1. 公共事業は諸悪の根源⑱ デッチ上げまでした司法 その4

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2014年12月09日 (火曜日)

公共事業は諸悪の根源⑱ デッチ上げまでした司法 その4

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)
安倍首相は「重要な政策では国民の声を聞く」として、解散に踏み切りました。しかし、憲法9条の実質改憲である集団的自衛権容認、憲法21条「表現の自由」の基礎である国民の「知る権利」を否定する特定秘密保護法の制定で、なぜ、「国民の声」を聞く解散に踏み切らなかったのでしょうか。まさに「まやかし解散」、「まやかし政権」と言わざるを得ません。

「アベノミクス解散」と称したことから、政治評論家の中には、したり顔で小泉首相当時の「郵政解散」になぞる向きもあります。しかし、根本的に違います。小泉首相は曲りなりにも、「官僚機構の財布」と言われた「郵貯資金」に手を付けようとしました。

勿論、自民党の既得利権擁護派の抵抗勢力、官僚機構、官公労やそれをバックにした野党まで反対の大合唱。その中で解散権を行使するのは、国民の声を聞くためにも当然の成り行きだったと思います。

しかし、アベノミクスは今のところ、日銀がお札を刷って貨幣価値を下げただけ。当然、その分インフレ・円安にはなりました。しかし、消費税で懐に入れた金を使って、ダムなど無駄な公共事業を既得権益層にバラまいただけです。公共事業予算は、民主政権時代の5兆円が10兆円に増えています。

しかし、私が解明した長良川河口堰のように、無駄な公共事業は金食い虫、「諸悪の根源」です。今、必要なのは、官から権限もお金も取り上げて民に回し、経済を活性化することです。

◇特定秘密保護法の違憲訴訟

しかし、安倍政権のやっていることは、国民から消費税増税でまきあげたカネを官に供給しているだけです。民間の成長分野に資金や政策が回らなければ雇用も賃金も伸びず、経済が浮揚するはずもありません。

安倍政権では、口先だけで本格的な規制緩和、既得権の整理もしていません。勿論、こんな分野に本格的に手を付ければ、小泉政権の時のように、大きな抵抗に遭います。

抵抗勢力との対決で政治が動かない事態に直面、民を活性化する具体案を示し、国民の意志を問うと言うなら、まだ解散の大義名分はあります。しかし、その熱意も感じられないまま、700億円もの費用をかけて解散では、民の生活は細るばかりです。

こんな解散のどさくさに紛れて、「言うべきことも言えず、知りたいことも知れない」と人々からも強い不安が出ている秘密保護法が、12月10日に施行されます。秘密法をめぐっては、私も含むフリージャーナリスト43人が東京地裁に違憲訴訟も起こしています。しかし、その司法判断も出ていないのに、強引な施行に私は大きな怒りを感じています。

11月19日には、東京地裁で私たちの違憲訴訟の第3回口頭弁論が開かれました。多くの支援者が傍聴に詰めかけてくれ、地裁で一番大きい103号法廷が満杯になりました。その勢いに押されてか、裁判長は次回以降、原告の陳述も認める方向になり、今後、論戦が展開されます。

しかし、翌20日、静岡地裁で開かれた藤森克美弁護士の秘密法違憲訴訟では、傍聴人が少ないのをいいことに、実質審議もまともにせず、裁判長は強引に始まったばかりの裁判の打ち切りを画策しました。

法廷で取材をしていた司法記者はたった2人しかいません。私が司法記者をしていた時代には、違憲訴訟なら私に限らず司法記者クラブに所属していた各報道機関の記者全員が、法廷で取材するのが当たり前でした。こんな所にも若い記者の劣化を感じます。

裁判長は、藤森弁護士の抵抗でもう1回の審理を行うことを渋々認めました。しかし、年内にこだわり、何とか早く審理を打ち切りたいとの意図が見え見えでした。これではまともな判決は期待出来そうもありません。今の裁判所はこの通り、傍聴人・報道機関の監視が言い届かなければ、権力迎合。何でもしたい放題です。

