1. 公共事業は諸悪の根源⑰ デッチ上げまでした司法【その3】

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2014年10月13日 (月曜日)

公共事業は諸悪の根源⑰ デッチ上げまでした司法【その3】

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)

 従軍慰安婦、原発報道をめぐる誤報問題で、朝日は今、バッシングの嵐を受けています。慰安婦記事を書いた元記者が在籍する大学には、嫌がらせとも取れる大量のメールが届き、ネット上には朝日記者の殺害予告らしきリストまで流されています。

「『報道の自由』を守れとは、朝日社員なら誰でも言います。しかし、『本気で言えば唇寒し』との空気がこの組織に流れて、もうどれほどの時間が経ったのでしょうか。このままにしておけば、やがて取り返しのつかない事態になります」。

私がこの手紙を当時の箱島信一社長に送ったのは、2005年。週刊朝日がサラ金会社から「編集協力費」名目で訳の分からないカネを受け取った武富士問題や若い記者による記事盗用など不祥事が相次ぐ直前のことでした。

今回もまた、朝日の紙面には「読者の声に謙虚に耳を傾けます」との幹部の言葉が朝日の紙面に載っています。しかし、私にはそれも白々しく響きます。ジャーナリズムなら、正すべき誤報は正し、謝罪すべきものは謝罪する。その上できちんとした論陣を張れる体制を整え、不当な批判があるなら、毅然と対抗すべきです。

でも、それが出来ず、朝日が何故、バッシング勢力につけ込まれる弱々しい体質になってしまったか。私は誰よりもよく分かっているつもりです。この欄の読者も、私の報告した具体論からとっくにお分かり戴けているのではないかと思います。

最初に慰安婦報道をし、バッシングを受けている記者に多くの責任はありません。「ダブルスタンダード」などと言うと難しく聞こえますが、外には厳しく高邁な論理で人や組織の在り方を説くのに、自分には甘く、発した言葉で自らを律しきれない二枚舌…。責任を取りたくない幹部の官僚体質が何一つ是正されていないのが、問題を大きくした原因です。

 ◇「リベラルジャーナズム」に対する攻撃

しかし、戦前回帰など特定の意図を持つ人は「ジャーナリズムでなくなった朝日」の弱点を巧みに突くことで、戦後民主主義など朝日を一角とする「リベラルジャーナズム」を丸ごと潰すことを狙っています。

多くの心ある人までがその論理に惑わされるなら、「朝日の危機」に留まりません。戦後民主主義の危機であり、「いつか来た道」に繋がってしまいます。私は彼らの尻馬に乗った朝日批判に加わるつもりはありません。この時期は出来るだけ沈黙を守ろうとしてきたのは、そのためでした。

しかし、それで朝日の体質は今後変わり、パッシング勢力の攻撃にびくともしない骨太のジャーナリズムに生まれ変われるのか。最近の朝日幹部の言動を見ていても、相変わらず優等生的な反省の言葉に終始し、心のこもった改革の意志を感じ取れません。

このままでは、また彼らの餌食になり、リベラルジャーナリズムの足を引っ張ってしまいます。それ故、この問題に関する私の見方は、改めて整理し、近くまとまった形で明らかにしたいと思っています。

 ◇編集権は経営者だけのものなのか?

さて、「公共事業は諸悪の根源」シリーズは今回で17回目です。司法が戦前の報道弾圧社会の再来を恣意的に目指している実態を報告する「デッチ上げまでした司法」の3回目になります。

前回のこの欄で、訴訟での朝日の反論を紹介しました。朝日は日本新聞協会が1948年に制定した「編集権声明」の2項のみを都合よく抜き出して、「編集権は新聞経営者にあるから、記者の書いて来た原稿を紙面に掲載するか否かは、経営者の裁量権。記者には何の権利もない」と主張したのです。

しかし、朝日は戦時中、国民に真実を伝えず、多くの若者の命まで戦場で散らせたジャーナリズムとしての重い責任を厳しく問われました。その自戒に基づき、終戦直後の1945年、朝日は「国民とともに立たん」との文章を紙面に載せたはずです。

