1. ニカラグア革命36周年、『山は果てしなき緑の草原ではなく』の再読

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2015年07月20日 (月曜日)

ニカラグア革命36周年、『山は果てしなき緑の草原ではなく』の再読

【サマリー】 『山は果てしなき緑の草原ではなく』は、ニカラグアのFSLN(サンディニスタ民族解放戦線)に加わった戦士が著した記録文学である。大学生だった著者は、当時、ソモサ独裁政権に対峙していたFSLNに加わり、軍事訓練を受けるためにFSLNが拠点としているニカラグア北部の山岳地帯へ入る。そこで著者を待っていたのは、都会とは異質の過酷な生活だった。

 

『山は果てしなき緑の草原ではなく』は、ニカラグアのFSLN(サンディニスタ民族解放戦線)に加わった戦士が著した記録文学である。1982年にキューバのカサ・デ・ラス・アメリカ賞(El Premio Casa de las Américas)を受けた作品だ。

7月19日は、ニカラグア革命の36周年にあたる。この時期に改めてこの作品を読み返して、西側メディアが創りだしている定型化されたゲリラ像と、元戦士による独白が描きだしたゲリラ像の違いを痛感した。

大学生だった著者は、当時、ソモサ独裁政権に対して武装闘争を展開していたFSLNに加わり、軍事訓練を受けるためにFSLNが拠点としているニカラグア北部の山岳地帯へ入る。ソモサ独裁政権は、ラテンアメリカ史の中でも、軍部と一体化した最も悪名高い独裁政権のひとつだった

山岳地帯で著者を待っていたのは、都会とは異質の過酷な生活だった。

辛いのは孤独だ。孤独に比べれば他はたいしたことないのさ。孤独こそは恐ろしく、その感情はちょっと言いようがない。実際、ゲリラには深い孤独がある。仲間がいないこと。それに都会の人間にとってあたりまえのように身の回りにあった一連のものがないこと。

忘れ始めた車の騒音の孤独。夜になって電気を懐かしく思い出すことの孤独。色彩の孤独、山には緑色と黒っぽい色しかないんだ、緑は自然そのものだ。オレンジ色はどうした?青い色がない、水色がない、紫色や藤色もない。そういった現代の色がないんだ。

君の好きな歌がない孤独。女がいない孤独。セックスがない孤独。家族に会えな孤独。君のお母さん、君の兄弟、学校の仲間に会えない孤独。教授たちに会えない、労働者にあえない、隣人に会えない孤独と喪失感。街を走るバスへの孤独、街の暑さや埃への孤独、映画に行けないという孤独。

だが、君がどんなにこれらのものを望んでも手に入れることはできないのだ。欲しいと望んでも手に入らないという意味で、それは君自身の意思に対する孤独の強制だ。なぜなら、君はゲリラを捨てることはできないからだ。君は戦うためにやってきた。そして、それは君の人生の決断だからだ。その孤独、孤独こそが、最も恐ろしいもの、最も辛く、苦しいものなのだ。

◇自由な祖国か死

本書の『山は果てしなき緑の草原ではなく』というタイトルは、示唆に富む。
「山は」単に「果てしなき緑の草原ではなく」て、新しい価値観をもった人間を生み出していく場であるという暗示である。が、それは決してユートピアの類ではない。

ニカラグア革命には、「Paria Libre o Morir」(自由な祖国か死)というスローガンがあった。選択肢は2つしなかい、自由な祖国で生きるか、死を選ぶかという意味である。

自由のない祖国とは、独裁者ソモサによる強権政治が支配する国だった。

◇世代から世代へ

しかし、思想だけでは社会変革はできない。『山は果てしなき緑の草原ではなく』には、命を懸けて戦っている若者たちに協力する人々の姿も描かれている。

著者は、「山」での経験を積んだ後、都市部のオルグ活動を担当する。しかしFSLNが勢力を広げていくにつれて、ソモサ独裁政権による弾圧も激しさを増していく。「山」とは異なり、都市部では隠れ家が必要だ。食糧も手に入れなければならない。

そんな時に著者をかくまってくれたのが大学の友人たちであり、教会の神父だった。さらにはFSLNのシンパたちがあちこちにいた。これらの人たちは、年老いてすでに戦闘には参加できないが、40年前に米国海兵隊がニカラグアを占領した時代に、民族主義者・アウグスト=セサル=サンディーノが指揮するゲリラ戦に加わった人々だった。

『山は果てしなき緑の草原ではなく』を読むと、民族自決の戦いが世代から世代へと受け継がれてきたことが読み取れる。しかも、FSLNに協力する民衆の姿も描かれている。ラテンアメリカ民衆とは何かを考える恰好の書だ

■『山は果てしなき緑の草原ではなく』(オマル=カベサス、大田昌国・新川志保子訳、現代企画室)