1. 領土侵略なき戦後日本の繁栄 憲法9条を支えたのは、技術力

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2013年02月28日 (木曜日)

領土侵略なき戦後日本の繁栄 憲法9条を支えたのは、技術力

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)

前回の本欄で、私は東北赴任の経験からこの国の古き祖先、縄文人のDNAから憲法9条が根付いた訳を考えました。

今回は、東京・政治部記者から理不尽な人事で愛知県・豊田市に赴任・幽閉された時の体験に基づいた話です。実はその時、縄文人が世界史的には類い稀な人類であったのと同様、戦後の日本人は、人類史の中で類い稀な一つの実証をしたことに気が付いたのです。つまり、資源もない小さなこの国を、領土の拡張なしに世界第2位のGNPを持つまでに成長させたことです。

戦時中、空襲でほとんど工場が狙い撃ちされ、戦後、働きたくても働く場所のない焼け野原の中で、人々は立ちすくみました。乏しい資金の中でやっと工場を建て、真面目に働き、技術力を磨いたことが、今の繁栄に繋がったのです。

戦争によって国土を拡げなくても、世界屈指になるまでに国力を伸ばせた……。その基盤が人類の理想とも言える「9条」を堅持する道を世界で初めて切り開いたとも、言えるのではないでしょうか。

ただ、欲に目がくらみ、おごり高ぶったことでバブル崩壊を招き、今ではGNPでも中国に抜かれ、この国は元気を失くしています。でも今は、9条を簡単に捨て去る時ではないと思います。もう一度この国の戦後の歩みを振り返り、人々が自信を取り戻して欲しいのです。

9条で可能になった「軽軍備」が、いかにこの国を支えて来たか。逆に9条によりもたらされた「侵略なき繁栄」が、9条を支える基盤をこの国に作り出したか。「自主独立」とは、何も軍備で独立することだけではないはずです。豊田で私が見たことをヒントに、この国の「戦後の繁栄」の原点は何だったのかを、冷静に見つめ直して戴ければ、いかがでしょうか。

◆社内の派閥力学で豊田支局長に

豊田市は、言うまでもなくトヨタ自動車のお膝元、企業城下町です。前回も書いた通り、私の人事は長良川河口堰報道に携わって以来、常に異例でした。豊田支局長に決まったのは、山形に赴任する5年前、1992年正月でした。

1990年夏、完全に立証を終えていた河口堰の調査報道記事を当時の名古屋・社会部長から止められ、政治部へ転勤になりました。しかし、政治部でも、「人々の知る権利」に応えなければならないジャーナリストの義務からも、何とかこの記事を復活出来ないかと探り続けていました。

当時の建設省がいかにウソを言い、無駄な公共事業を強行しているか。同省の極秘内部文書を多数入手、完全に裏付け証拠がある話です。東京本社の政治部長と社会部長に資料を見せ、説得したところ、やっと了解が得られました。私も含めた政治部・社会部の合同取材班が編成され、「さあ、これで記事になる」と、意気込んだ矢先のことでした。

報道を止め続けた名古屋社会部長から「名古屋で止めた話をどうして東京で復活させるのか」と横やりが入り、中止が決まったのです。

朝日では、東京の部長より、名古屋の部長ははるかに格下です。サラリーマン経験のある方なら分かるはずです。まともな理屈のある話ならともかく、本店の部長同士の決定に支店の部長があらぬ文句をつけたらどうなるか……。通常では、名古屋の部長が東京の部長同士の決定に異論を唱えることも、東京の部長がそれを聞き入れることも朝日の社内常識からは、あり得ない話だったのです。

しかし意外にも、東京の部長はそれに従ったのです。当時、東京本社の廊下ですれ違った東京社会部長は、私の顔を見ると、口にチャックのゼスチャーをして、「身のためだ」と一言言い残し、去って行きました。

その頃すでに朝日は、社内の派閥力学によって、報道以外の価値観が優先される組織になっていました。

それまでも真綿で締められるような感覚から、河口堰報道中止の裏には、隠然たる経営上層部の強い意向が働いているのではないかと、なんとなく感じてはいました。でも、名古屋の部長の個人プレーではないことを、私が改めて確信したのはこの時でした。東京の部長は、名古屋の部長ではなく派閥で繋がった上層部を恐れたからこそ、報道機関として通常あり得ない決定を下した…。私は、そう思うしかなかったのです。

報道中止が決定して間もなく、私に名古屋本社管内の豊田支局長への転勤命令が下りました。名古屋社会部記者として河口堰報道を止められ、政治部に異動になったのですから、1年半ぶりに名古屋本社に舞い戻ったことになります。

「豊田支局」に行って見ると、市役所近くの小さな古ぼけた建物でした。それまで豊田は一人勤務の「通信局」(今の朝日は「通信局」の名称は廃止、一人勤務でも「支局」とし、県庁所在地支局長は「総局長」と改称しています)でした。二人勤務の「支局」に格上げするに当たり、少し建物に手を加えたとはいえ、手狭さは否めません。

