1. 公共事業は諸悪の根源 ジャーナリズムでなくなった朝日 その8 (後編)

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2014年02月20日 (木曜日)

公共事業は諸悪の根源 ジャーナリズムでなくなった朝日 その8 (後編)

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)

◇初耳、地方版紙面委員

◇箱島社長に「人事案件の不同意」を送付

◇朝日の取締役会が決定した差別人事

◇闘うジャーナリズムへの報復?窓際族へ

案の定、箱島社長からは何の返事もありませんでした。直接見た訳ではないので真偽のほどは分かりませんが、「箱島氏は『忙しい社長に、こんな長文を送ってくるなんて……』と、社長室の応接テーブルに私からの文書をたたきつけた」と、後日、周辺から聞きました。

それでも社長側近の一人が「この件は社長に代わって、私が話をしたい」と、私に電話してきました。しかし、その後、待てど暮らせど、なしのつぶてでした。

箱島社長の答がない以上、とるべき手段は、内部告発しかありません。でも、私にさえ、まともに答えられないのが、朝日の幹部です。この問題が週刊誌などに取り上げられ、正面から世間の批判を浴びたら、どうなるか。私は不安でした。

というのも、当時、小泉純一郎政権が全盛を迎えていたからでした。私は政治記者時代、まだ奇人変人扱いされていた頃の小泉氏に何回か直接会い、取材したことがあります。歯に衣を着せぬ官庁批判、行政改革の姿勢に強い共感を覚えました。

しかし、首相になり、人気は急上昇。靖国参拝で、憲法9条などの改憲論議が急速に盛り上がっていました。それまで私は、親しくなった小泉氏から、たとえ雑談でも「靖国」や熱心な「親米」は、聞いたことはありませんでした。

郵政民営化を進めるには、自民党の旧来の支持者の応援が不可欠です。小泉氏のことだから、異端児のイメージを拭い去り、保守層の支持を盤石にするために突然、熱心な靖国参拝論者に衣替えしたのではないか…、「どうせ小泉劇場の一環」と、タカをくくっていました。

でも、時として為政者の思惑をも超えて、時代は進んでしまうものです。官庁を握った者の独裁、官庁批判を旗印にした独裁…。「官庁を握った者の独裁」がここまで無駄な公共事業を拡大させた元凶です。でも、官庁、政党の腐敗を批判して権力を握った者の独裁が、いかに国民を不幸に陥れたかは、ナチス、日本の軍部など、過去の歴史を見れば明らかです。どちらの独裁も、世の中を危うくする前兆です。

そんなご時世に、私が朝日の内情を暴露。読者の信頼をこれ以上失っては、「護憲」対「改憲」という、この国の言論バランスを根本から崩しかねません。私は朝日を旧社会党のようにするのが怖かったのです。本来、誰が心配すべき問題か…。でも、保身と派閥抗争にうつつを抜かす社長・幹部が何も考えていない以上、自分で心配するしかありませんでした。

◇初耳?地方版紙面委員

そうこうするうち、2004年も6月になっていました。私に「信頼回復」を求めた名古屋代表は、朝日の取締役候補から外れ、天下り人事でグループ会社の社長に転出して行きました。代表の転勤となると、社内幹部で盛大な送別会が開かれるのが恒例でした。でも、本人は断わり、そそくさと名古屋を離れたのです。もちろん最後まで、私に何の言葉もありませんでした。

7月。新しい代表が就任すると、私に呼び出しがありました。新代表は、私の次の人事について、こう切り出しました。

「前代表から、君を『地方版紙面委員』にする人事構想が引き継がれています。君も同意したと聞いていますので、それでいいのですね」。 私は、「地方版紙面委員」という話さえ初耳でした。もちろん「同意」した覚えなど全くありません。

「地方版紙面委員」とは、地方版の校閲係のようなものです。リストラで、地方版記事の間違いを見つける校閲の仕事がなくなり、地方の記者は原稿を自分で点検するようになりました。記事の訂正も増え、弊害を少しでも減らすために、地方版の点検・校閲のために設けられた仕事です。自由に取材して書ける記者ではなく、広報同様、定年間際の窓際ポストになっていました。

