1. 「押し紙」70年④、「押し紙」の経理処理のプロセスで販売収入の「粉飾」が必然に、東芝の比ではない

「押し紙」の実態に関連する記事

2015年07月22日 (水曜日)

「押し紙」70年④、「押し紙」の経理処理のプロセスで販売収入の「粉飾」が必然に、東芝の比ではない

【サマリー】1960年代に続いて70年代も「押し紙」が大問題になっていた。関係者は、「押売や包紙は文化国家の恥である」とまで発言している。

 この「押し紙」問題を経理の観点からみると、「粉飾」の問題が浮上してくる。実際には読者に届いていない新聞から販売収入が発生したことにして経理処理するのであるから、当然、粉飾が必然的になる。東芝の比ではない。

 当然、経営の好調さをPRしている新聞社が「押し紙」の経理処理のプロセスで販売収入を粉飾していないかどうかも検証する必要がある。

「押し紙」は、1960年代には既に新聞業界の問題になっていた。日販協(日本新聞販売協会)が発行する『日販協月報』のバックナンバーには、その実態が詳しく記録されている。

1970年代に入っても「押し紙」の実態は変わらない。当然、『日販協月報』にもそれが色濃く反映している。71年1月号には日販協の常勤役員による座談会の記事が掲載されているのだが、その中である常勤役員は次ぎのように新聞発行本社を批判している。

元来新聞というものは、読者の選択によって購読されるものであり、押売や包紙は文化国家の恥である。

引用文の「押売」が、この場合、強引な新聞拡販ではなくて「押し紙」を意味することは、この座談会のサブタイトルが「押紙や抱紙は文化国家の恥」となっていることからも察せられる。

また「抱紙」とは、新聞販売店の側がみずから率先して配達部数を超えた部数の新聞を仕入れる行為を意味する。なぜ、このようなことをするのかの説明はやさしい。おおむね2つの理由が考えられる。

折込広告の搬入枚数は、新聞の仕入れ部数に比例させる原則があるので、仕入れ部数を増やせば折込広告の割り当て枚数が増え、それにより「押し紙」によって生じる損害を相殺できるうえ、さらにそれ以上の折込広告手数料を得ることが可能になる場合があること。このような状況は、折込広告の需要が多い地域で起こりやすい。

「押し紙」の受け入れを断れば新聞社との関係が悪くなり、強制改廃されたり補助金をカットされるなどの「報復」を受けるリスクが生じること。

◇「押し紙」による粉飾

ところで「押し紙」問題が誘発する経理上の問題も見のがせない。「押し紙」制度は実際には読者の手元に届いていない新聞の購読料を「販売収入」として計上するものであるから、社会通念からすれば完全な粉飾である。東芝の比ではない。

わたしはこの点について、「押し紙」取材をはじめた1997年ごろに、全販労(全国新聞販売労働組合)の沢田治事務局長に事情を問うたことがある。その時、沢田氏は次のような趣旨の説明をされた。

「明らかな粉飾なのに、問題がないというのが国税局の見解です」

その後、わたしは同じ質問を産経新聞四条畷販売所の今西龍二所長に投げかけたことがある。今西龍二所長は次のように説明した。

「税務署から粉飾を指摘された時は、国税局の●●さんに電話するように新聞発行本社から指示を受けている。電話番号も聞いている」

●●さんとコンタクトを取れば内密に粉飾問題を処理してくれるということらしい。

改めて言うまでもなく「押し紙」は同時代の問題であるから、現在も「押し紙」の経理処理は粉飾が暗黙の了解になっている可能性が高い。実際には販売されていない新聞を販売されたものとして経理処理するのであるから、重大な問題を孕んでいるのである。

◇虚勢を張っても本当は経営難?

公権力にとってメディアをコントロールする手口は、経営上の弱点を把握して、暗黙のうちに「恫喝」することである。紙面で政府に批判的な論調を張れば、「押し紙」問題にメスを入れますよと仄めかすことで、新聞人は黙り込んでしまう。

「押し紙」による粉飾が暴露されたら、いくら虚勢を張っていても本当は経営難であることが公になるだけではなくて、メディア企業としての信頼が失墜してしまうからだ。