12月1日には、横浜地裁で市民団体による違憲訴訟が始まりました。ぜひ、皆さんによる司法監視、違憲訴訟原告団に対する支援をお願い致します。

◇裁量権の濫用

さて、「公共事業は諸悪の根源」シリーズは今回で18回目。戦前回帰した司法の実態を報告する「デッチ上げまでした司法」の4回目です。

前回のこの欄で、名古屋地裁の裁判官が私の陳述さえ許さず、一度も論戦・証拠調べもせず、実質審理なしに結審。1948年に制定された日本新聞協会の「編集権声明」の2項のみを都合よく取り出し、読者・国民の「知る権利」などそっちのけの朝日の主張を鵜呑みにした判決を出したところまで報告しました。

裁判官は「編集権は新聞経営者にある。記者がどんな取材をしようとも、紙面に掲載するか、しないかは、経営者の裁量権の範囲」。つまり、経営者の勝手であり、記者には何の権利もないと、私に敗訴を言い渡したのです。

今回はここからです。

◇知る権利に応えることは記者の責務

本シリーズ⑮でも書いたように朝日の経営者が守るべき編集方針、つまり「行動規範」では、「国民の知る権利に応えるため、いかなる権力にも左右されず、言論・表現の自由を貫き」「市民生活に必要とされる情報を正確かつ迅速に提供」「あらゆる不正行為を追及」「特定の団体、個人等を正当な理由なく一方的に利したり、害したりする報道はしません」「言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじなければならない」と定めています。

仕事の目標として等しく朝日が記者に求めているのは、「記者行動基準」です。「記者の責務」として、「記者は、真実を追求し、あらゆる権力を監視して不正と闘うとともに、必要な情報を速やかに読者に提供する責務を担う。憲法21条が保障する表現の自由のもと、報道を通じて人々の知る権利にこたえることに記者の存在意義はある」としています。

私の長良川河口堰報道は、「治水のために堰が必要」と言うのは、建設省自らの行政マニュアルと極秘資料に基づいて、全くのウソであることを読者に知らせるものです。読者の「知る権利」に応えるのは、「記者の権利」と言うより「責務」です。私が記者の「責務」を果たさなければ、朝日に責任を問われます。しかし、この「責務」を果たそうとして記者職を剥奪され、ブラ勤にされる理由は全くありません。

一方、朝日の経営者は、私の河口堰報道を止めました。これは自ら定めた「行動規範」の「国民の知る権利に応える」すべての項目に反します。

◇「報道実現権」とは

不当差別などで争われる労働訴訟の基礎的な最高裁判例「不利益変更法理」では、経営者に人事や査定について広く裁量権を認めています。

しかし、憲法27条「労働権」、労働基準法3条「均等待遇」を基に、雇用主が行った裁量権が正当か否か、具体的事実を精査することを求め、「業務上の必要性が存しない場合」「他の不当な動機・目的をもってなされたとき」「労働者に対し通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものであるとき」には、雇用主の「裁量権の濫用」で、「不法行為・債務不履行に該当する」、と判断基準を明示しています。

私の主張した記者の「報道実現権」とは、新しい記者の権利を確立するなどと言う大袈裟なものではありません。労働基準法3条「均等待遇」に基づいて経営者が等しく課した仕事の目標なら、それを達成し、その成果に基づいて公正・公平に評価を受ける雇用者全員が等しく持つ権利に過ぎません。記者の仕事は「報道」ですから、「報道実現権」と称したまでです。

雇用主が特定の雇用者のみ、明文化した仕事の目標を達成することを妨害し、不当配転すれば、具体的事実・経過に照らし、「業務上の必要性が存しない場合」「他の不当な動機・目的をもってなされたとき」に該当し、「労働者に対し通常甘受すべき程度を著しく超える不利益」を負わせたと判断出来れば、「不利益変更法理」上、「不法行為」「債務不履行」が成立するのは当然です。

しかし、名古屋地裁判決は、「編集権は新聞経営者にある」として、濫用の有無について、具体的事実に基づいた審理すらしていません。

事実審理を避けるためのカラクリは、前回のこの欄で詳しく説明したように、私の主張する記者の「報道実現権」が、裁判では最初から認められるはずもない「就労請求権」であるかのようなすり替えでした。「報道実現権」の法的根拠が労働基準法3条「均等待遇」であることを、私が書面で何度も詳しく主張したにも拘わらず…です。

