【書評】『SEALDsの真実』と『しばき隊の真実』、広義の左翼勢力の劣化の背景に何があるのか?
これら2冊の書籍は、それぞれ独立したタイトルを付しているが、両方とも広義に左翼と呼ばれている勢力の劣化を扱っている。『SEALDsの真実』では、SEALDsの化けの皮を剥ぎ、『しばき隊の真実』では、しばき隊の実態とそれを支える「知識層」に対する疑問符を投げかける。わたし自身が日ごろから感じていたことを、ほぼそのまま代弁している。
福島の原発事故の後、金曜日の夕方になるとどこからともなく国会周辺に人々が集まってきて、大きな群衆となり、安倍政権に対して「NO」の声を表明する運動が広がった。原発、安保、特定秘密保護法、共謀罪など、時期によりその中心テーマは変化したが、市民が意思を統一して、自分たちの主張を表明するようになったのである。こうした中から台頭してきたのが、SEALDsだった。メディアは、SEALDsを新しいかたちの学生運動として賞賛した。新しい市民運動の広告塔になったのだ。
しかし、水面下では彼らに対して批判の声を上げる人々もいた。たとえば辺見庸氏である。
◇SEALDs、しばき隊、共産党
「だまっていればすっかりつけあがって、いったいどこの世界に、不当逮捕されたデモ参加者にたいし『帰れ!』コールをくりかえし浴びせ、警察に感謝するなどという反戦運動があるのだ」「国会前のアホどもよ、ファシズムの変種よ、新種のファシストどもよ、安倍晋三閣下がとてもよろこんでおおられるぞ」(辺見氏のブログ、削除済み)
【書評】しばき隊の本質を見抜けない「知識人」の劣化、かつての同和問題と同じ分断工作の構図、『ヘイトと暴力の連鎖』など鹿砦社取材班の4冊
2月27日付けのメディア黒書で『カウンターと暴力の病理』を紹介した後、その前段にあたる図書にも目を通してみた。
実は、この本に先立って、「しばき隊」による内ゲバ事件をテーマとする3冊の本が、同じ鹿砦社から出版されている。出版順に次の3冊である。
『ヘイトと暴力の連鎖』(2016年7月)
『差別と暴力の正体』(2016年11月)
『人権と暴力の深層』(2017年5月)
『カウンターと暴力の病理』(2017年12月)
『カウンターと暴力の病理』については、すでに書評した。
シリーズものの本は、とかく斜め読みしたくなるものだが、それをさせない力をこれら4冊は秘めている。それは恐らく渾身の力で取材に取り組んだ成果ではないかと思う。この事件について訴えたいという取材班の思いが、力強いルポルタージュを生んだのだろう。たとえば 『人権と暴力の深層』の次のくだりである。怒りの感情が読みとれる。
(略)M君リンチ事件から目を背けながら、今なお「人権」「反差別」「リベラル」などと、耳障りの良い言葉を平然と口にするような恥知らすは枚挙に暇がない。こういう輩を〈偽善者〉という。(略)
エル金(暴力事件の主犯)一人に全ての責任を押し付けてM君リンチ事件の「幕引き」を図っている、「リベラル」を自称するこの者たちは、決定的な敗戦の責任を何一つ取らなかった旧日本軍の指導者や、森友学園問題において籠池泰典一人に全ての責任を押し付けて疑惑から逃れた安倍晋三夫妻や松井一郎と何一つ変わらない。
われわれ取材班は、このような醜悪な〈偽善者〉を看過しない。今後もこれらの者たちの責任を追及し続ける。〈偽善者〉に逃げ道はない。
【書評】『カウンターと暴力の病理』 ヘイトスピーチに反対するグループ内での内ゲバ事件とそれを隠蔽する知識人たち
本書は、在日の人々に対するヘイトスピーチなどに反対するグループ内で起きた大学院生リンチ事件を柱にすえたものである。しかし、事件の真相に迫るだけではなく、なぜかこの事件を隠蔽しようとする「知識人」やジャーナリストの事態もえぐり出している。筆者自身は、これらの人々を直接取材したわけではないので、名前の公表は現段階ではひかえるが、著名な人々の顔がずらりと並んでいる。
普段からえらそうな発言をしている人々が、差別の問題になるとたちまち無力になる現実を前に、日本のジャーナリズムとは何かという根本的な問題を突き付けられる。