「普通の記者」への復帰を求める私に提示しても受けるはずもありません。前代表も承知していたはずです。だから、私に話すこともなく、新代表に通告を押し付けたのでしょう。どこまでも無責任な人です。でも私は、もうこんなことぐらいでは驚かなくなっていました。

「そんな話、これっぽっちも聞いた事もありません」と答えると、新代表も察しはついていたのでしょう。「いゃー、やっぱり、そうでしたか。聞かなかったことに……」と言ったきり、後は何も話しませんでした。

秋の人事は7月中旬に固まり、下旬に正式発表されます。発表の2週間から10日前、本人だけに半ば公式に知らせ、意向を確認する内々示があるのも通例です。私の後任となる広報室長人事も聞こえて来てはいました。でも内々示の時期をとっくに過ぎ、発表の4日前になっても、私には何の音沙汰もありません。

内々示がない以上、後任人事のウワサは、前代表の人事引き継ぎがそのまま流れているのかも知れないと、私は思いました。しかし、その矢先、突然、代表から呼び出しがかかり、私に人事が通告されました。

◇箱島社長に「人事案件の不同意」を送付

異動先は「代表付・NIE担当」。「NIE」とは、「教育に新聞を」という意味です。新聞離れの昨今、子供の頃から新聞に親しんでもらおうと、学校に新聞を題材にした教材を送ったり、各種のイベント、時には、学校に行って講演、授業もするのが仕事です。

実は、新代表と私は「NIE」のポストをめぐり、深い確執がありました。広報に社員のNIE担当者が配置されたのは、その年の4月のことです。それまでは、私が広報の仕事の合間に担当していた仕事だったのです。しかし、広報には社員は私だけ。私がNIEの仕事で出掛けると、読者の苦情に対応する広報の部屋は、OBの嘱託だけになります。

朝日には、右翼をはじめ様々な人物が予告もなく、抗議に来ることもあります。読者の通報や苦情にも、すぐに対応しないと、取り返しのつかない事態になります。社員不在では、何とも心もとないのです。そんな理由で、新代表が編集局長当時、「読者との応答、NIEも出来、私の代理も務まる記者出身者を一人、編集から広報にくれませんか」と、私が交渉したことがありました。

しかし、局長からは「編集で役に立つ記者を何で広報なんかに出せますか」と、木で鼻をくくった言葉が返ってきたのです。この言葉で朝日での広報の位置付けがいかに低いか、分かろうと言うものです。

でも、いくら何でも、嫌な仕事を我慢しながらしている広報の責任者に向かい、直接「広報なんか」呼ばわりは、聞き捨てなりません。ちょうど前代表との確執が頂点に達した時です。私も苛立っていました。「毎日、編集の尻拭いをしている広報に、『広報なんか』とは何だ」。編集局長と激しい口論になっていたのです。

前代表も「広報は大事なポスト」と、私に言った手前があります。さすがにその時はまずいと思ったのでしょう。仲に入り、記者の一人を私が1本釣りで説得するとの条件で、広報に異動させる合意が出来ていました。私は、読者の苦情にも耐えられる人格円満な先輩に、定年後もNIEと広報の仕事をしてもらうとの条件で平身低頭、広報に来てもらっていたのです。

誰よりもこの経過を一番よく知るのが、他ならぬ新代表です。この人事を受けると、私自身が約束した先輩の仕事を奪うことになります。「広報には、すでにNIE担当者がいるではないですか」「二人の役割分担は、どうお考えですか」「私を記者に戻さないことだけが、人事の目的か」と尋ねました。しかし、代表は「すでに決まった人事だ」と答えるだけ。後は、口をつぐみました。

何より私の意向・希望も聞かず、後任も決まっているこの時期に、突然、内示はあり得ません。代表が何も答えない以上、私は即刻、箱島社長宛に「人事案件の不同意」を文書で通告しました。もちろん、これも後々の証拠にするためです。