(経営陣が)総辞職するに至ったのは、開戦より戦時中を通じ、幾多の制約があったとはいえ、真実の報道、厳正なる批判の重責を十分果たし得ず、またこの制約打破に微力、つひに敗戦にいたり、国民をして、事態の進展に無知なるまま今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せんがためである。今後の朝日新聞は、全従業員の総意を基調として運営さるべく、常に国民とともに立ち、その声を声とするであろう」

朝日は、経営者だけが編集権を一方的に振るうのでは、「微力」で権力者に抗しきれないと反省。一人一人の記者・社員の意志を尊重。その集合体である「従業員の総意」を基調に、経営者と従業員が総がかり、相互監視の中で戦前果たしえなかった「真実の報道、厳正なる批判の重責」を果たすことを読者に約束したはずなのです。

「編集権声明」も1項から3項まで通して読めば、「微力」な経営者にタガをはめないと、内外の圧力に屈し、いつ戦時中のように腰砕けになるかも知れない。だから、「編集権」とは報道の真実.評論の公正並びに公表 方法の適正を維持する」機能であると明記。

「外部たると、内部たるとを問わず」、「故意に報道、評論の真実公正および公表方法の適正を害し、あるいは定められた編集方針に従わぬものは何人といえども編集権を侵害したもの」と釘を刺し、記者の書いた原稿を内外の圧力から守る義務を、新聞経営者に課したものであることは論を待ちません。

しかし、この「声明」の一部を持ち出し、逆手にとって「編集権は経営者にある。記者の書いた原稿を載せるも載せないも経営者の勝手」という朝日の主張ほど、ジャーナリズムとしての戦後の誓まで反故にする究極の二枚舌はありません。

朝日が今、直面している問題と、私に対する二枚舌も根っこは同じです。組織として貫くべき規律・倫理をそっちのけにし、場当たり的に口先の言い訳で逃げ切ろうとする朝日幹部の官僚体質にあると考えています。パッシング勢力はともかく、一般の人たちが「謝れない朝日」に対し、厳しい言葉を浴びせたのは、こんなところにあると私は思っています。

 ◇裁判官が審理の打ち切りを宣言

さて、今回はここからです。

私と朝日の主張が出揃った2009年1月の口頭弁論のことでした。裁判官は、突然、審理の打ち切りを宣言したのです。次回、3月の弁論までに双方が、最終書面を出すよう指示、追って判決日を指定するとのことでした。

私は唖然としました。法廷でたったの1回も肉声で朝日と論戦していません。「取材不足」があったかなかったか、私と朝日の主張には事実関係も含め、大きな隔たりがあります。私が最大の当事者、証人です。

話を聞き、朝日から反論させる。証拠を精査し、必要があれば証人も出廷させる。その上で、どちらの主張に真実性・合理性があるかを客観的に判断する。それが、当たり前の「裁判」です。

記者なら当事者に会い、直接話を聞くのは当たり前のことです。いくら資料が豊富でも、肉声で相手に確かめてこそ、初めて真贋も判断出来、心証も作れます。まして当事者の言い分が180度違ったら、会って詳しく取材しないと、私は恐ろしくて記事など書けませんでした。

記者も裁判官も書く文章をもって、人の運命を左右する職業です。記者はそのために取材を尽くします。裁判官も審理を尽くして、真実を見極める…。それが最低限の職業倫理だと思っていたのです。

 ◇朝日は、人事差別を否定するが・・・

私には審理を打ち切った裁判官の神経が分かりませんでした。本人陳述だけでもさせるよう、何度も何度も食い下がりました。しかし、頑として拒否され、私は仕方なく陳述しようとした内容を最終書面にまとめる作業に入りました。

そうこうしているうちに、朝日から先に、最終準備書面が郵送されて来ました。ヤブヘビを避けたのでしょう。何を「取材不足」とするのかなど、具体的なことは何も書かれていませんでした。

広報室長や山形支局長は「重要な管理職」だから、「人事差別などしていない」と言うだけです。本来3-4年で昇格するはずの5級に7年滞留させた理由や同期22人との比較など、私が前回の書面で求めた差別の核心部分の答えもありません。