事件が発生したのは2014年の暮れである。「カウンター」、あるいは「しばき隊」と称するグループのメンバーが、大学院生のBさんに暴言と暴力で襲いかかり、ひん死の重症を負わせたのだ。原因は金銭をめぐる組織内の問題だった。
これについては双方を取材してみる必要があるが、暴力による決着はゆるされるものではない。事実、暴行に加わった者は、刑事罰を課せられた。Bさんは現在、傷害に対する損害を請求する民事訴訟を起こしている。
本書には、「しばき隊」や「男組」といった前近代的なグループ名が出てくる。これらの言葉を聞いたとき、筆者は嫌悪感に駆られた。こうしたグループ名を自称する人々の持つ言葉に対する感性を疑ったのだ。そしてこんな古くさい感覚では、リンチ事件を起こしても不思議はないとまで思った。
本書には、リンチの場面の音声を録音したCDが付いている。その声から伝わってきたのは、社会運動家のイメージではなく、ヤクザのイメージだった。Bさんに、からみつくようなねばっこい説教が延々と続いているのである。
ちなみに現場に同席した1人は、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)と桜井誠・前会長に対して損害賠償を求めた裁判の原告である。
『創』が新聞社特集、新聞社のプロパガンダのオンパレード、「押し紙」には言及せず、評論活動の意味に疑問符
評論の役割は、テーマとする対象に多様な角度から光を当て、状況を改善する方向性を示すことである。だから批判すべき点は、はっきりと批判しなければならない。このところ自分に向けられた批判言論を裁判所に泣きついて、押さえ込む出版関係者もいるが、批判すべき点は批判しなければ、評論の意味がない。
『創』が「新聞社の徹底研究」と題する特集を組んでいる。同誌はかなり以前から毎年、新聞社特集を組んでいる。筆者の本棚にも、10年以上前の新聞社特集、2005年4月号があるが、それ以前から新聞社特集は組まれていたように記憶している。しかし、いずれの特集号も日本の新聞ジャーナリズムの諸悪の根源である「押し紙」問題にはほとんど触れていない。さらにABC部数を実配部数と勘違いして、「ABC部数=実配部数」という間違った情報を前提として、新聞社経営の実態が論じられるなど、違和感を感じてきた。
【書評】『追及力』、森ゆうこ・望月衣塑子、ナベツネが「政治記者として目指すべき到達点」に違和感
本書は、自由党の森ゆうこ議員と、東京新聞の望月衣塑子記者の対談である。森友・加計問題や伊藤詩織さん事件などを柱に、メディアや国会の実態などをテーマに意見を交わしている。
発言内容の大半は、これまで耳にしてきたことである。あるいは両者の言動と整合するものである。しかし、書籍というかたちで再度両者の発言をたどっても、面白く読めるように構成してある。ただ、多少の違和感があった。この書評では、その違和感の部分を取りあげてみたい。
【書評】『体をこわす13の医薬品・生活用品・化粧品』、うがい液でかえって風邪をひきやすくなる
「騙される」、あるいは「騙す」というキーワードを視点として、ドラッグストアーの商品棚を眺めてみると、有害無益な商品が何点かある。『体をこわす13の医薬品・生活用品・化粧品』(渡辺雄二著、幻冬舎)は、そんな医薬品、生活用品、化粧品を取りあげている。禿げの原因になるシャンプー、皮膚障害の原因になる入浴剤、それに風邪の完治を遅らせる風邪薬などである。
その中でも、とりわけ身近で興味深い例は、うがい薬である。インフルエンザを防止するために、「手あらい」と「うがい」が大々的に宣伝されていて、それに便乗してドラッグストアーは、風邪が流行するシーズンになると、売り場の一角に、ヨードを主成分とするうがい薬を積み上げたりして客の獲得を狙う。
本書では、うがい薬の「ウソ」を示唆する京都大学保健センターの河村孝教授らのある実験が紹介されている。河村教授らは、3つの実験群を作った。
①うがい液(ヨード液)でうがいをする群
②水道の水でうがいをする群
③特にうがいをしない群
【書評】ドライサー著『シスター・キャリー』、米国資本主義の悲劇
