1. チリの軍事クーデターから50年、拡大するラテンアメリカの古くて新しい政治モデル

ラテンアメリカに関連する記事

2023年09月11日 (月曜日)

チリの軍事クーデターから50年、拡大するラテンアメリカの古くて新しい政治モデル

9月11日、南米チリは1973年の軍事クーデターから半世紀の節目を迎える。チリはもとより、ラテンアメリカ各地でさまざまな催しが予定されている。

わたしが初めてこの事件を知ったのは、高校生の時だった。NHKの夜のニュースが軍事クーデターを報じた。アナウンサーが淡々とした口調で、「アジェンデ大統領は自殺しました」と伝えたのを鮮明に記憶している。

◆◆

社会党、共産党、それにキリスト教民主党の3党から構成された人民連合(UP)は、1970年9月4日の大統領選挙でサルバドール・アジェンデが当選して成立した。世界史の中で初めて選挙により合法的に成立した社会主義政権である。従来、社会主義革命は武力によって成就するというのがセオリーだったが、アジェンデ政権は初めてその偏見を打ち破ったのだ。

世界の眼がアジェンデ政権の行方に注目した。議会制度を尊重した上で、社会主義へ移行するという壮大な実験を見守ったのだ。

チリの上流階級や米国の多国籍企業は、アジェンデ政権の転覆を企てた。富裕層の婦人らがフライパンを叩き、「チリにシチューと自由を!」と叫びながら、デモ行進する事態となった。資本家のストも勃発した。チリ経済は混乱に陥り、アジェンデ政権に暗雲が広がった。

ところが予想に反して1993年3月の総選挙で、人民連合は議席を伸ばした。この時点で合法的にアジェンデ政権を打倒できないことが明らかになったのである。クーデターの予兆が現れ、9月11日、陸軍のピノチェト将軍がついにアジェンデ大統領に対して国外への亡命を進言した。そのための飛行機を準備するとまで言った。アジェンデ大統領はこれを拒否し、部下と共に大統領公邸に留まった。その後、大統領公邸は空軍の爆撃を受け、陸からは戦車砲と銃弾を浴びた。アジェンデはラジオ放送を使って、最後の演説を行ったのである。

チリ全土にテロが広がり、3000人を超える人々が殺害されたり、行方不明になった。この中には歌手のビクトル・ハラやノーベル賞詩人のパブロ・ネルーダも含まれている。

◆◆◆

軍事クーデターから50年を経た現在、ラテンアメリカのスペイン語圏とポルトガル圏の大半の国々が左派政権を樹立し、社会主義へ向かって歩んでいる。議会制民主主義を重視しながら、新しい政治体制を目指す流れが生まれている。

2020年の9月には、チリの人民連合の成立から50年を記念する式典がブラジルのサンパウロで開かれた。チリの軍事政権は、結局、人民連合の記憶を消し去ることはできなかったのだ。ビクトル・ハラの歌も、パブロ・ネルーダの歌も後世へと受け継がれた。

◆◆◆◆

1985年の5月、チリの映画監督ミゲル・リティンが、ビジネスマンに変装し、偽造パスポートを使って軍事政権下のチリに潜入した。そしてCM撮影を口実に事前に送り込んでいた映画チームを使って、軍事政権下のチリの現実を撮影した。

このドキュメントは「大いなるチリの証言」(日本語は、「戒厳令下 チリ潜入記」)というタイトルを付し、世界各国で上映された。クーデターの終始も関係者の証言により語られている。アジェンデ大統領の死も記録されている。それはNHKが報じたように、自殺などではなかった。

日本の新聞・テレビは、軍事クーデター50周年を報じるのだろうか。米国の9・11は報じても、このニュースには触れないのではないかとわたしは推測する。しんぶん赤旗は報じるのではないかと期待しているが、仮に報じなければ、赤旗のジャーナリズムも衰退したという評価になるだろう。

わたしは1970年9月4日のチリ革命は、フランス革命やロシア革命と並んで重要な歴史的事件だと考えている。実際、50年後の現在、ラテンアメリカはかつてのアジェンデ政権が模索した道を進んでいる。新自由主義が破綻したいま、いずれ他の諸国も、同じ方向へシフトするのではないかとわたしは見ている。

幸いに米国は、50年前のような残忍なことはできない。社会制度や人間の意識、それに世論の影響力が各段に進歩したからだ。

【チリ潜入記・前編】

【チリ潜入記・後編】

※軍事クーデターについての証言は、後編の「8分40秒」から。