明らかに最高裁判例「不利益変更法理」の判例に反する子供騙しのインチキ判決です。もちろん私は、即刻、名古屋高裁への控訴を決意しました。

◇「雇ってもらいたければ、黙っていろ」

名古屋高裁での控訴審は、2009年7月でした。弁論に先立ち、私は弁護士と控訴状作りに追われました。一審と同様、私が原文を書き、弁護士に直してもらう作業です。ジャーナリストである私が書く控訴状なら、ありきたりのものでは、意味がありません。弁護士の賛意も得て、次の言葉から入りました。

「司法記者は、『世間の論理』『国民感情』にも根ざし、分かりやすく、判決を評論するのが、その任務でもある。裁判に半素人としての控訴人が、『司法記者』として、原判決の『解説』を命じられたとするなら、『判決は、旦那の言うことは絶対であり、番頭や丁稚がどんなに苦労して仕事をしても、その成果を実現するのも、させないのも旦那の腹次第・勝手であり、文句を言う奉公人は、庭掃除でもしておけという封建的主従関係の是認に基づいている』という書き出しから始めるしかない」

かつて朝日は、社内で「村山商店」と言われていました。創業者・社主である村山家に番頭、丁稚のように仕えるのが、社員の役割という意味でした。いかに外に向って自由で進歩的な論陣を張っても、内部は封建体質そのもの。自虐的に語られてきた言葉でもありました。

社員は自分たちに分け与えられたわずかな株式を持ち寄り、信託委員会を作って社主家に対抗。呪縛から逃れ、社主家以外から社長、経営陣を擁立し、対抗しました。近代的な報道機関の形態を名実ともに整えたと、誇らしげに語られた時代もあったのです。

しかし、企業体質は、そう簡単に変わるものではありません。本欄「ジャーナリズムでなくなった朝日」で詳しく報告したように、社主家の影響力が大幅に削がれても、派閥の領袖にとって代わられただけのことです。番頭や丁稚からの批判には、「雇ってもらいたければ、黙っていろ」と言わんばかりの商店体質から脱皮していないのです。地裁判決は、朝日の封建体質を是認するものです。到底是認できるものではなく、こんな言葉から入ったのです。

◇取材経緯を詳述

私の主張する「報道実現権」は、「均等待遇」に基づく権利で、「就労請求権」ではないことをはじめ、コンプライアンス委員会への提訴権の侵害の判断も漏れていることなど地裁判決の不当性を、逐一、念を押して主張しました。

地裁で審議を尽くしているなら、争点も絞られ、整理出来ます。控訴理由はそれほど長くなくても済むのです。しかし、何の実質審議もしていない以上、私は最初から主張をやり直すしかありませんでした。弁護士も、高裁に地裁のような意図的なインチキ判決の余地を与えないよう、しっかり書きこんだ方がいいという意見でした。

取材経過をもう一度詳述し、私に「取材不足」がないことも念を押すと、控訴理由書は50頁の長文になりました。私が何を主張したか。これ以上書かなくても、本欄の読者なら自明のことだと思います。

一方朝日は、私の主張について「一審の蒸し返しに過ぎない」と、極めて短い書面を出して来ました。具体的に書き込めば、一審同様、馬脚が現れます。「触らぬ神に祟りなし」だったのでしょう。

◇書面を読まずに判決を書いた疑惑

こうして1回目の口頭弁論を迎えました。普通は、控訴人、被控訴人、双方の主張を改めて聞き、今後の審理手順・日程などを決めます。ところが、裁判長から耳を疑う言葉が出たのです。何も審理せず、突然、判決日を2ヶ月後の9月2日に指定したのでした。

私は、せめて本人陳述だけでもさせるように、何度も懇願しました。でも一審同様、裁判長は頑として受け付けません。私がなお求めると、「あなたは書面で詳しく主張しているではないですか。これ以上、何を話すことがあるのですか」と逆に尋ねられました。

確かにその通りではあるのです。しかし、一審では、私の書面をまともに読んだ形跡はありません。同じことが繰り返される不安があります。「きちんと法廷の場で説明したい」と主張しました。しかし、裁判長は、「今度は、しっかり書面は読まして戴きますから」と答えました。

朝日で記事に出来なかった長良川河口堰をめぐる建設省のウソの全容。法廷の場を借り、世間に明らかにすることで、ジャーナリストとしての私の責任の一端を果たそうとも考えていました。それが裁判を起こす私の動機の一つでもあったのです。しかし、これではそれさえも出来ません。

