『怒りの葡萄』の新訳、日本から名訳が消えていく
最近、世界文学の新訳が相次いで刊行されている。しかし、新しい訳がかならずしも旧訳よりも優れているとは限らない。少なくともわたしが見る限り、訳文の質がかつてよりもはるかに落ちているケースが増えている。
コレットの『青い麦』における詩人・堀口大学訳(新潮文庫)と他の翻訳書を比較すると、前者がプロで、後者は小学生ぐらいのレベルしかない。両者の読み比べは、日本語の表現力とはなにかを知るうえで最も効率的な手段にほかならない。
この問題に関しては、以前、メディア黒書でも、モームの『月と六ペンス』(新潮文庫)の中野好夫訳の「後継者」を例に、この珍事で残念な現象を紹介したことがある。
今回取り上げるのは、『怒りの葡萄』(新潮文庫)である。正直なところ新訳は文章の質が悪くて読む気がしなかった。
◇砂嵐に追われて
『怒りの葡萄』は、米国の中西部で春から夏にかけて頻繁に発生するトロネードと呼ばれる砂嵐、あるいは巨大な竜巻によって農地を破壊された農民たちが、西海岸のカリフォルニアに新天地を求め、希望を胸に、トラックに家財道具を積み込み、家族で移動していく物語である。砂嵐に追われた「難民」の群れが、トム・ジョード一家を主人公に描かれている。
長い旅の末に農民たちがカリフォルニアに到着すると、そこには理想郷とは程遠い農園での過酷な労働が待ち受けていた。実際に起こったこの社会的事件を、作者のジョン・スタインベックが農民に同行取材して書いた小説である。
わたしがこの小説を初めて読んだのは、高校3年の時だった。新潮文庫から刊行されていた大久保康雄訳で読んだ。最近になってやはり新潮文庫から、伏見威蕃訳がでたが、大久保訳に比べて格段に劣っている。
ただ、文章の質が高いとか、読みやすいといった評価は、読者の個人差があるので、ある翻訳書の品定めをするのはやさしい作業ではない。数年前から光文社が「光文社古典新訳文庫」を刊行して、世界文学の代表作の新訳を次々と世に送り出しているが、旧訳に比べて文章がより平坦になっている特徴がある。つまり光文社は、訳文が話し言葉により近く、読みやすさを最優先した翻訳を目指している印象がある。
しかし、話し言葉と書き言葉の境界線をよりあいまいにしてしまうと、結局は、書かれた言葉を道具として思考を展開する読書だけにしかない利点が消えてしまうのではないか。味気ない平坦な文章を読むことになる。つまり書き言葉でしか到達できないより高い思考の領域にまで到達できなくなる。その意味で、多少は難解でも話し言葉と書き言葉は一定の区別をするべきなのである。
このあたりの事情を無視して新訳の刊行を続けると、文学の価値がなくなってしまう。