私の主張する「報道実現権」について、朝日は「原告は、権利と義務とを混同して論を進めており、憲法が定める国民の国に対する権利を、あたかも新聞記者が、所属する新聞社に対して有する権利、すなわち原告が被告に対して有する権利であるかのように言い募っているに過ぎない。国民の知る権利を源泉として、記者がその権利に奉仕することを自らの責務であると自覚し懸命に努力することは当然である。しかしながら、新聞記者が執筆した原稿を新聞記事として掲載するか否かを判断し決定する権限が新聞社に帰属する。これと異なる原告の主張には理由がない」と反論していました。

編集権を持つ朝日の経営者は、人々の「知る権利」に応えなくてもいいとでも言っているのでしょうか。自ら「国民とともに立たん」で、何を読者に約束したか、全く触れていません。私に対する誹謗中傷ばかりが至るところに散りばめられ、私の怒りも頂点に達しました。

 ◇最終準備書面を作成

法廷で論争させてくれれば、朝日の主張の矛盾はいくらでも指摘出来ます。もちろん、私と朝日とのやり取りはすべて文書になっていますから、その大量の証拠を、読めば分かることではありました。しかし、こんな裁判官です。それさえも不安があります。裁判官が私に法廷での陳述もさせない以上、最終書面で詳しく主張する以外にありません。

法廷論争を避けるのは、裁判官が「報道」の問題で腰が引けているのではないかとも思いました。裁判官を安心させるために、私はまず「本訴訟の本質」として、「報道実現権」を主張しても、トナミ訴訟などと何ら変わらない不当差別について争う労働訴訟の一形態と説明することから始めました。

本欄の連載も長くなっています。読者にも筋が見えにくくなっているかも知れません。全体を俯瞰して頭を整理して戴く意味で、ここでも載せておきます。

◇長良川河口堰問題と差別人事

「本訴訟は、1989年末から1990年8月までの取材により、原告がしようとした長良川河口堰報道を被告が弾圧したことを発端に、豊田支局長への不当な配転を行い、1992年、原告が被告・名古屋編集局長に、『報道の再開』を求めて異議を申し立てたことに対して、被告が逆恨みし、5級に7年留め置くなど、人事・待遇で不当な差別・報復に手を染め始めた。

記者職採用者としての最も嫌悪ポストで、記者職に比べて職務給でも低い苦情処理係の広報室長・広報センター長に昇格もさせないまま5年を超えて勤務させるなど、報酬差別にとどまらず、原告の記者生命すら剥奪した。

2003年6月、長良川河口堰や同様に『無駄な公共事業』の典型である徳山ダムで、記者としてやり残している仕事のある原告が、当時の原告の直接の人事責任者である被告・名古屋本社代表に『記者への復帰』を求めたところ、代表は『記者に復帰したければ、編集局に信頼回復せよ』と求めた。

もとより被告から『信頼回復』を求められる理由のない原告が、その理由を2008年1月の定年まで一貫して質し続けた。記者への復帰も求めたが、被告は説明責任を果たさないまま、原告を『代表付』などとしてほとんど仕事のない『ブラ勤』状態に置き、原告が記者としてやらなければならない長良川河口堰、徳山ダム報道などを定年まで弾圧し、人事差別を続けた。

また、このような不当な人事を強行したのは被告にもかかわらず、『ブラ勤』の仕事に成果の報告を求め、その『成果』をもって原告の仕事の査定をするなど、被告は原告の昇格、昇給、査定、退職金において、不当な差別・報復を累積的に繰り返し、不利益な扱いを定年まで拡大し続けたのである。

2005年12月、原告がジャーナリズムとしての被告組織のあり方を社内ネットで質したことにも、『処遇に関するもの』として削除し、原告の意見を封殺するとともに、『評価や人事にめぐる不満については、それを取り扱う所定のルートがあります』と、原告の問題を矮小化。あたかも原告が社内ルールを逸脱したかのような虚偽の事実を社内ネットに定年まで公開し続け、『ブラ勤』で社内のさらし者にもして、『記者・ジャーナリスト』たる原告の名誉をも毀損した」