海外の違った文化圏に定住して、改めて外部から日本を観察してみると、それまで見えなかった社会の断面が輪郭を現すことがある。それと同じ思考方法を小説が提供してくれる場合がある。しかも、後者の方は、時代の壁を軽々と飛び越えて、ひとつの時代、ひとつの社会を客観視させてくれる。
1990年に米国の作家・ドライサーが発表した『シスター・キャリー』(岩波文庫)は、米国資本主義が内包していた理不尽な構図を描いている。ドライサーの代表作『アメリカの悲劇』に劣らない名作である。
【書評】ドライサー『アメリカの悲劇』、資本主義社会の実態を克明に描く
商品の溢れたきらびやかな世界に生きる少数の上流階級がある一方、社会の矛盾を背負ってその日ぐらしに明け暮れる下層階級がある。ドライサーの『アメリカの悲劇』は、1930年ごろの米国資本主義の実態を克明に描いている。
この物語の主人公はキリスト教の伝道を仕事とする貧しい一家に育った青年である。といっても、両親は教会から伝道師としての生活を保障されているわけではない。半ばボランティアによる活動で、日本でいえば、新興宗教の熱烈な信者のような存在である。
この伝道師の家に育った主人公は、青年期になると、生活の中でなによりも伝道が最優先される生活に疑問と反発を感じるようになり、おしゃれを楽しんだり、食事をしたり、ガールフレンドとデートするなど資本主義がもたらしてくれる快楽を追い求めるようになる。お金だけが生きる目的となっていく。
本日発売『紙の爆弾』、「山口敬之元TBS記者レイプ疑惑に『不起訴相当』検察審査会の内幕」
本日発売の『紙の爆弾』が、「山口敬之元TBS記者レイプ疑惑に『不起訴相当』検察審査会の内幕」と題する筆者のルポを掲載した。ジャーナリストの伊藤詩織氏が山口氏にレイプされたとして刑事告訴し、最終的に検察審査会が「不起訴相当」の議決を下した事件を中心に、検察や検察審査会の腐敗ぶり、また安倍官邸との癒着ぶりをレポートした内容である。
このうち検察審査会については、過去にPC上の架空の審査員が架空の審査会を開き小沢一郎氏に対して「起訴相当」議決を下していた疑惑などを取りあげた。この事件の疑惑の根拠については、メディア黒書で繰り返し取りあげてきた通りである。また、鳩山一郎検察審査会では、裏金づくりが行われていた。
これら二人の民主党(当時)の政治家は、民主党が政権の座にあった当時、検察審査会の陰謀で下野させられた疑惑があるのだ。そして両人とも、検察審査会の元締めである最高裁事務総局との戦いを放棄した。伊藤詩織さん事件にもおなじ脈絡はないのか?
【書評】『電通 巨大利権』、広告依存型ジャーナリズムの問題点に切り込む
メディアは、ジャーナリズムの取材対象のひとつである。実際、大手の書店へ行くと、「メディア」、「出版」、「放送」などの書棚が設けてある。いずれも人気のある分野とはいえないが。
しかし、その関心が低いメディアという分野は、実はわれわれの日常と極めて近い位置にある。テレビや新聞、それにインターネットなどを通じて、人々は常に新しい情報を求めている。地下鉄の車内で、スマホに夢中になっている人々の光景は、いまや当たり前だ。
が、それにもかかわらずメディアによって、自分の価値観や世界観が影響を受けていることを自覚している人は皆無に近いだろう。その結果、気づかないうちに世論誘導されていたという事態も起こっているのだ。
『電通 巨大利権』(CYZO)の著者・本間龍氏は博報堂で18年間、テレビCMや新聞広告、それにイベントなどPR戦略をコーディネートする営業の仕事を担当した経歴を持つ。これまで、政府の原発推進政策を支持する世論が、実は莫大な量の原発広告により形成されてきた事実や、近い将来に予測される憲法改正国民投票の勝敗が、広告戦略を進めるための資金力の優劣によって決せられる危険性など、同時代の重要な問題を指摘してきた。
本書は、日本のメディアがどのような経営構造の上に成り立ち、それがジャーリズムにどのような負の影響を及ぼしているかをえぐり出している。日本でも世界でもメディアの主要なビジネスモデルは、改めて言うまでもなく、広告収入を財源としたジャーナリズムである。特にテレビ局は、ほぼ全面的にテレビCMに経営を依存している。
その広告収入を確保するためにメディア企業とスポンサー企業の間に入っているのが広告代理店である。その中でも、独占的な地位にあるのが巨大企業・電通である。本書は、その「電通問題」に正面から切り込んでいる。