人事の名目は、「トヨタとの関係もあり、通信局から支局に格上げしたからには、初代支局長は政治部出身者がいい」と言うことでした。でも、すでに経済部出身の別の人物に初代支局長就任を打診していたことも分かりました。その人物を押しのけ、私を強引にはめ込んだのです。

「支局」と名がついていても、部下のはずのトヨタ担当の支局員は経済部員。支局長には何の指揮権もありませんでした。支局長は従来の一人勤務の通信局長時代と実質何ら変わりはなかったのです。豊田地区の地方行政や事件を取材、地方版に記事を書くのが日課。もちろん、政治部キャップからこうした実質、「通信局長」への異動は、まず前例がありません。

「こんな左遷人事は見たことがない。でも、この部長の天下は長く続かないだろう。しばらく我慢せよ」。私は先輩、同僚から、こう慰められて赴任しました。豊田なら、私を名古屋社会部長の監視下に置ける。豊田地区の話しか書けないから、河口堰報道を蒸し返される心配もない…。名古屋の部長や上層部の人事の狙いは、そんなところにあったのでしょう。

◆豊田市のイメージと実態

でも、前回書いた山形支局への赴任同様、ここでも「人生、いたるところに青山あり」です。何より、私の慢性的睡眠不足がやっと解消しました。朝日に入社して以来、私はそのほとんどを警察や政治、調査報道記者で過ごしてきました。情報源への朝駆け夜回りの連続で、睡眠時間は3?4時間もあればいい方でした。豊田に来て、初めて枕を高くして、ゆっくり寝られたのです。

私は隣町の名古屋に長く住んではいました。でも、それまで豊田を訪れる機会がほとんどありませんでした。赴任するまで、豊田には街中に、トヨタとその関連企業の工場がひしめいていると、すっかり思い込んでいたのです。多分、この欄の読者の方々もそんなイメージで豊田を捉えられていると思います。

しかし、豊田市市域は約920平方キロのうち、実は、工場・住宅のある市街化区域はわずか50平方キロに過ぎません。あとは農地や山林。赴任して初めて、「自然豊かな街」であることを実感したのです。

人のいい市役所の人は、市内山間部で特産の桃や梨などが実ると、宣伝も兼ね、記者クラブにも試食用に持ち込んでくれます。新鮮なおいしい果物を口に出来る「役得」もありました。

一方、豊田市の統計によると、市の工業品出荷額は10兆円6000億円(2010年現在)に上ります。市域の5%ほどに過ぎない市街地の自動車工場などでこれだけの富を生み出せるのです。最近の為替相場で換算すると、1150億ドル余りです。

少し統計の取り方は違いますが、世界全体のGNPは、70兆ドル程。世界1位の米国は、この年、14兆ドル余りです。つまり、広大な米国の国土全体で生産する富の0.8%余りを地球上、米粒にもならない自然豊かな豊田市一市の工業製品で占めていることになります。

今でこそ、トヨタは世界中で生産しています。でも、私が赴任した当時は、豊田市に工場が集中し、世界の中で今以上に、存在感を持っていました。この街から輸出されるトヨタ車は、米国の自動車市場を席巻する勢いがありました。

もちろん、トヨタの隆盛にも光と影の部分があります。私はトヨタを礼賛するつもりはなく、地域のそんな問題を地方版に書いて来たつもりです。でも、資源も少ないこの国の経済を、世界有数にまで押し上げたトヨタを始めとした自動車産業の努力・技術力…。それは素直に評価してもいいと思いました。

◆侵略なき「繁栄」

もちろん自動車産業だけではありません。今は元気を失くしたとはいえ、テレビなどの電子・電気産業も、豊田同様、市域全体から見れば取るに足らない工場敷地で生産し、大きな富を生み出しました。

半面確かに、工場のある都市部への人口の集中は、戦後、過密過疎と言う問題を、この国にもたらしはしました。今、地方には多くの過疎地があります。しかし、このことも考えようによっては、この国は「広い国土」を持て余している証しの一つとも言えるでしょう。

太古から第2次世界大戦までの人類史は、領土の広さが国力を決める時代と言って過言ではありません。古くは、エジプト、ローマ帝国、中国の元……。ヨーロッパで絶えることもなかった戦乱も、農地・領土の拡大争いです。英国も日本と同じ小さな島国ですが、世界に領土・植民地を拡げることで、国の富、国力を高めて来ました。

だから、世界では侵略戦争が横行。その陰で、侵略する側、される側を問わず、双方の兵士だけでなく、争いに巻き込まれた民間人の多くも傷つき、亡くなりました。その家族・肉親の涙で埋め尽くされているのが、人類史です。

しかし、トヨタを始めとしたこの国の企業は、小さな土地に高い技術力を集約することによって、大きな富を生み出しました。領土の広さに比例せずとも、大きな国力をもたらすことを、人類史の中で初めて立証したとも言えるのではないでしょうか。

では、この国に平和・安寧と「侵略なき繁栄」をもたらした、「本当の担い手」とは誰だったのでしょう?