ただ、裁判長が「今度は…」という限り、一審は証拠をまともに読んでいないことを言外で認めたのも同然です。裁判長の表情は、地裁のとげとげしさとは打って変わり、にこやかでした。

高裁は、陪審も含め、裁判官は3人です。あまりに露骨な不当判決は出来ないはず、とその時は考えていたのです。不当差別訴訟で一審のように具体的事実の審理は何もしていない判決は最高裁判例・不利益変更法理に明確に反します。もともと私の頭には、高裁はもう一度地裁に差し戻し、事実審理からやり直させる判決が出るのは当然との思い込みもありました。

それなら、弁論は1回で済ましても不思議ではありません。地裁での差し戻し審で、事実審理が出来ます。私も、改めて法廷で取材の全容を世間に明らかすることも可能です。なら、これ以上食い下がっては、高裁の心証を悪くするだけです。後から考えれば、私の思い込みは甘過ぎました。しかし、その時はそんなお思いで渋々ながら、裁判長の指揮を受け入れたのです。

こうして判決日を迎えました。判決は、私の「差し戻し」の予想は見事に裏切られ、「控訴棄却」。一審に続く私の敗訴です。司法記者時代、外したことのない判決予想を2度続けて外すとは、私の勘も衰えたものです。またも、首をひねりながら、書記官室で判決文を受け取りました。

高裁の判決文も、地裁同様、当事者双方の主張をまとめることから始まります。判決文では、「報道実現権」についての私の主張をこうまとめていました。
「いわば『仕事目的実現権』ともいうべきもので、普通の労働者には認められない『記者』特有の,特殊な人格権に基づく権利である」

一体、私が何処で、「『記者』特有の、特殊な人格権」と主張したのでしょうか。何度も「普通の労働者に認められる『仕事目的実現権』の一つ」と主張したのは、本欄の読者ならよくご存知のはずです。冒頭から私の主張さえ、180度逆にデッチ上げられているようでは、先に何が書かれているか、私は不安に駆られました。

急いで、私が地裁の判断を不当として高裁に見直しを求めた争点部分を、どう判断したのか、先を読み進めました。問題の「就労請求権」について、高裁の判断はこうでした。

◇判決に反論はなかった

「労働者が就労することは、使用者が賃金を支払うことに対応する基本的な義務であって、労働者は使用者に対し、当然には就労請求権を有するものではない。そして、控訴人主張の報道実現権は、控訴人が取材活動をして得た情報を基に作成した(これが就労に該当する。)原稿を、記事として新聞に掲載することを求める権利であるというのであるから、その権利の内容からして、就労請求権を超えるものといわざるを得ず、そのような権利が労働契約上,当然に生ずるものとは解し難い」

何のことはありません。一審判決をそのままコピーしただけです。どこを探しても、「『均等待遇』に基づく権利」との、私の主張に対する答え・反論はありませんでした。さらに、判決は次のように続いています。

「控訴人は、被控訴人において、控訴人の仕事の成果を受領すべき義務があるかのようにも主張する。しかしながら、仮に,被控訴人に控訴人のした仕事の成果を受領すべき義務があったとしても、そのことと、被控訴人が当然にそれを記事として新聞に掲載する義務を負うかどうかは、次元を異にする事柄である」

「記者が作成する記事原稿ないし取材結果は、新聞事業の経営管理者等が編集権を行使して報道内容を編集するための、いわば素材に過ぎないものであり、その素材を編集して記事として新聞に掲載して報道すべきか否かについては、編集権を有する新聞事業の経営管理者等が決すべき事柄である。したがって、被用者である記者は、新聞事業者に対して、自己が作成した記事原稿等を、新聞記事として報道すべきことを要求する権利を有するものではなく、これを有するとすることは、新聞事業者の有する編集権を侵害し、ひいては新聞報道の自由を阻害することともなる場合があると解され、この点からも、控訴人が被控訴人に対して報道実現権なる権利を有するものとは解しえない」

「控訴人は、記者の報道実現権を侵害することは、国民の知る権利を侵害することになるから、新聞経営者、編集責任者には、被用者である記者の、一定水準に達した、正当、かつ、合理的な仕事の成果を、受領すべき義務、あるいは責務を、一般企業の雇用主以上に負っていると主張する。しかしながら、新聞記者が国民の知る権利に奉仕することを任務と自覚して、誠実に職務を果たすべきことは当然であるが、それであるからといって、記者は、新聞事業者に対して、記事原稿や取材結果を記事として新聞に掲載することを要求する権利を有しておらず、新聞報道の内容を編集する権利は新聞事業者にあり、個々の新聞事業者の編集方針に従って編集された、種々、様々な新聞報道によって、国民の知る権利が充足されているものと解するのが相当である」