【書評】 詩織さん事件の元TBS山口敬之氏『総理』に見る政治記者の勘違い、取り違えた「スクープ」の意味
報道を評価する基準は多様だが、究極のところは、報道内容に価値があるかどうかである。厳密に言えば、報道の背景にどのような思想があり、どのような視点があるかである。そのためか、評価には歴史的な時間を要する。客観報道というのはまったくの幻想である。殊更にそれにこだわる必要はない。
山口敬之著『総理』(幻灯舎)は、報道の視点という観点から見ると、一体、何を主張したいのかよく分からない本である。山口氏の経歴は、1966年東京生まれ。慶應大学を卒業してTBSへ入社。後にワシントン支局長。16年には退社してフリージャーナリストになった。準強姦事件(詩織さん事件)を起こしていた疑いが浮上して、一躍、時のひとになったが、不起訴に。
安倍官邸との距離が極めて近いことでも有名だ。同著によると、「初めて安倍氏と会ったのは小泉純一郎内閣の安倍官房副長官、いわゆる『番記者』という立場の時であった」。初対面のときから「ウマが合った」のだという。その後、「時には政策を議論し、時には政局を語り合い、時には山に登ったりゴルフに興じたりした」という。
【書評】『メディアに操作される憲法改正国民投票』、国民投票に介在してくる電通、改憲派が圧倒的に有利に
国際平和協力法(PKO法)が制定・施行され、日本が戦後はじめて、海外へ自衛隊を派遣したのは1992年である。アンゴラとカンボジアへ自衛隊を投入したのである。その時、これが憲法9条「改正」への最初の一里塚であることに気づいた人は、ごく限られていただろう。自衛隊の活動が、選挙監視など武力とは関係ないものに限定されていたからだ。
ところがその後、自衛隊の海外派兵や安全保障に関する法律が次々に制定され、現在では、日米共同作戦を展開できる段階にまで達している。このような体制の維持を支える特定秘密保護法や共謀罪法も制定・施行された。そして今、安倍内閣は、北朝鮮のミサイル・核問題を巧みに利用し、2020年までの改憲を視野に入れて、憲法9条をドブに捨てようとしている。
この25年を振り返ると、自民党は憲法9条の「改正」をゴールとして、日本の軍事大国化を進めてきたとも解釈できる。改めていうまでもなく、改憲の最後の「儀式」は、憲法改正国民投票である。
が、憲法9条の支持は依然として根強い。実際、今年の4月に毎日新聞が実施した世論調査では、憲法9条を「改正すべきだと『思わない』が46%で、『思う』の30%を上回った」。護憲派の人々の間には、国民投票になれば負けないという楽観論も広がっている。しかし、これはとんでもない誤解である。逆に全く勝ち目がないと言っても過言ではない。「無党派層」を世論誘導する恐るべきあるカラクリが隠されているからだ。
本間龍氏の『メディアに操作される憲法改正国民投票』(岩波ブックレット)は、憲法改正国民投票の致命的な欠点を指摘している。欠点とは、投票に先立つ運動期間中に、テレビCMなどのPRに関する規制がほぼ存在しないことである。テレビCMなどを制限なく流すことができる制度になっているのだ。
『ぼくは負けない』刊行から40年、今、日本の教育現場はどうなっているのか?
昨日(6月30)で、筆者(黒薮)の最初の著書、『ぼくは負けない』(民衆社)が刊行されて40年である。初版が1977年6月30日で、再製本されたり、シリーズもので再出版されたりで、結局、25版ぐらい重ねた本である。アマゾンで7980円、または167円で購入できるが、ほとんどの公立図書館にある。ただし、「書庫」に移されている可能性が高い。
この本は、1970年ごろの日本の中学校教育のひどい実態を記録したものである。筆者は、もともと記録する習慣があったので、中学校での3年間の学校生活をかなり詳しく書き残していた。
道徳教育が熱心な学校で、朝礼で呪文を唱える儀式があった。それを弁論大会で批判すると、教師に殴られたり、自宅へ怒鳴りこまれたりといったひどい扱いを受けた。校長からも呼び出されて説教された。これらの実態を克明に記録して残しておいた。