公共事業は諸悪の根源? ジャーナリズムでなくなった朝日 その3(後編)
◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)
名古屋編集局では、部長会を開き、その日の紙面について評価・検討するのが日課です。内容は、「部長会行政」という表題で、支局にもファクスで流れます。
ある日の部長会で「河口堰に反対しているのは他地区の外人部隊ばかりだ」と、部長が発言しているのが目にとまりました。同じ日の別の項目では、名古屋社会部が実施した独自の地域世論調査を、「地域の声が分かる」と部長は自画自賛していました。
しかし、以前に行った中部地区住民を対象にした同じような地域世論調査では、河口堰反対の方が多いという結果が出ていたことを私は知っていました。私は「あなたが重要性を指摘した地域世論調査では、この地域の住民は、河口堰に反対の方が多い。『堰反対は外人部隊ばかり』という発言は事実と違うのではないですか。相反する発言を、同じ日の部長会でするのはおかしい。もう一度、私の取材内容を検証すればどうか」と、支局から電話で指摘をし、河口堰問題を話すきっかけにしたのです。
でも、部長の答えは予想通りです。「豊田のおめぃに、河口堰は関係ないだろ」との怒鳴り声が返ってきました。私が「私に河口堰報道をさせないための豊田転勤だったのですね」と尋ねると、「うるせぇ」と電話は音を立てて切れました。
◇「俺の悪口を書ける週刊紙の記者なんか、いねぇ」
このあと、名古屋本社に出掛けた時のことです。廊下ですれ違った部長は私を呼び止めました。暗い隅に私を連れ込むと、経営幹部の人物の実名を挙げ、「俺はその人から、名古屋の編集局長を約束されている。おめぃみたいな名古屋の奴は、まともに生きられないようにしてやるからな」と脅したのです。
私はこの程度のことではもちろんひるみません。「これでは、編集局長になる前に週刊誌沙汰になるのでは…」と、反論。すると「フン。俺は週刊誌の記者はよく知っている。俺の悪口を書ける週刊紙の記者なんか、いねぇ」と気色ばみました。「週刊誌の記者をよく知っているとは、どういうことですか」と聞くと、また「うるせぇ」と言って去って行きました。
この時、部長が「編集局長を約束した」として口にしたのは、私が予想していた通りの経営幹部の名前でした。私の直訴に部長は焦り、ついに後ろ盾の人物の実名をその口で、直接喋ったのです。これは、何よりの収穫でした。
部長がウソをついていない限り、将来の名古屋編集局トップ人事を「約束する」くらいだから、部長がこの人物と「急接近している」との社内のウワサも本当だったのかも知れません。
この経営幹部は、名古屋本社の社会部長、編集局次長、局長、代表も歴任。名古屋を去った後も、名古屋編集局人事に隠然たる力を持ち、遠隔操縦しているというのが、社内の大方の見方でした。社内で理不尽なことが起きると、必ずと言っていいほど、その影がちらついて見えたのも、以前に書いた通りです。
私の体験上も、この二人が本当に結びついているなら、何でもありだとは思っていました。他にこんな露骨な報道弾圧に手を染めそうな人物は、少なくとも私の体験からは社内で見当たらなかったからです。でも、雲の上の話です。私には何の確証も取りようがありません。河口堰報道弾圧の背後に、この幹部がいたと断定するつもりは毛頭ありません。
ただ、キャリアの東京本社両部長が、ノンキャリアの部長を、なぜ、ここまで恐れ、言いなりになったのか。朝日の社内力学を考えると、部長のこの言葉で、すべての辻褄が合ったことだけは確かだったのです。
◇系列テレビ局へ天下り
その後、ある日突然に部長から社会部会開催の通知が豊田支局にも届きました。名古屋社会部は、愛知、三重、岐阜の3県の地方支局も管轄です。部会開催は、三県の記者を名古屋まで呼び出すことになり、費用もかかれば、がら空きになったところで、大事件でも起きたら大変なことになります。部会の招集は、人事の発令とか、選挙実務の徹底など、必要不可欠な時に限られています。