◇裁判官が「あなたに抗議します」

次に、私に「取材不足」がなかったことを、再度、念押しするため、取材経過についても詳細に書きました。ここでは長くなります。もう一度、想い出すために内容を確認したいと思われるなら、この「公共事業は諸悪の根源」シリーズ①-④を読み返してみて下さい。

私が入手した建設省の極秘資料は、とても手では持ちきれないほど、多量にあります。陳述が許されたら証拠として提出、裁判官席の前にずらりと並べるつもりで手元に置いていました。その資料を証拠として一緒に提出。取材の裏付けが十分なことを主張しました。

本来は、法廷で朝日に聞かなければならないことは、山ほどあります。聞きたいことを一つ一つ具体的に列挙し、「釈明を求める」を連発させました。弁論を再開して、争点についてきちんと審理をするよう、裁判官にアピールする意味も込めてのことです。

こうして3月の最終弁論を迎えました。しかし、裁判官は弁論の再開を決めるどころか、「あなたに抗議します」と言ってきたのには、正直面喰いました。この段階になって、私が大量の証拠を出したのが、けしからんと言うのです。

私は司法記者時代、毎日のよう裁判を傍聴して来ました。しかし、原告が証拠を提出して、裁判官に叱られたシーンなど、見たことはありません。何も、証拠の出し惜しみをしたのではないのです。裁判は緒についたばかり。一方的に裁判官が審理を打ち切ったから、やむを得ず予定していた証拠を慌てて出したに過ぎません。

原告には証拠の提出権もあれば、立証・反論権もあります。それが憲法で保障された国民の「裁判を受ける権利」というものでしょう。それさえ否定し、裁判官は判決日を強引に1ヶ月後に指定しました。

公平・公正であるべきなのが裁判官です。しかし、この裁判官は、私への敵意を隠そうとしませんでした。この時、私は「敗訴」という二文字が初めて頭をかすめました。

しかし、私の主張は、どれも動かし難い定着した最高裁判例に基づくものです。「取材不足」がなかったことも、証拠と準備書面によって二度も三度も詳しく説明しています。普通に日本語の読める裁判官なら、理解出来るはずです。私を敗訴にさせるなら、どんな理屈・法的構成にするのか。元司法記者程度の頭では、それがどうしても分かりませんでした。

「原告の請求はいずれも棄却します」

こうしての4月23日の判決日を迎えました。裁判官の口から出た言葉は、「原告の請求はいずれも棄却します」。つまり、私の敗訴です。民事の法廷では理由は読み上げられません。私は首をひねりながら書記官室に行き、判決の全文を受け取りました。私の膨大な主張、書面に比べ、判決文はあまりにも薄っぺらでした。

判決は、裁判官の判断を示す前に、まず、原告、被告双方の主張を採録して整理します。私の「報道実現権」の主張について、裁判官はこうまとめていました。

「報道実現権とは、記者が、その所属する報道機関に対して有する、記者が書いた原稿を合理的理由がない限り記事として採用させ、新聞に掲載させる権利であり、掲載しない場合にはその理由を説明させる権利も派生する。同権利の侵害による不法行為及び債務不履行の成立には、被告が一定の政治的勢力と癒着したり、不純な勢力に迎合したりして、その報道を拒否して編集権を濫用したことは必要ではなく、原告が報道価値のある一定の水準に達している記事の報道を被告に求め、これに対し、被告がその報道を拒否すれば足りると主張する。同権利は、憲法19,21,27条で裏付けられ、新聞記者たる労働者と雇用主との労働契約上当然に発生する。また,被告従業員就業規則の8条2項及び9条1項、被告行動規範等、被告記者行動基準にも根拠を求められる」

