1. 共事業は諸悪の根源? ジャーナリズムでなくなった朝日 その3(前編)

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2013年10月10日 (木曜日)

共事業は諸悪の根源? ジャーナリズムでなくなった朝日 その3(前編)

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)

安倍首相は、予想されていたこととはいえ、消費税増税を正式に記者会見で表明しました。しかし、何故、無駄な公共事業でここまでの大借金を溜め、増税を国民にお願いするしか道がなくなったのか。残念ながら、安倍首相の言葉に、これまでの自民党長期政権時代の責任、真摯な反省の言葉は何もありませんでした。

次世代に大借金をツケ回しするのではあまりにも無責任です。こんな政権を選択した私たち国民にも、責任の一端はあります。ですから、消費税増税は受け入れるしかないと、私は思っています。しかし、それは増税で確実に借金が減る保証があっての話です。「景気対策」のためなら、増税しないことが何より一番です。

自民党の今の顔ぶれを見ても、私が政治記者をしていた時代とそれほど大きく変わったとは思えません。増税で予算枠が拡大されたことをいいことに、また政・官の利権拡大のために「景気対策」と称し、これまで同様、無駄な公共事業に走ることは目に見えています。

その証拠に民主党時代、曲がりなりにも凍結状態だった多くのダムが建設に向けて動き出しています。でも、その大半はこの欄で私が報告している長良川河口堰同様、無駄な事業です。消費税増税の前提は、「徹底的に財政の無駄を省く」だったはずです。しかし、財政の見直し、行財政改革は具体性に欠け、ほとんど手付かずのまま、「消費税増税に見合う景気対策」では、すり替えも甚だしいと言わざるを得ません。

「監視役」は、ジャーナリズムしかないのです。しかし新聞だけ、消費税をまけてもらおうと、こそこそ政府に働きかけをしている新聞界の姿を見ると、本当に情けなくなります。もし、「新聞が国民にとってかけがえのない『知る権利』を守る必需品」として本当に軽減税率を適用すべきだと思うなら、何より「権力の監視役」を果たし、新聞界が国民の信頼・支持を回復することから、始めるべきだと私は考えます。

◇名ばかりの豊田支局長に

「公共事業は諸悪の根源」のこのシリーズも、7回目です。今回は、東京本社での政治記者をしている時も、長良川河口堰報道を止められ、私が愛知県の豊田支局に赴任させられた時のことを報告して行きたいと思います。朝日が「権力の監視役」どころか、いかに国民・読者の「知る権利」を裏切って来たか、より具体的にお分かり戴けるのではないかと思います。

私が政治部から1992年正月に赴任した愛知県の豊田支局は、それまで名古屋本社の社会部長が統括する1人勤務の地方通信局の一つでした。「トヨタ自動車の隆盛に伴い、取材拠点を強化する」として、二人勤務の支局へ昇格させ、「トヨタへの手前、初代支局長は、政治部経験者がいい」が、私の人事の表向き理由です。

しかし、支局は支局長、支局員の二人制。トヨタ担当は、私に何の指揮権もない経済部員の兼務者。支局長に指揮権はなく、支局長は今までの通信局長と同様に、一人で地域を走り回り、地方版を中心に記事を書くという職務分担だったことは前回も書きました。

名古屋社会部本隊に戻せば、私が河口堰報道再開を強く求めてくるのは目に見えています。豊田なら、河口堰は管轄外。私を名古屋社会部長の監視下に置き、河口堰報道をさせないのが、最初からの人事の狙いだったのは、私のような単純バカにすぐに分かります。

◇「君が一人で騒いでみても、孤立するだけだ」

この部長に何を言っても無駄なことは、これまでの経過からも明らかです。着任早々、慣例通り名古屋本社に出掛け、部長にも赴任の挨拶はしました。しかし、通り一遍のことしか話しませんでした。

東京本社の幹部ですら、部長の行状を知っていても、何の自浄作用も働かせませんでした。よほどの裏事情があるはずです。東京本社を去る時、ある幹部から「君が一人で騒いでみても、孤立するだけだ」との忠告も受けていました。

「部長は春には転勤になる。それまでは自重せよ。部長が名古屋からいなくなれば、君も名古屋社会部本隊に戻れる。それから河口堰報道を始めた方が得策だ」との助言もありました。今は無駄な闘いをするより、部長が春にいなくなるのを待とうと思い直していたからです。

久しぶりの名古屋です。先輩、同僚、後輩にも顔を合わせました。東京の頃も、ある程度状況は聞いてはいましたが、名古屋本社の中は、想像以上に荒廃していました。部長は私の特ダネを止めながら、他の部員には「特ダネを書け。地方版などどうでもいい」との指示を出しているというのです。そのため、地方版の身近な記事に生き甲斐を感じていた年配の地方記者は、やる気をなくし、地方版さえまともに埋まっていませんでした。