◇朝日の取締役会が決定した差別人事

発表日の26日。取締役会で人事が決まれば、本人に上司から正式に伝達する「呼び込み」があります。しかし、私だけ代表から何の連絡もありませんでした。しかし、社内ホームページには、私の人事は載っています。私に通告がない以上、正式発令とは言えません。「こちらから聞くことでもあるまい」と、そのままにしておきました。

それから、1ヶ月余り。「代表付」への異動日、9月1日が迫っていました。それでも、代表からは何の話もなければ、私の「不同意」の文書にも、社長はなしのつぶてです。 通告がない以上、私はこのまま広報に居座わろうかとも思いました。しかし、それでは何より後任に迷惑がかかり過ぎます。それに「あいつは広報がよほど好きらしい」なんて、あらぬウワサが面白おかしく社内に広がりかねません。私と代表と、どちらが先に口を開くか、神経戦になっていました。 でも、仕方なく、発令日直前に私から代表を訪ねました。

――私の人事は何の通告もありません。発令されているのですか?

「出ています。ホームページにも載っているから、お知りのことと思って……」

 ――人事は、直接上司から通告されるものではないのですか?

「まぁ、それは……。とにかく受けていただけるのですね」

――受けるも受けないも、通告されていないのですから。

「ホームページに載せています」

――それでは通告になっていません。それに、私は不同意と申し上げ、文書も出してあります。

「取締役会で正式に決定したことです」

――私が不同意と言った理由に対して、どのように審議されたのですか?

「私は取締役会のメンバーでないので、知りません」

――本人に何の説明もなく、同意していない人事は無効・不当です。

「取締役会という正式の場所で決定されています」

こんなやり取りをしばらく続けました。もちろん、組織として人事を撤回する意志のないことは、百も承知しています。しかし、正式通告はなく、納得もしていないことを確認しておくためにも、私には形式としても押し問答をしておくことが、社内手続き上も必要不可欠だったのです。

◇闘うジャーナリズムの代償?「窓際」へ

儀式も済み、私は「広報に籠城しようかとも考えました。でも、あまりにも大人げない。広報の部屋にある私の荷物を、どこに移せばいいですか」と切り出しました。代表は、それまでの高飛車な対応とは打って変わり、「同意して戴けるのですね。机を置く場所は決めさせて戴いてます」と、もみ手をせんばかり。代表のほっとした表情を、今でも私は鮮明に覚えています。

私は、どこに荷物を移すかさえ聞いていませんでした。「人事に同意した訳ではありません」と、再度、念を押し、「後任に迷惑がかかるから、広報にある机を明け渡すだけです。NIEには担当者がいることですから、どうせ仕事はありません。荷物を移すロッカーが一つあればいい」と、言いました。

しかし、代表は名古屋駅の高層ビル群も見える窓際のなかなかいい広い場所に私の机と、ソファを用意していました。もちろん仕事はなく、朝、出勤。ブラブラ過ごし、夕方帰るだけの「ブラ勤」です。ソファは格好の昼寝場所になります。

こうして定年までの3年半足らず、私のブラ勤暮らしが始まりました。私は、社会部記者時代、国鉄民営化を担当したことがあります。当局ににらまれた国労組合員に仕事が与えられず、隔離部屋でブラ勤をしている実態をルポ、記事にしたのです。

その時、まさか自分が同じ境遇になろうとは、夢にも思っていませんでした。しかし、実際にやってみると、気楽な身分ではありません。社内の好奇の目にさらされ、傍目以上に苦しいものであったことだけは、ここで付け加えておきたいと思います

申し訳ありません。ここまで書いて来たところで、今回も、紙数が尽きました。次回は、この後、定年までの私と朝日の本格的論戦の成り行きを報告して行きたいと思います。ぜひ、今後とも本欄のご愛読をよろしくお願いします。

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)

?フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」(東京図書出版)著者。