その上で裁判官の判断として、まず、「原告の全ての請求は、原告主張の報道実現権やこれと同内容の雇用契約上の地位・同債権の存在を前提とする趣旨であると解される。すなわち、原告の主張する個別の不利益取り扱いのうち、被告が原告の取材に基づく原稿を報道しなかったことはまさにこれを直接侵害されたというものであり、名誉毀損及び昇進・昇格・昇給等差別も、本来は,被告の施設管理権や人事権の行使としてその裁量に属する事柄であるから、原告においてその行使に濫用や逸脱があることを主張し立証する必要があるというべきである。そして、原告は、被告が、原告の正当な権利である本件報道実現権の行使を嫌悪して原告に不利益な取扱いをしたものであるから同濫用等があると主張するものと解される」としていました。

何と、トゲのある言い回しでしょう。思っていた通り、判決文の冒頭から、裁判官の私への敵意がむき出しです。私は裁判途中、裁判官から「原告は、『報道実現権』侵害の主張に当たって、被告が『不純な勢力』と迎合していたなどとの立証は必要ないとされるのですか」と聞かれて、「その必要はないと考えます」と、確かに答えています。

上司が記者の書いた原稿を止めた場合、後ろめたい理由であればあるほど、正直にその理由を話す上司・経営管理者などいるはずもありません。記者に限らず、上司に何か弱みがあり、文句を言った部下に不当な差別をしたなら、本音を吐露する上司など、一般の会社でもまずいないはずです。

経営者側の「後ろめたい動機・理由」までいちいち原告に証拠による立証を求められるなら、不当差別をめぐる労働訴訟で、雇用者勝訴は不可能です。判例上も、「濫用」が客観的に見てあったか否か問題で、「濫用」の動機の立証責任は、通常、労働者側に求めていません。

◇だれが実質審理を拒否したのか?

「不利益変更法理」でも、雇用者を不利益扱いする場合、「経営者に高度な説明責任がある」と判示し、雇用者側に立証責任を負わせていません。だから私は、裁判官に「その必要はない」と答えました。

私の言う「報道弾圧」とは、編集方針に沿い取材不足のない、当然、記事になる原稿を、理不尽に新聞経営者や上司が記事にさせなかったことを指します。

「原告においてその行使に濫用や逸脱があることを主張し立証する必要がある」のは、私に「取材不足」はなく「真実性の法理」を満たしていたことの立証です。それを法廷でさせなかったのは、実質審理を拒否した裁判官の方です。

裁判官が報道弾圧の裏事情までどうしても知りたく、心証形成に必要というのが質問の趣旨だったとするなら、実際に私と朝日を法廷論争させ、朝日がどう答えるか、聞けばいいだけです。

私は司法記者時代、日本語の筆力に欠けた裁判官が多く、判決の真意を読み解くのに悩まされ続けました。今回もその例に違わず、「原告においてその行使に濫用や逸脱があることを主張し立証する必要があるというべきである」だけでは、動機の立証責任が私にあり、それを果たしていないという判断かどうかさえ、意味不明です。

 ◇新聞人の「編集権」と人々の「知る権利」

私の疑問が解かれないまま、判決文は続きます。

「原告は、これらが、原告・被告間の労働契約から当然に発生する旨主張する。しかし、いわゆる就労請求権は労働者の義務であって当然には権利であるとは認められないところ、報道実現権等は、就労請求権を超えて、就労の結果物を被告の企業活動において使用させようとする権利であって、そのような権利が雇用契約から発生するとは考えられない」

「原告主張の要件たる報道価値のある一定の水準に達している記事に該当するか否かは、被告の経営管理者やその委託を受けた編集管理者においてその編集方針に照らしてその裁量的判断によって決定すべき事柄であることは当然であり(編集権)、新聞が報道を行う自由を保障するためにもそれが必要である」

 「憲法19、21、27条を根拠に挙げるが、そもそも原告・被告間の私人関係にこれらの条項を適用ないし類推適用することはできない上、これらの条項に報道実現権等の根拠となる部分が存するとも認められない」

「従業員就業規則等を引用するが、これらは、原告ら社員の被告に対する義務や、被告及びその社員の読者や国民に対する責務を規定したものであるから、原告の被告に対する権利の根拠とすることはできない。これらの条項に報道実現権等の根拠となる部分が存するとも認められない」