◇地方版を記事で埋めることに専念

私は調査報道や事件・政治の取材に長く携わりました。しかし、そんな大上段に振りかぶった記事が新聞のすべてとは、思っていません。身近で親しめる地方版やスポーツ、家庭欄も、新聞にとっては大事な記事なのです

私の経験でも、最初から狙って一面の特ダネが書けるはずもないのです。細かい記事を書きつつ、人間関係を作る。相手から「この記者なら」と信頼を得た時に、大きな特ダネ情報がもたらされるのが、常でした。

それに何より、中部圏では、朝日は弱小新聞に過ぎません。圧倒的な部数を誇るのが、中日新聞です。中日は、豊富な資金力にものを言わせて、各地に配置した多数の記者の人海戦術で、濃密な地方版を最大の売り物にしています。朝日が中日に対抗するには、地方版の充実は避けて通れない課題だったのです。

ただ、中部圏での全国紙比較では、朝日は他を大きく引き離していました。地元権力に媚びない調査報道と、読売、毎日には少なくとも負けない地方版の量と質の両輪が支えです。地方記者採用が多い名古屋本社の先輩が、地道な努力で地元に人脈を築き、歯を食いしばって作り上げた伝統・遺産でもあったのです。

私の特ダネも、多くの読者が読んでくれての話です。私の調査報道を潰し、地方版さえまともに作れない部長は、これまでの名古屋本社を支える両輪を二つとも破壊しているとしか考えようがなかったのです。

私は、とにかくこの部長の在任中は地方版を埋めることに専念しようと心に決めました。1日100行以上、週の半分は、私の原稿で担当の愛知県東部に配られる三河版のトップ記事を書く。それを自分自身へのノルマとして課しました。

部長のやっていることへの最大のアンチテーゼ、との思いもあったのですが、それ以上に私の古巣でもある名古屋本社の支え・伝統をこれ以上、壊されたくなかったのです。

◇「おめぃはデスクに聞くと・・・ 」

私にとって豊田は駆け出し以来、10数年ぶりの地方支局勤務です。この時の経験は、以前のこの欄「領土侵略なき戦後日本の繁栄 憲法9条を支えたのは、技術力」でも書きました。正直、やってみると、結構楽しかったのです。人の好い地元の人たちへの取材は、緊張感ばかり強いられてきたこれまでに比べ、ほっとさせられるものがありました。

豊田は、トヨタ自動車の工場ばかりとのイメージで赴任しました。しかし、市域の半分以上は農地、山林。豊かな自然がありました。特産の梨や桃が実ると、市の職員が知らせてくれ、格好の地方版の記事になり、たまには試食にもありつけます。

身近な記事に、読者の反応がすぐ分かります。殺伐な事件を追ったり、海千山千の政治家、官僚取材で見えなくなっていた人々の本当の暮らし、心が見えたように思います。何より、私は夜討ち朝駆けの慢性的睡眠不足から、ようやく解放されました。その結果、三河版だけが大幅に原稿が溢れるようになったのです。

そんな時です。部長が突然、支局に電話をかけて来ました。

「おめぃはデスクに聞くとなかなか書いているって言うじゃないか。俺はおめぃを評価している訳じゃない。だが、デスクも言っとるから、査定はちゃんとした。俺の言うことを聞けば間違いない」

私は生返事をして電話を切りました。昇給に響く3月の査定は、最上級の評価になっていたのです。部長の電話は、私への懐柔のつもりだったのかも知れません。

◇ジャーナリズムか腐敗の記念碑か

しかし、聞いていた部長の「春の異動」は消えていました。私が名古屋を去ってから本格化した河口堰工事は、その間も着々と進んではいたのですが、ただ、長良川は堰本体が完成しても、堰上流15キロのところで川床が急に1メートル余り、高くなっている「マウンド」と呼ばれる場所があります。自然の塩止めになっていて、満潮時でも海水をそれ以上、上流部に遡上させない堰と同様の効果があったのです。

例え堰本体工事が完成しても、締め切ってマウンドも浚渫で削らない限り、海水は遡上しません。つまり、マウンドさえ残っていれば、堰はいつでも開放出来、本州で唯一ダムのない川として知られる長良川の清流は守れます。そのため、堰の完成が間近になっても諦めず、反対運動はより熱く盛り上がっていました。

朝日の社内事情で大幅に遅れたのですが、この段階で私の記事が陽の目を見れば、まだぎりぎり間に合い、堰の運用は止められます。だから私は名古屋本社に戻ることを選択したのであり、完成した河口堰は、無駄な公共工事は二度としないと誓うモニュメントにすればいい、と考えていました。少なくとも、ジャーナリズムが官僚や政治家に取り込まれていた記念碑として、堰を残したくはなかったのです。

