写真展『写真家 チェ・ゲバラが見た世界』、遺跡への関心はパブロ・ネルーダの影響か?
『写真家 チェ・ゲバラが見た世界』と題する写真展が東京・目黒区の恵比寿ガーデンプレイスで、27日までの予定で始まった。主催は、テレビ東京とInterFM897。そしてキューバ大使館が後援している。
筆者は、写真家としてのゲバラという認識をまったく持っていなかった。そのためにどんな写真を撮影していたのか好奇心にかられ、写真展の初日にあたる昨日(9日)、会場へ足を運んだ。
結論を先に言えば、まったくの素人が撮った下手くそな写真ばかりだった。チェ・ゲバラは写真家ではない。彼は、革命家であり、文筆家であり、国際主義者である。
このような企画は、実際の中身よりも、権威で物事を評価する傾向がある日本でしか成立しえない。チェ・ゲバラという名前を伏せて、展示された写真だけを見れば、来場者たちは、「なぜこんな平凡な写真が展示されているのか?」と不思議に思うに違いない。
ただ、ゲバラの人間性に関心のある人にとっては、興味深い側面もある。
◇グアテマラの時代
写真は正直だ。写真そのものの完成度とは別に、写真を見れば、シャッターを押したカメラマンの視線が何に向けられていたかが分かる。その意味ではごまかしようがない。身のまわりにある無数の撮影対象から、何を切り取るかで、カメラマンの関心や思想が推測できる。
ゲバラの写真は、1954年の中米グアテマラから始まっている。母国・アルゼンチンで大学の医学部を卒業したゲバラは、ラテンアメリカの旅にでる。そこで興味を惹かれたのがグアテマラだった。
当時のグアテマラは改革の時代だった。グアテマラの近代史には、1944年から54年まで「グアテマラの春」と呼ばれる特殊な時代があるのだが、ゲバラが見たのはこの時代と、その崩壊期にあたる。グアテマラ政府は、社会的格差の最大の原因である土地の不公平な配分にメスを入れはじめていた。しかし、この農地改革で、米国の多国籍企業・UFC(ユナイティド・フルーツ・カンパニー)の土地に手をつけたとたんに、CIAが主導したクーデターが起こり、政府は転覆する。
それに代わって強固な軍事政権が敷かれた。
ちなみに前政権はUFCに不利益な政策に踏み出したこともあり、左派勢力だったような誤解が広がっているが、「グアテマラの春」は、リベラル右派の政権である。資本主義の枠内で、真に民主的な改革を進め、成功していたのである。
軍事政権が敷かれたことで、身の危険を感じたチェ・ゲバラは、メキシコへ「亡命」する。そこでキューバから亡命していたカストロ兄弟を含むキューバ革命の戦士たちと出会う。そして、グランマ号と呼ばれる12人乗りのヨットに82人が乗り込んで、嵐のカリブ海を渡り、キューバに潜入したのである。
◇『大いなる歌』の影響か?
1954年に撮影されたグアテマラの写真には、インディヘナ(先住民族)を撮影したものが大半だ。次に1955年からメキシコの写真になる。
メキシコでゲバラが撮影した写真には、遺跡が圧倒的に多い。マヤ文明の遺跡である。後年には、エジプトのピラミットを撮影したものもある。これらの写真も、だれにでも撮影できるレベルの写真である。
しかし、筆者は遺跡の写真に興味を持った。おそらくゲバラは、古代へのロマンに酔いしれて次々と遺跡を撮影したのではない。遺跡への関心は、チリの詩人・パブロ・ネルーダの影響だろう。
1967年にゲバラがボリビアの山中で拘束され、処刑されのち、遺品のリックの中にパブロ・ネルーダの詩集『大いなる歌』が出てきたエピソードは有名だ。『大いなる歌』は、ラテンアメリカをテーマとした詩集で、パブロ・ネルーダの代表作である。
この詩集の中に、ペルーの大遺跡・マッチュピッチュをテーマとした一連の詩がある。これらの詩の中でパブロ・ネルーダが歌ったのは、古代へのロマンではなく、巨大な遺跡を作るために、奴隷とした働かされた人々の苦しみだった。古代の人々をみずからの「兄弟」と位置付けて、詩の中で、「あの長い夜」の時代について話してくれ、と呼びかける。
メキシコの時代から遺跡の写真が増えている理由は、やはり『大いなる歌』の影響ではないか。
『写真家 チェ・ゲバラが見た世界』は、ゲバラに関心がある人々にとっては、興味深い企画だが、写真そのものの質は低い。
■ 『写真家 チェ・ゲバラが見た世界』
■8月9日~27日(11:00~20:00)
■恵比寿ガーデンプレイス(目黒区三田1-13-2)
【参考記事】チェ・ゲバラ没50年、プレンサラティナが写真特集