 「面談において、原告が,編集局に記者として復帰したい旨述べたのに対し、名古屋本社代表がデスクらとの信頼関係を取り戻すことの必要性を指摘したことが窺えるものの、それだけでは名誉毀損の不法行為を構成するものとはいえず、それ以上の状況や発言内容を認めるに足りる証拠はない」

もともと戦後労働法制は、雇用主と雇用者は対等な関係との前提に立っているのは論を待ちません。私も朝日経営者に「編集権」があるのも否定していません。でも、「編集権」と記者の「報道実現権」は対等的存在です。

戦時中の不幸なジャーナリズムの歴史からも、新聞協会が言う経営者の持つ「編集権」は、人々の「知る権利」に応える記者の仕事を、内外の圧力から守ることにあります。経営者自ら、それに逸脱する「裁量的判断」をしたなら、「濫用」になるのも当然のことのはずです。

しかし、裁判官の判断は、「報道価値のある一定の水準に達している記事に該当するか否か」は,「経営管理者」「裁量的判断によって決定すべき事柄」としているだけです。つまり、経営者の権利が絶対で、対等であるべき雇用者の権利を一切認めていないのです。

記者の書いたどんな記事を新聞経営者が止めたか。裁判所が「濫用・逸脱」の具体的事実に踏み込まず不問とするなら、経営者は、記者も口をはさめない「編集権・裁量権」を持つ独裁的存在になります。読者の「知る権利」に応えるのも自由、応えないのも、経営者の自由。経営者の判断に異議を唱えた記者を飛ばすのも自由です。

戦前は記者がどんなに抵抗しても、権力・軍部の意向を汲んだ経営者が、記者の書いた真実を伝える記事を強権発動で止め、国民は「無知」なるまま、戦争に突き進みました。判決は、記事を止めた朝日が自分の都合のいいように新聞協会の「編集権声明」を意図的に曲解したのを全面的に取り入れ、戦前同様の経営者による報道弾圧の道を再び開いたのです。

◇朝日の主張をうのみにした判決

「従業員就業規則」について、「原告ら社員の被告に対する義務や,被告及びその社員の読者や国民に対する責務を規定したもの」とし、「原告の被告に対する権利の根拠とすることはできない」との判断は、驚天動地でした。

私は河川工学などが専門の工学部でも、司法を学ぶ法学部でもなく、経済学部の出身です。授業にもあまり出たことのない不真面目な学生でしたが、それでも「労働法」の授業で、「雇用者と雇用主は対等で、双方の権利・義務関係を定めたのが、就業規則』」と習った記憶くらいはあります。

一方的に、雇用主に対する「社員の義務」や,「社員の読者や国民に対する責務を規定したもの」とするなら、戦前を通り越し、封建時代にまで逆戻りします。この判例が今後も罷り通るなら、私に限らず雇用者は、就業規則に定められた権利をもって、裁判で雇用主に主張出来なくなります。

朝日の就業規則8条2項「従業員の人格権の尊重」を定めています。記者の「人格権」とは、朝日自ら定めた「記者行動基準」にある記者は、真実を追求し、あらゆる権力を監視して不正と闘うとともに、必要な情報を速やかに読者に提供する責務を担う。憲法21条が保障する表現の自由のもと、報道を通じて人々の知る権利にこたえることに記者の存在意義はある」なのも論を待ちません。

つまりこの内容が、私の言う「報道実現権」ですから、「就業規則」条項に報道実現権等の根拠となる部分が存する」のも当たり前のことです。朝日の「行動規範」には、関連法規として、朝日は「憲法19,21,27条」を挙げていますから、「根拠」も十分にあります。

ガリ勉で司法試験にやっと通った人の多い裁判官はもともと世間知らず、ジャーナリズムのことが分かるはずもありません。そんな裁判官の頭脳で、「根拠となる部分が存するとも認められない」と思うなら、弁論を開いて、「根拠」があるかないか、ジャーナリストである私と朝日とを論争させ確かめるのが、裁判として本来の姿のはずです。判決は無理やり私を敗訴にするため、ジャーナリズムの規範、職場慣行も知らない裁判官が朝日の主張を丸呑みし、独断を並べ立てたに過ぎません。