部長の転勤がなくなった以上、もうおとなしく待つ訳には行きません。私の方から積極的に動き、何とか河口堰報道を復活させるしか道はありません。当時、名古屋本社の編集権を持つ最高責任者・編集局長は、大阪本社出身者でした。大阪出身なら、東京の派閥人事・人脈と距離を置いているのではないか。この人物に対し、淡い期待があったのも事実です。

◇「銃弾に屈するな」の編集局長に期待したが

この編集局長と私はそれまで直接の面識はありません。でも、人格者と聞いていましたし、何より、阪神支局に賊が押し入り、二人の記者が死傷した116号事件当時の大阪本社社会部長です。

「銃弾に屈するな」と、「報道の自由」に積極的な発言もしていました。これまでの経過を丁寧に話せば、この編集局長なら、部長の横暴をひょっとしたら止めてくれるのではないか。私には、甘かったかも知れませんが、そんな思いもあったのです。

残された時間から考えても、もう編集局長直訴以外に方法はありません。ただ、これまでの経過からも,事を荒立てては逆効果になるぐらいのことは私にも分かります。編集局長の支局視察の際に話そうと、私は戦略を立てました。新たに支局が開設されると編集局長視察があり、その夜に懇親会も開かれるのが慣例だったからです。その場なら、じっくり話も出来ます。

赴任当初から、局長秘書役の編集業務部から「懇親会場も準備しておくように」言われていましたから、その日を待ちました。しかし、赴任から3ヶ月。一向に視察日時の連絡がありません。編集業務に問い合わせると、「局長は豊田には行かないと言っている」と、意外な答えが返ってきました。理由も尋ねましたが、担当者は言葉を濁しました。

こうなれば、名古屋本社に直接乗り込み、直訴するしかありません。事前に話せば、局長が逃げる恐れが十分あります。4月になり、局長にアポなしで行き、二人で話そうとしました。

しかし、局長は、「無断で部屋に入ってくるなんて、何だね。河口堰のことなら、私に話しても仕方がない」と、最初から腰が引けていました。局長室に入って、「無断で」と怒られたことも初めてです。引き下がらないと、「君はデスクや部長に話をせず、いきなり局長のところへ来るなんて、どういう了見だ」と、怒鳴られる始末です。

◇逃げ腰、また逃げ腰

私もさすがにムカッと来ました。「社会部内で話が出来れば、局長のところへ来ません。このままでは、名古屋編集局として将来に大きな禍根を残す」と、強引にごくかいつまんで概要を話し、食い下がりました。

しかし、「まず、デスクや部長に話しなさい。私は知らない。君がどうしてもと言うなら、首をかけて社長、そう社長のところへ行ったらどうだ。とにかく私は話を聞かん」と、けんもほろろ。これまで聞いていた人物評とは、まるっきり人が違いました。

名古屋本社の編集権は編集局長にあります。この言葉にうっかり乗り、社長に直訴すれば、筋違い。「中堅にもなってそんなことも知らないのか」と、逆手にとられかねません。私はきちんと事実がわかれば対応も変えてもらえるかもしれないと、半ば強引に政治部の時に作った河口堰の「取材経過」を、局長に預けて帰りました。

しかし、1カ月待っても、なしのつぶて。局長からの連絡がない以上、このためにだけ豊田を離れると、「職場放棄」などと言い掛かりをつけられる心配がありました。実はこの頃、警察記者時代の先輩から、私の立場を心配して一つの注意の電話が支局にかかっていたのです 。 局長とも職務上、密接な関係にあった先輩によると、会合に行くため、局長、社会部長と同じ車に乗り合わせた時のことです。「普通なら、あんなところに赴任させたら、腐って記事を書かなくなる。そうすれば、もっと飛ばしやすいのだが、あいつは記事の出稿量は相変わらず多い。やりにくい」と、その時の会話で部長が言い、局長も「まったく」と相槌を打って、二人で含み笑いをしていたというのです。

先輩は「いくらなんでも我慢ならん」と私に教えてくれたのです。だから私も、必要以上に普段の行動に注意しなければならなかったのです。

7月になって、名古屋本社に行く名目があり、やっと局長に会えました。今度はさすがに「社長に言え」とは言いませんでした。しかし、「社会部内の話だ。私は知らない。部長、デスクに君はきちんと話をしたか。私に言っても筋違いだ」と、相変わらず、突き放されるだけで終わりました。

もちろん言われるまでもなく、私はデスクとそれなりに話はしています。しかし、経過を薄々知っているデスクは、巻き込まれるのを恐れて、「その話はとにかく」と逃げ回っていたのです。局長にデスクとは何度も話をしたことも伝えましたが、同じ言葉を繰り返すだけでした。

局長の指示は、「部長にも、きちんと話をしろ」ということでした。もちろん、普通に話をしても、けんもほろろであることは目に見えています。ただ、編集局長の手前も形式上、どうしても話をしておかなければなりません。私は話が出来るきっかけがないか、タイミングを探りました。そんな時です。絶好の機会が訪れたのです。【続】

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)

フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」東京図書出版)著者。