「記者の記事原稿が一定水準に達したものであるかどうかは、編集権を有する新聞経営者やその委任を受けた編集責任者が判断すべき事柄であって、これらの者の判断が適正なものであったかどうかは、最終的には、読者である個々の国民が判断すべきものである。新聞報道される以前の素材に過ぎない記事原稿が、一定の水準に達しているかどうかを裁判所が判断することは、場合によっては、それ自体、報道の自由を侵害することにもなりかねず、その意味でも前記の事柄についての判断は、性質上司法判断にはなじまないものというべきである」

◇記者には何の権利も認めず

高裁も、地裁同様、新聞経営者の編集権、裁量権は絶対であり、記者には何の権利もなく、裁判所も口出し出来ないと言っているに過ぎません。

何度も言うようですが、「記者が国民の知る権利に奉仕することを任務と自覚して,誠実に職務を果たすべきことは当然である」と、私も考えています。新聞が「個々の新聞事業者の編集方針に従って編集」されるということも、間違いありません。一般論としては、確かに「報道の自由を侵害」しないためにも、「司法判断」は出来るだけ最小限にとどめた方がいいと、私も考えています。

しかし、どんな新聞でも「編集方針」の最初に,「国民の知る権利」に奉仕することを掲げています。記者も経営者も「国民の知る権利に奉仕することを任務と自覚して、誠実に職務を果たすべきことは当然」で、記者の「報道実現権」も経営者の「編集権」も本来協調的だと、私は一貫して主張して来たことも、本欄の読者ならご承知のはずです。

記者には「誠実に職務を果たす」義務があっても、新聞経営者にはないとでも高裁は言いたいのでしょうか。経営者が「編集方針」を逸脱・濫用するなら、「国民の知る権利」はないがしろにされ、「新聞報道の自由を阻害することにもなる場合がある」というのが、私の指摘です。しかし、これに対する裁判所の答は、判決文をくまなく探しても見つかりませんでした。

もちろん国家権力ではなく、「編集責任者」の「判断が適正なものであったかどうかは、最終的には、読者である個々の国民が判断すべきもの」です。しかし、戦前、「微力な経営者」が軍部の圧力に屈し、真実が覆い隠されました。国民は報道が「適正なものか」判断するすべもなく、悲惨な戦争に突き進んだのです。「編集責任者」が報道弾圧して、新聞に記事が掲載されないなら、読者・国民は何をもって「適正なものであったかどうか」判断すればいいのか、裁判所に教えて戴きたいと、私は思いました。

高裁も地裁同様、戦前の報道弾圧社会を理想として、記者の「報道実現権」は絶対に認めないと独断と偏見、強い決意で判決文を書いたとしか、私には読み取れません。判決文に対する私の日本語読解力が貧しかった故かは、「読者である個々の国民」である本欄の読者に「判断」して頂ければと思います。

◇高裁判決に見る論理の矛盾

しかし、ここまでは、まだ序の口だったのです。

判決では、何の事実審理もしなかったにもかかわらず、「被控訴人に、どのような記事を新聞報道するかについて編集権や裁量権が認められるとしても、被控訴人が控訴人の取材結果を報道しなかったことは、編集権ないし裁量権を濫用したものであると主張するので検討する」として,「証拠によれば、以下の事実が認められる」と、こう事実関係に踏み込んで来たのです。

本書の読者ならお分かりの通り、もともと私が問題にしていた裁判の焦点は、「報道実現権」があるかないか、「編集権」が唯一絶対かという抽象論、言葉の遊びではありません。突き詰めれば、具体的事実を編集方針に照らして朝日の「編集権・裁量権」に「濫用」があったかどうかという問題です。当然、この点が1審から審理の中心にならなくてはならなかったはずなのです。

高裁は、やっとこの点に踏み込みました。私に「取材不足」がなかったことには、絶対の自信があります。負けるはずもありません。しかし、事実審理や証拠調べもせずに、何を根拠に高裁がどう判断して、私を敗訴にする根拠にしたのか、不安に駆られました。裁判所の事実認定を、少し長くなりますが、そのまま採録させて下さい。

