土破壊へ

今、この国では、「国を守る」として集団的自衛権容認・安全保障法制で、憲法9条基軸の「平和国家」から大きく転換しようとしている。しかし、身近な「自然」すら守らない政治家・官僚が、「国を守る」と言って、誰が信用するのだろうか。

何の利点も工事をして自然破壊だけを進めて、結果に責任を取らない人たちが、この安保法制で戦争に突き進み、多くの国民の命が失われても責任を取ることはない。それも長良川が教えてくれた。

本当に「国を守る」とは、川とともに生きた大橋さんのような人たちが自分たちに身近な自然を守ることが原点にあるはずだ。「外国の脅威」などと言う人がいる。しかし、いかに邪悪な外国があったしても、長い目で見れば、美しい自然さえ残っていれば、こうした人々をその自然から引き離すことは出来ない。

安保法制が制定され、この国の軍隊が連携する国と一緒に戦うことになれば、相手国からは「敵」とみなされる。場合によっては核攻撃の脅威に直面する。杜甫はまだ美しい「山河」に癒された。でも、この国の「山河」が核攻撃で壊されるとしたら…。私たちは今後、何によって癒されたらいいのだろうか。

 

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)
フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」(東京図書出版)著者。特定秘密保護法違憲訴訟原告。

2015年07月10日 (金曜日)

「八木VS志岐」裁判の尋問、曖昧で信用できない日本の名誉毀損裁判、裁判官のさじ加減でどうにでもなるのが実態

【サマリー】名誉毀損裁判は、裁判官のさじかげんで判決に差がでるケースが多い。判断基準があいまいだ。志岐武彦氏が歌手で作家の八木啓代氏に対して200万円の支払いを請求する名誉毀損裁判では、八木氏による多量ツイートが問題になっている。これらのツイートが名誉毀損があたるのか、実際のツイートを読者に公開した。

また、「窃盗」という言葉が争点になった「黒薮VS読売」裁判を再検証する。この裁判は、地裁と高裁が黒薮の勝訴。最高裁で読売が逆転勝訴し、黒薮に110万円の支払い命令が出た。

7月8日、東京地裁で「志岐武彦VS八木啓代」裁判の本人尋問が行われた。この裁判では、歌手で作家の八木氏(被告)による一連のツイート(リツイート等も含む)が志岐氏の名誉を毀損したかどうかが争われている。

念を押すまでもなく名誉毀損裁判では、ある表現が原告の社会的な地位を低下させたかどうかが検証される。従って原告が名誉毀損的表現を主張している表現が複数件あれば、当然、そのひとつひとつを検証すると同時に、その表現がどのような文脈の中で使われているのかを総合的に把握しなければ真実には到達できない。

ところがわたしがこれまで傍聴してきた数々の裁判では、このようなプロセスは踏んでいないものが大半を占める。複数の名誉毀損的表現を絞り込んで、審理しているようだ。

8日に傍聴した「志岐武彦VS八木啓代」裁判でも、原告が名誉毀損的であるとしている八木氏のツイートのすべてを厳密な検証対象としているわけではない。

◆著名人による一連のツイート

著名人による一連のツイートにより、一市民である志岐氏がどのように社会的評価を低下させられたのか、あるいは社会的評価は低下させられていないのかの検証も十分には行われていない。

そもそも社会的評価を下すのは不特定多数の読者であるから、その読者を法廷に呼ぶことなしに検証はできない。

が、それは実質的には不可能だ。第一、だれが八木氏のツイートを読んだのかを特定することができない。第二に文章表現の受け止め方は、数学の回答とは異なり、個々人によりかなり多様性があるので、ある表現をひとつの基準ではかること自体に無理があるのだ。

ちなみに志岐氏が名誉毀損的だとしているツイートは次のようなものである。すでにネット上で公開されているものなので、ほんの一部であるがここでも紹介しておこう。

■八木氏よるツイートの例PDF①

■八木氏よるツイートの例PDF②

読者は、著名人によるこれらのツイートが一市民の社会的評価を低下させていると感じるだろうか?

◆「窃盗」という表現をめぐる論争

名誉毀損裁判では、こじつけ解釈が得意な者が勝を制すのが実態のようだ。普通の人が普通の読み方をしたときにはありえない解釈が幅をきかせて、勝敗を決することもままある。

たとえばわたしが被告になった対読売裁判のひとつがその典型である。この裁判の発端は、2008年3月1日に福岡県久留米市で起こった読売新聞販売店の強制改廃事件に端を発している。強制改廃とは、新聞社が一方的に販売店を廃業させることである。

この日、わたしは福岡県の販売店主から電話を受けた。この店主は、慌てた口調で、知人の販売店に読売の江崎法務室長ら数人の社員らが事前の連絡もなしに訪れ、店主を前に強制改廃を宣告した後、翌日の朝刊に折り込む折込チラシを、店舗から運び去ったと伝えてきた。

わたしはウエブサイト「新聞販売黒書」でこの事件の速報記事を出した。その際に、チラシの持ち去り行為を指して、「窃盗」と書いた。さらにチラシの搬出作業を行ったのが、読売の関連会社・読売ISの社員であったにもかかわらず、この点を明確にしなかった。そのために読売の社員が「窃盗」をはたらいたような印象を与えたらしい。

読売は、人権擁護団体である自由人権協会代表理事の喜田村洋一弁護士を立て、わたしに対して2230万円のお金を求める名誉毀損裁判を起こした。

当然、争点は、「窃盗」という言葉になった。地裁と高裁では、わたしが勝訴した。チラシの搬出作業は、店主の目の前で行われており、読者は読売関係者が本当に窃盗をはたらいたとはみなさないというのが、裁判所の判断だった。

つまり裁判所は、「窃盗」は文章修飾学の隠喩(メタファー)にあたると判断したことになる。メタファーとは、たとえば「あの監督は鬼だ」「人生はマラソンだ」と言った表現である。これは「鬼のように厳しい」「マラソンのように起伏がある」という意味である。

わたしは「窃盗」をメタファーとして、強制改廃直後のチラシの搬出行為を「窃盗のように悪質だ」の意味で使ったのだが、喜田村弁護士らは、メタファーを知らなかったのか、額面通りに「窃盗」が事実の摘示にあたると強弁して、フリーライターには支払い不可能な2230万円のお金を求めたのである。

余談になるが、これが人権派弁護士の実態なのだ。

ところが最高裁で状況が変わる。最高裁は、読売を逆転勝訴させることにして弁論を開き、判決を東京高裁へ差し戻したのである。そして東京高裁の加藤新太郎裁判長が、110万円の金銭支払いを命じる判決を下したのである。

わたしは今でも、読売を逆転させた加藤新太郎判事は文章修飾学の隠喩(メタファー)を知らなかったのではないかと考えている。

ちなみに加藤新太郎裁判長について調査したところ、過去に複数回、読売新聞にインタビューなどで登場していたことが分かった。

■加藤新太郎裁判長が登場した読売の紙面PDF