私は「人事も選挙もないこの時期に部会を開くのは何故だろう。よほど大きな不祥事でもあり、注意喚起でもするつもりなのか」と首を傾げつつ、仕事を早々と済ませ、名古屋に出掛けました。しかし実は、その日は、この経営幹部が系列在京テレビ局幹部に栄進することになり、名古屋本社でもこの幹部を囲んで送別会を催すことになっていたのです。
テレビ局は、斜陽の新聞産業に比べ、給与水準も高く、定年間際になると多く朝日幹部は系列テレビ局に天下りしたがります。この経営幹部は将来の社長含みの転進です。そうなると、朝日本体の社長に続く朝日グループナンバー2。当然、朝日幹部のテレビ局への天下りを左右する立場になり、朝日本体へも強い影響力を、今後も持ち続けることになります。
案の定、部会はほとんど議題らしい議題もなく、最後に送別会への参加を促されただけで終わりました。名古屋社会部が長かった私でも、こんな部会招集を経験したのは、後にも先にもこの1回きりでした。組織の私物化そのもののこんな送別会に出るのは馬鹿馬鹿しい限りです。もちろん私は、送別会には参加せず、そのまま豊田に戻りました。
◇サンゴ事件からリクルート事件へ
この経営幹部は、部長同様、朝日社内では毀誉褒貶の激しい人物でした。何より、今でも朝日最大の不祥事の一つして語り草のサンゴ事件当時の東京編集局長、つまりこの事件の最大の当事者の一人だったのです。
サンゴ事件と言っても、古い話でもう記憶にない方も多いと思います。1989年、サンゴがダイバーによって傷つけられているという写真を撮りたいばかりに、東京本社のカメラマン自らがサンゴに傷つけたのが発端です。
もともと遠く沖縄まで写真を撮りに来たのに、何も撮れずに帰れないというカメラマンの出来心が発端です。許されることではありません。でもそれ以上に、この訴えを現地沖縄のダイバーから受けながら、朝日はうやむやで済まそうとしたのではないかという点が、世間から強く批判され、問題を大きくしました。
朝日は社長辞任で収めました。しかし、社内では、この対応を直接指揮した当時の東京編集局長、つまり、この経営幹部の責任が一番重く、社長と一緒に辞めるべきでは、との不満が渦巻いていたのです。だが、編集局長の地位は退いたものの幹部は、取締役に居座り、ますます権勢を強めていったのです。後から考えると、徐々に衰退していた社内モラルが急速に壊れてしまったのは、この時です。
朝日の中でこの幹部を批判する勢力がなかった訳ではありません。しかし、その急先鋒で、発言力もある社外にも有名なベテランのスター記者や、部下の信望も厚く、代わるべき「社会部出身のエース」と言われた人物ら3人が、不思議なことにリクルート社長から接待を受けていたという週刊誌報道で、次々失脚していったことも、この幹部が居座れる環境を作りました。
この部長が記者時代、リクルート事件報道の立役者だったことは、前にもこの欄で書きましたが、リクルート社長の接待リストを手に入れ、小出しに続報記事にしていると、当時、社内のもっぱらのウワサでした。しかし、リストの全容は、この人物以外、知る者はいません。
「リストには朝日関係者も、数人以上はいる」「いや数十人だ」などと取り沙汰され、この人物がいつ全容を暴露するか、社内は疑心暗鬼、戦々恐々にもなっていました。
◇ブラック・ジャーナリズムの噂
このことがこの人物を社内でアンタッチャブルにする一つの原因でもあったのですが、部長自ら私に語った通り、週刊誌記者と親しいことも、社内では多くの人間は知っていました。この3人に限っての週刊誌報道は、単なる偶然なのか。それとも、部長の何らかの意図・関与によるものか。週刊誌にも取材源の秘匿があります。社内で真相の分かる人は、私も含めて皆無だったはずです。
ただ、「なぜ、幹部と敵対するこの3人だけが……」との詮索が流れるだけで、後ろ盾が意識され、部長は、ますますアンタッチャブルになりました。居座った幹部は権勢を強め、仕事の実績より、上司のお気に入りが出世する派閥人事がはびこって行きました。
「報道の使命・責務」などという言葉は、建前論で語られても、この頃から本気で記者が口にすると、鼻でせせら笑われる風潮が強まったのです。記者は報道に真剣になるより、上司の顔色をうかがうことが多くなりました。何を言われようと居座り、社内権力を握った方が勝ち。「職業倫理」という歯止めをなくし、力の論理が横行。やがて、朝日がサラ金から、訳の分からない大金を受け取る武富士問題も起きた遠因を探れば、この頃にあったと私は考えています。