 ◇意味不明瞭な判決文の記述

「名誉毀損」について、私は公衆の面前で恥をかかされた行為、つまり、①ブラ勤で社内のさらしものにされた②「不満を訴えるルート」が「ない」にもかかわらず、「ある」と虚偽の事実を社内ネットに掲載し、私があたかも社内ルールを無視する不良社員かのように公表した――の2点を書面で指摘していたのも、前述の通りです。

しかし、「名古屋本社代表がデスクらとの信頼関係を取り戻すことの必要性を指摘したことが窺えるものの,それだけでは名誉毀損の不法行為を構成するものとはいえず」は、全くのすり替えです。

公衆の面前で恥をかかされたことが「名誉毀損」の構成要件です。私と名古屋代表の密室でのやり取りだけで「名誉毀損」が成立するはずもないのは、高い訴訟費用を払って、わざわざ裁判官に教えてもらわなくても、司法記者の知識で十分承知しています。裁判官は私の主張した2点を、もともと「名誉毀損」が成立しようがないものにすり替え、「名誉毀損」の成立を回避した極めて恣意的、悪質な判決です。

昇格・昇給差別について、判決では「昇格については,標準モデルに比べてそれほど遅れているわけではない」としました。

しかし、一方で「原告は、『ブラ勤』であるとして」、「目標設定、業績評価目標の設定も業績申告もできない旨それぞれ上司らに申し出た」。「これらの事実に弁論の全趣旨を併せれば,原告の勤務状況が被告において低い業績評価をすることに一応の合理性が認められるようなものであった結果,前記賃金の減少を招いたと推課するのが相当であり,昇給についても違法な差別があったとはいえない」、「原告は,上司らに対する前記申出がかねてから被告に要求してきた原告への不当な差別に関する調査及び差別の理由の説明がないことに起因している旨指摘するが,原告の主張する不当な差別があったとは認められないのであるから,その前提を欠いていて採用できない」とも判断しています。

これでは、朝日が私を「差別」していないと言うのか、それとも「差別」はしたが、「ブラ勤」だったから当然とするのか。それさえも不明です。

そして、「その余の点について判断するまでもなく,原告の請求は理由がないから,失当として棄却する」と結論付けました。「コンプライアンス委員会への私の提訴権が侵害されたのは不法行為」としていた点には、全く触れようともしませんでした。

◇朝日の主張を理屈抜きで正当化

裁判官は、記者の「報道実現権」を何としてでも否定し、私を敗訴させたいと、強い意図を持って、判決文を書いたのでしょう。朝日の主張はどんなことであれ、理屈抜きですべて「正当」。朝日の主張に不都合が出る要素は判決文で一切無視したのでは、勝てるはずの裁判も負けて当然だったのです。

ただ、司法記者程度の頭では、私が判決の意味がその場で完全に理解出来ていた訳でもなかったのです。

どこが分からなかったかと言えば、「就労請求権」という耳慣れない言葉です。判決を突き詰めれば、報道実現権は就労請求権である就労請求権労働者の義務であって権利であるとは、判例で認められていない→「だから、報道実現権は認定出来ない」という三段論法のレトリックです。後はまともな理屈は一つもありません。

私の主張は、労働基準法3条「均等待遇」に基づく記者の権利が侵害されたとするものです。しかし、私の主張が、均等待遇」に基づくものと認めてしまうと「不利益変更法理」の動かし難い最高裁判例に基づく裁判・判例の流れがあります。結局、トナミ訴訟同様、具体的な事実関係の審理に踏み込み、私の原稿が「真実性の法理」を満たしたものかどうかの具体的検討から始めざるを得ません。

満たしたものとするなら、他の記者と「均等」に扱ったか否か、つまり、「朝日新聞行動規範」「記者行動基準」に照らし、経営者に編集権・裁量権の「濫用」があったかの事実審理が中心となります。

もちろん、経営者の編集権の「濫用」を認めるなら、人事・査定権の「濫用」も認めざるを得なくなり、私の「報道実現権」を是認、朝日の敗訴となります。もちろん私はこの流れしか考えられなかったので、勝訴を確信していたのです。

