【書評】ドライサー『アメリカの悲劇』、資本主義社会の実態を克明に描く
商品の溢れたきらびやかな世界に生きる少数の上流階級がある一方、社会の矛盾を背負ってその日ぐらしに明け暮れる下層階級がある。ドライサーの『アメリカの悲劇』は、1930年ごろの米国資本主義の実態を克明に描いている。
この物語の主人公はキリスト教の伝道を仕事とする貧しい一家に育った青年である。といっても、両親は教会から伝道師としての生活を保障されているわけではない。半ばボランティアによる活動で、日本でいえば、新興宗教の熱烈な信者のような存在である。
この伝道師の家に育った主人公は、青年期になると、生活の中でなによりも伝道が最優先される生活に疑問と反発を感じるようになり、おしゃれを楽しんだり、食事をしたり、ガールフレンドとデートするなど資本主義がもたらしてくれる快楽を追い求めるようになる。お金だけが生きる目的となっていく。
そんな時、青年はそれまでは想像もしなかった上流社会との接点を手に入れ、その階級を登り始める。そこには貧困とは対照的な、天国が開けていた。
そして皮肉なことに、上流階級に属するガールフレンドとの結婚が現実になりはじめたころに、下層階級のかつてのガールフレンドの妊娠が判明する。主人公は、堕胎手術を引き受けてくれる医者を捜すなど、さまざまな隠蔽工作を試みるが、ことごとく失敗に終わる。そして最後に妊娠したかつての恋人を人気のない山中の湖に誘い出し、ボートから転落させて殺害する。
しかし、犯罪を隠すことは出来ずに、逮捕され、裁判にかけられ、死刑宣告を受ける。死刑が執行された後、残された両親は、ふたたび貧困を背負いながら、かつてのような伝道の生活に戻っていく。
これが80年前のアメリカ社会の実態であるが、階級社会は当時から何も変わっていないのではないか?。それどころか新自由主義の下でますます社会格差は拡大している。そしてその制度を維持するための宗教-観念論の浸透という点でも同じである。この小説は、一体、アメリカ社会とは何かを問いかける。
『アメリカの悲劇』が出版されたのは1932年である。その7年後には、スタインベックの『怒りの葡萄』が出版されている。『怒りの葡萄』は、トルネード(砂嵐)に農地を荒らされて生活の糧を失ったオクラホマ州の農民たちが、新天地を求めてカリフォルニア州へ移動し、たどりついた先に、農園での過酷な労働が待ち受けていた史実に基づいた物語である。
この小説も米国の資本主義の矛盾を告発している。興味深いことに、『怒りの葡萄』にも、伝道師が登場するのだが、こちらの宗教家は、社会の矛盾の中で宗教の無力を自覚して、労働運動に乗りだす。ラテンアメリカの解放の神学のモデルを連想させる。
これら2つの小説からは、アメリカ資本主義の中で、宗教がいかに圧倒的な位置を占め、しかも、「治安維持」という観点から負の役割を果たしてきたのかがうかがい知れる。日本で急激に普及し始めている安倍内閣による観念論教育が、『アメリカの悲劇』の中で指摘されているような宗教と同じ役割を果たさないことを願うのみだ。
※余談になるが、筆者は10年ほど前に『アメリカの悲劇』を読み始めたが、途中で中止した。先日、市立図書館でリサイクルに出ていたので貰ってきたのだが、図書館員は『アメリカの悲劇』の価値が分からないのかも知れない。この小説は、「英語で書かれた20世紀のベスト小説100」の16位である。
■『アメリカの悲劇』
版元:集英社他
著者:セオドア・ドライサー
翻訳:宮本陽吉他