いずれにしても。サンゴ事件は、朝日を浄化するより、モラルハザードを加速させ、少しずつ腐敗していた組織が一気に堕落するきっかけになったのは確かです。
そんなこんなで無駄な時間を過ごすうち、もう師走です。私の「豊田は長くて1年」という約束も過ぎようとしていました。堰の工事は大詰めを迎え、反対運動している住民は、ハンストで最後の抵抗をしていました。私も呼応して編集局長室の前で、ハンストに入ろうかとも考えました。しかし、情けないことにその勇気が出ませんでした。
その頃、局長が大阪の編集局長に異動するとの情報が、私の耳にも入ってきたのです。局長には、指示に従い、デスクや部長に説得した結果も伝えていました。でも、なしのつぶて。もう何を言っても無駄だということは、当然、私も分かっていました。
◇リクルート事件の立役者が記事を止めた理由
しかし、記者なら、あとで「言った」「言わない」は愚の骨頂です。これまで局長に言い続けたことを後々の証拠にするためにも、文章にして残して置く必要があると、考えました。私は、局長宛に長文の「長良川河口堰について」という文書を送りました。
それでも、仮にも局長宛の手紙です。「失礼の段があれば、お許しください」と、出来るだけ丁寧な言葉で始めたつもりです。「あれも書きたい」「これも言っておかなければ」と思ううち、45頁の長文になりました。
「『環境』を一つのテーマにすることを公約した朝日新聞が、『取材した事実』を報道しないことがあるなら、将来に大きな禍根を残す」として、何を報道すべきか、私が取材した経過、集めた証拠資料、建設省の言い訳のカラクリなど、こと細かく書き連ね、報道開始を促しました。
堰建設が「地域に与える影響」として、環境問題に限らず、建設費負担で地域財政を圧迫、水道料金も大幅値上げになること。「堰と政治・行政改革」として、55年体制を維持する政治資金供給のため、必然として生まれた「無駄な公共工事」、政・官・業の癒着が、いかに今日では政治と行政の歪み、腐敗を生み、国民負担の増大に繋がっているかも、政治記者の経験も踏まえて指摘したつもりです。
バブル崩壊の兆しが見えていました。このまま税金を垂れ流し、高齢化社会を迎えたら、この国はどうなるのか。どうしてもそこだけは、訴えざるを得ません。「公費天国」「談合」報道に取り組んだ部長が、腐敗の源泉、本丸の「無駄な公共事業」を前に、何故、記事を止める側に回るのか。調査を強く促しました。
もちろん、以前のこの局長の言葉通り、「直訴する時は、首をかけて」も当然の話です。私はこの直訴文とともに、辞表も一緒に書き、自分の机の下に忍ばせました。本来なら「一身上の都合により」と書くべきところ、「河口堰報道弾圧に抗議して」と、はっきり書いて置きました。
もっとも、何を書いても、局長は何の返事もしてこないだろうと、思っていました。ところが、年末ぎりぎりになって、局長から私宛の手紙が支局に届いたのです。しかし、文面を見て、私は愕然とするしかありませんでした。
手紙は、「長文のメモを受け取りました。局長として後任に引き継ぐ筋合いのものではないと判断するので、以下、個人からの貴兄への私信として、受け取ってください」から始まっていました。しかし、私が編集局長という「公人」に送った文書です。返事も「私信」であろうはずはありません。
「報道の自由」という公益性に関する話でもあります。手紙の文面は、私が後に朝日相手の裁判で証拠としても提出しており、以前の本欄「言行一致で表現・報道の自由を守る覚悟を 、5・3の憲法記念日に複雑な思い」で取り上げました。
立派なご託宣を社会・読者に垂れている新聞の編集局長のことです。さも部下の記者にも立派な文章を書いて来ると、本欄の読者の皆さんも思われているかも知れません。お読みになっていない読者のために、もう一度再録しておきましょう。
◇「もう一度忠告したい・・・」