裁判官は、朝日の「裁量権の逸脱」について事実・証拠調べによる具体的な審理を避けるための道具に「就労請求権」を使ったのです。だから「就労請求権」という言葉が分からない限り、判決のカラクリを見破るのは、不可能です。

私は、司法記者時代、多くの労働訴訟を傍聴して来ました。でも、この用語を聞いたことはありませんでした。私の法律知識に、「就労請求権」と言う言葉はなかったのです。

もちろん知らない権利を、私は裁判で主張するはずもありません。法廷で私の主張が「就労請求権」かどうかさえ、裁判官から一度も聞かれたことさえありません。判決文で突然、裁判官が勝手に持ち出した言葉でした。

 ◇中世の暗黒裁判

自宅に帰り、改めて様々な法律書・資料で調べてみました。弁護士にも教えを乞いました。その結果、「就労請求権」は、例えば、会社が倒産した場合、それでも従業員が「これまでの職場で働かせよ」と主張したり、会社から不祥事などで「停職」などの処分を受けた人物が、「職場で働く権利がある」と主張する場合などに使われていました。

もちろん、倒産した会社の従業員が「同じ職場で働かせろ」と言うのは、無茶な相談です。倒産していない企業の場合も、給料を払っている従業員に経営者が働かせないには、それなりに余程の無理からぬ理由があることが多いのです。処分が不当であるなら、それはそれで「就労請求権」を主張するのではなく、「不当処分」として裁判が提起されます。

この権利を認めた判例がほとんどないのも当然で、最初から認められない権利と分かっていて、この権利を主張して裁判を起こす人はいません。労働訴訟の世界で「就労請求権」は死語化していて、司法記者レベルの私が、この言葉など知らなくても当然だったのです。

書面でもしつこいほど、私の主張の根拠は「均等待遇」違反であると書いています。裁判官は、「名誉毀損」と同様に、私の主張の根拠があたかも「就労請求権」であるかのように勝手にすり替えたのです。これでは中世の暗黒裁判です。

弁護士にも改めて私の推察が、法律にど素人の邪推かどうか尋ねてみました。弁護士は紳士・上品です。私のように「すり替え」などと下品な表現は使いません。でも、「君の主張が『就労請求権』だとは、とても考えられないのですが……」と苦笑い。私の見方と実質それほど変わりはなかったのです。

◇危険な「編集権は独占的に経営者」という考え

国家権力は、常にジャーナリズムを支配したいとの誘惑に駆られていると言っていいでしょう。国家権力にしてみれば、権力者の恥部を嗅ぎ回るのは、「悪い記者」であり、その原稿をボツにするのは、「良い経営者」です。

「悪い記者」個々にまで「報道実現権」を認めてしまうなら、「良い経営者」による抑止は効かなくなります。いざという時、戦前社会と同様、経営者を抑えて、報道弾圧を可能にしておくためには、「編集権は独占的に経営者にあり、記者には何の権利もない」という、朝日の主張ほど好都合なものはなかったはずです。

裁判所が勝手にこんな判決を出したなら、ジャーナリズムは「戦前回帰だ」と猛反発します。しかし、今回は、何よりジャーナリズムの一角、朝日自らの主張です。敗訴を逃れたいばかりに、戦後新聞界の魂とも言うべき「編集権声明」を換骨奪胎、「国民とともに立たん」との読者との最も重い戦後の約束さえ国家権力に売り渡したのです。

裁判官にも様々なタイプがいます。国家権力の僕(しもべ) を自認する裁判官なら、何としてでも、朝日の主張を丸呑みし、記者の「報道実現権」を否定したかったのでしょう。

私は当然、こんな裁判以前とも言える不当判決に納得できるはずもありません。もちろん名古屋高裁に控訴します。ここで、今回の紙数も尽きましたので、次回はここから始めます。実は、高裁では、地裁よりもっとひどいデッチ上げ判決が待っていたのです。その実態を次回、お読み戴ければ、幸いです。

 

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)

フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」(東京図書出版)著者。