判決文の核心部分PDF

高裁判決の唯一の収穫は、私の出した証拠から(ア)の通り、建設省の「治水上、堰は不可欠」は全くのウソ。ありもしない水害があたかも起きるかのように、住民・国民を脅し、巨額の国民の血税を注ぎ込んで、無駄な公共工事を完成に漕ぎ着けたことを、真正な事実として認定したことだけでした。

しかし、ここまで本欄を読み進められた読者なら、判決の事実認定がどこか変。なぜ私が、裁判所に出したこの部分の書面を本欄に長々と採録したかについても、とっくに気づかれていると思います。

最低限、裁判官は判決文に自分が何を書いたか。それ位の日本語は、自分で理解出来る資質を備えた人のみがなる職業です。しかし、陪審も含めた高裁のこの3人の裁判官は、自分の書いた日本語さえ、自分で理解出来ていません。

高裁判決(ア)では、私の取材結果から裁判官はすでに、「建設省が長良川で想定している最大大水時においても、その水量は安全水位以下に収まり」と認定しています。

ところが、(イ)で一転、「最大23センチメートルのオーバー」の水位図について、デスクが信憑性に疑問を持ち、私に追加取材を命じたと事実認定しています。すでに(ア)の結果が分かっているのに、デスクはわざわざ「最大23センチのオーバー」の水位図を持ち出して補強取材をさせる必要があったのか。そもそも(ア)と(イ)の水位図を取材した時系列は、どうなっているのか。自分の書いた日本語を自分で理解出来る裁判官なら、最低限その点だけでも疑問を持ち、矛盾に気付くはずなのです。

◇役所の無茶の全容

もう一つ言えば、裁判官は「政府は,長良川河口堰建設にあたり,治水,利水を区別することなく3200万トンの浚渫が必要との閣議決定をしたが,……」以下を、(ア)で認定しています。

しかし、これこそ裁判官が(イ)で事実認定した「朝日新聞の責任で前記計算を明らかにすることは,危険が大きすぎる」として、建設省が「どのような方法で計算をし、記者発表をしたのか」、「これまでのルートを通じてさらに深く探れないか」と、デスクが探るように求めた「役所の無茶な嘘」の全容にあり、私が解明した中身です。

つまり、(イ)で記事にするため朝日から私が求められた条件は、すでに(ア)の段階で解明させていることぐらいは、裁判官でなくても、普通の日本語能力を備えた人なら、すぐに分かる話です。(ア) が分かっていて、どうしてデスクが(イ)の指示をする必要があったのか、これも当然湧く疑問です。

私たち記者の世界では、取材結果をつき合わせ、矛盾ばかりが浮き上がると、「なぜ」、「なぜ」、「なぜ」と頭の整理がつかず、とても記事など書けたものではありません。取材を一からやり直し、疑問を解いてから記事を書きます。事実、私は取材の深化で浚渫土砂量の疑問を感じ、一から見直しました。その結果、当初から治水のための浚渫土砂量は、3200万トンでなく1500万トンであることを見抜けました。疑問さえ解かず、そのまま判決文を書く裁判官の神経を疑うしかありません。

法廷を開き、私の陳述や証拠に基づいて事実さえまともに解明しておけば、こんな矛盾に満ちた判決文は書きようがなかったはずなのです。事実は、もちろん本書の読者ならお分かりの通りです。

◇意図的に事実を捻じ曲げる

真実は次の通りです。私が、「平成2年(1990年)6月頃までに」、「取材を完了し」、「新聞記事とすることを求めた」事実は、確かに(ア)で間違いありません。しかし、(イ)にある「デスクらが,控訴人の原稿を検討し」、「最大23センチメートルのオーバー」の水位図について、補強の「指示がなされた」のは「6月」でなく、「4月」です。

私はデスクから指摘された「疑問点」を「クリアする」「補強データ」である建設省極秘資料を、「4月」から「6月」の間に入手、最終的には建設省がひた隠しにしていた水位図は、「23センチオーバー」ではなく、「最大大水時においても,安全水位以下に収まる」水位図であることまで解明して「取材を完了」。デスクが出した「様々な疑問点」「役所の無茶な嘘」の手口のすべてを解明し、「払拭」したからこそ、記事化を求めたのです。このことは、私が裁判所に出したいくつもの書面・証拠で、繰り返し何度も明確に書いています。