「読ませてもらって、もう一度忠告したい。第一に貴兄の目的は何なのか。掘り起こしたデータを紙面化することにあるなら、特定の人間を批判することが目的と受け取られるような拙劣な手紙を軽率に送らない方がいい。
第二に、掘り起こしたデータを生かしたいなら、何度も言うようだが、出稿部の中で、正規のルートで上げていくべきだ。貴兄は、取材資料をもとに、社会部デスク1人ひとりに説明し、紙面化への努力をアピールしたか。1年半か2年前、貴兄の素材は一度デスクレベルで、検討されたと聞いている。それから長い時間がたった。データは今でも使えるのか。当時出たとされる疑問点をクリアするような、補強データを新たにつかんでいるのか。
もし建設省が全面否定するような場合は、どうするのか。どうできるのか――こういった点をひとつひとつデスク諸公(1人のデスクが否定的なら、他のデスクというように)に根気よく、話してみたか。小生には貴兄がそうしたとは、とても思えない。出稿母体での手順を踏んだ論議を飛び越えて、局長室が采配を振うことがよいこととは、小生は思わない。
第3に、状況認識について、思い詰めたり、焦ったりしてはいけない。新聞記者は冷静でなければいけない。小生は名古屋に来る前にも、『討論のひろば』特集などを読んでいたし、来てからも社説等も調べた。その後の紙面切り抜きをみても、名古屋・社会部が全体として、報道姿勢を180度転換したとは、とても思えない。にも拘わらず、工事が進行しているのは、建設省が強行しているからであって、朝日新聞が弱腰だからというのは論外であり、そんな風に絡めて考えることが間違っている。
貴兄のつかんでいるデータがすごいものなら、必ず陽の目は見るだろう。そうなりにくいなら、まだデータとして弱いからで、さらに努力して補強する気持ちが湧いてくるだろう。
繰り返す。他人の中傷と受け取られかねない長大の゛やけっぱち゛文書をつくる暇があるなら、貴兄の取材資料一点にしぼって、デスク1人ひとりに話し合うことが最善ではないのか。貴兄と名古屋社会部のために、そうすることを要望します。 ご健闘を祈る」
◇朝日は「報道の自由を守る」と繰り返すが
何が「ご健闘を祈る」だ。何より私の策略にまんまとはまり、証拠に残る直筆の「やけっぱち」「拙劣」な手紙を送ってくる編集局長の「軽率さ」に驚きましたが、この文面に対する私のコメントは、先に取り上げた本欄に書いた通りです。しつこいと思われてはいけませんので、ここでは再録しません。お読みになっておられない方は、ぜひ、先の本欄をご覧ください。
私自身、辞表を書いてはみたものの恥ずかしながら、「記者」という職業に未練があったこともありましたが、とにもかくにも馬鹿馬鹿しくて、この文面を読んで、とてもじゃないですが、用意していた辞表を編集局長に叩きつける気さえ起きませんでした。
その後も、本欄で後々書くいくつかの場面で、直訴文と一緒にこの手紙を世間に公開する誘惑に、何度も駆られたことは事実です。しかし、この程度の人物が幹部です。週刊誌からまともに取材されたら、右往左往するだけです。お粗末な文面を見て、「本当に朝日を潰しかねない」と、公開がますます恐ろしくなり、アクセルを踏みつつ自分でブレーキもかけることも、私の習い性になっていったのです。
この局長はその後、1999年の箱島信一社長の誕生で、朝日のお目付役である監査役に抜擢されています。背後に様々な派閥力学があったと、私は社内のウワサで聞きました。しかし半面、この人物は116事件の追悼式では、犠牲者の霊前で朝日を代表、「報道の自由を守る」と、毎年力強く誓ってもいるのです。残念ながら、これが「朝日」という組織の内幕だったと言わざるを得ません。
申し訳ありません。ここまで書いて来たところで、今回もまた与えられた紙数が尽きました。次回は編集局長が代わり、新しい局長との闘いが始まったことから始めたいと思います。ぜひ次回もご愛読頂ければ幸いです。
≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)
フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」(東京図書出版)著者。