「霞が関の優秀な官僚が、この国を支えて来た」。これは、テレビでしたり顔で話す評論家などからもよく聞く話です。でも、霞が関を取材していても、私にはとてもそのようには思えませんでした。霞が関の官僚自身が流して来た神話・宣伝文句を、無批判な評論家が鵜呑みにして来た結果だと思います

私は豊田に来て、「繁栄の現場」を見つめられたお陰で、本当にこの国を支えてきた人々をトヨタの工場の中で見つけることが出来たのです。中学を卒業して間もなく親元を離れ、貧しい農村から都会に出て来て、真面目に働き続けた「集団就職組」と言われる人たちです。

戦後、ほとんどの工場が空襲で焼けました。「焼け跡闇市」と言われる混乱の中で、人々は希望を失い、立ち尽くしてもいました。でも、米国がプレゼントしてくれた憲法9条のお蔭で、この国は軍事費を抑えることが出来、その分、工場などへ集中投資する余裕がわずかずつでも生まれて来ました。

工場が立ち始めても、この国は主力の働き手を戦場で失っています。経営者が労働の担い手として頼るのは、年端もいかない若者です。「金の卵」とまで言われ、「15の春」で親元から離れ、遠く九州や東北・北海道からも集団就職して来たのです。トヨタやその関連工場に働く人に聞いても、そんな地域に故郷を持つ人が大勢いました。

ご承知のようにトヨタの車は、一人の卓越した研究者・技術者の発明の成果によるものではありません。

こんな若者たちが職場で真面目にコツコツと働き、職場の身近なところから一つ一つ創意工夫、作業手順の改善でコストを削減し、技術力も磨いてきました。その結果、世界有数の生産効率・技術力を実現、ついに自動車王国・米国を凌駕するに至ったのです。

もちろん、トヨタもこうした当時の真面目な若者により担われた工場の一つに過ぎません。全国至るところにこんな若者がいて、工場があった。だからこそ、この国に「侵略なき繁栄」をもたらしたのです。

今、当時の若者は、老人になりました。超高齢化社会の到来で、厄介者扱いもされています。しかし、この人たちは、戦後真面目に働き、この国の礎を築き、多くの富を蓄えました。本来、それで誰に気兼ねもなく、自分たちの老後資金を賄えると考えていたはずです。

◆だれが日本を支えてきたのか?

しかし、官僚たちは、利権で繋がった政治家とともに、私が取材してきた長良川河口堰のように、ウソで固めて無駄な公共事業に多額の国民の血税を投入。大震災が起きた時ですら、救済のための資金がないまでに借金を膨らませ、この国を危機に追いやってしまいました。この人たちが「日本を支えて来た」とは、とんでもない誤解です。

今、私たちが思い出すべきことは、「戦争はこりごり」と、戦後の貧しい中から立ち上がった思い・原点に立ち返ることではないでしょうか。そうすれば、「憲法9条」、「領土拡張なき繁栄」と言う、私たちが戦後築いた人類史の金字塔に思いが至り、「軍事大国」でない「日本の誇り」を取り戻せるはずです。

世界史をもう一度、振り返ってみましょう。権力者たちは、自分たちの欲得で招いた失政で国が立ちいかなくなると、常に「外敵」を求めます。それで、国民の不満の目を自分たちからそらせることが常套手段であることも、すぐに分かるはずです。

今の自民・安倍政権は、自民の3年前までの失政を棚に上げ、またも、途方もない借金を重ねて、公共事業の復活に躍起になっています。一方で、「自主独立」などと、戦後の歩みもまともに勉強していない一部の若者を煽り、憲法9条の改正を目論んでいるのではないでしょうか。

しかし、お札を刷っての景気対策は誰にでも出来ても、長続きするはずはありません。消費税が導入された頃から、メッキが剥げ始め、物価が上がっても賃金は上がらず、経済はますます困窮。ギリシャの二の舞になるのではないかと、私は心配しています。

そんな時、次世代に借金を押し付けつつ、不満をそらすため、「外敵」を作り、若者を戦場に駆り出すのでは、「いつか来た道」です。せっかく9条で世界史に新しい地平を築いたはずのこの国がもう一度逆戻り。もう一度これまでの愚かな世界史の轍を踏むなら、あまりにも悲し過ぎる…。私たちが前世代の苦労・努力も無にすることになるのではないかと思えるのです。

?≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)

フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える『報道弾圧』(東京図書出版)著者。