つまり、高裁の裁判官は、私の提出した証拠資料に基づき(ア)の通り、私の解明した取材内容を的確に書いているのですから、全く日本語を読めない人ではないようです。なら、(ア)と(イ)の時系列を全く逆にして認定しているのは、私を無理やり敗訴にする目的で意図的に事実を逆にするデッチ上げがなされたとしか考えられません。

高裁が(ウ)の認定根拠にした私の編集局長への直訴文にも、どのようにデスクの指摘した疑問点を、「4月」から「6月」までの間に「払拭」したか、(ア)に至る経過はすべて具体的に書いています。それをまともに読んだだけでも、(ア)より(イ)が時系列として先であることはすぐに分ります。この点からも、裁判官の恣意・デッチ上げは明白です。

また、高裁は、(エ)で「平成5年(1993年)、控訴人の署名入りの解説記事」が「掲載」されたことをもって、朝日が報道弾圧していない根拠にしています。しかし、この記事は(ア)の取材結果に基づくものです。

記者の書いた原稿が「記事」として成り立つ「一定水準」を満たしているか、新聞社の実務の基準も「真実性の法理」です。もし、(ア)の段階で私に「取材不足」があり、「真実性の法理」を満たさず、「一定水準」に達しないとの理由で記事にならなかったとするなら、「平成5年」にも記事になるはずもありません。

記事になったのなら、(ア)の段階で私には「取材不足」はありません。「真実性の法理」を満たす「一定基準」に達した原稿であったことの何よりの証明・証拠です。

ならば、「国民の知る権利に奉仕する」ことが「編集方針」の朝日が、この時点で記事にしなかったのは、朝日自ら定めた「行動規範」「編集方針」の「逸脱」であり、「編集権」の「濫用」です。マスコミ判例の初歩の初歩「真実性の法理」をまともに理解している裁判官なら、当然このことの気付き、朝日には、自らの「編集方針」を逸脱する「濫用」があったと認定、不当性の根拠にするのが、真っ当な判決文というものです。

ちなみに実際の事実に沿い、(ア)と(イ)の時系列を逆にして、高裁の論理の組み立てをそのまま使ったらどうなるか。判決のこの部分を、私が裁判官になったつもりで書き直してみましょう。結論は、次のように変わります。

◇事実に基づいた判決はこうなる

「1990年4月の社会部デスクの(イ)の指示に基づき、控訴人の6月までの補足取材結果は、(ア)の通りである。水理計算(不等流計算)に関するデータも、建設省の内部計算と一致し、抜け落ちはない。デスクに指摘された疑問点がすべて払拭されていることは、控訴人が補足取材で入手し、原審最終段階で提出した証拠によっても確認出来る。

よって掲載が見送られる合理的な理由はなかった。このことは、この時の控訴人の取材資料に基づき、平成5年(1993年)、その一部が記事になり、建設省もこの記事の信憑性を認めざるを得なかったことからも裏付けられる。

控訴人が平成5年に記事になるまで、編集局長らに、記事にするよう何度も求めたのは、読者・国民の『知る権利』に奉仕することが『責務』(「朝日新聞記者行動基準」)の控訴人にとって、やむにやまれぬ行為である。

このような記事の掲載を認めなかったばかりか、記事掲載を求める控訴人に行為に対し、『信頼を損ねるもの』として、記者への復帰の道を閉ざし、人事、昇格、昇給でも定年まで差別を拡大した被控訴人の措置は、編集権、人事権の行使として相当なものと認め難く、本件証拠上、裁量権の濫用は明らかである」

この通りです。真正な事実によって認定すれば、私の勝訴しかありません。高裁は私を無理やり敗訴にする恣意的判決を書くためには、(イ)(ア)の時系列を(ア)(イ)に入れ替えるデッチ上げをするしかなかったことが、これでお分かり戴けたと思います。

高裁の不当な判決文はまだまだ続きます。しかし、ここで今回の紙数も尽きました。次回は露骨なデッチ上げ高裁判決の不当性をさらに明らかにすることから始めたいと思います。ぜひ次回も、お読み戴ければ幸いです。

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)
フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」(東京図書出版)著者。