1. 公共事業は諸悪の根源? ジャーナリズムでなくなった朝日 その7 (前編)

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2014年01月27日 (月曜日)

公共事業は諸悪の根源? ジャーナリズムでなくなった朝日 その7 (前編)

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)

本年最初の「吉竹ジャーナル」です。今年もご愛読、よろしくお願い致します。

さて、今年も昔の知り合いから、多くの年賀状を戴きました。昨年、朝日についても厳しいことを書きました。でも、かつての朝日の同僚、先輩、後輩からも例年通り、多くの便りがありました。

そんな書き添えの文面には、特定秘密保護法を許してしまったジャーナリズムのふがいなさ、最近の若い記者のやる気のなさを嘆くものが、今年とりわけ多くあったように思います。

もちろん、私の問題で見て見ぬふりをしていたのが、朝日の人たちです。「何を今更」との思いが、私にないと言えばウソになります。でも、それを言っても始まりません。今でも私と親交があるのは、ジャーナリストとして同じ思いを共有している人です。「同意」との返信を出しておきました。

朝日にも昨年、いくつもの特ダネがありました。私から見ても、拍手喝采できるものもあります。頑張っている若い記者がいることも、十分承知しているつもりです。

しかし、全体にそうだったのか。「我々は権力監視の最前線にいるんだ」という記者の使命感・緊張感が紙面全体にあふれ出ていてこそ、初めて新聞としての魅力が出ます。でも、残念ながらそうではなかったように思います。

◇首相の靖国参拝と想像力の欠落

一例が、安倍首相の靖国参拝後の記者会見報道です。安倍氏には、岸・安倍家のルーツからの影響もあるのでしょう。1個人としてどんな考え、思想を持っていようとも、「思想・信条の自由」はあります。咎めるつもりはありません。しかし、首相の立場なら、国民全体の命、生活を守る最低限の責任があります。

私も先の戦争で、戦死されたこの国の多くの方々に深く哀悼の意を捧げます。しかし、この戦争では、個別では死者の数などでいくつかの見解に分かれても、東アジアで多くの人たちの命が奪われたのは否定しようのない事実です。

靖国神社は、戦争を主導したÅ級戦犯を合祀しています。この国が過去の戦争責任から免れられない以上、首相の立場にある人が参拝するなら、東アジアの人々の心にどう映るか、です。

どんな言い訳を繰り返しても、「日本は過去の戦争を反省していない」として、遺族ならずとも、多くの人の心を傷つけてしまうのは致し方のないことではないでしょうか。

最近の中国、韓国の行動・言動には、行き過ぎがあると私も思います。でも、相手の攻撃に油を注ぐような行動に出ては、つけ込まれるだけ。何の益もないでしょう。日本だけは…、という国際社会の期待を無にしては、憲法前文にある崇高な理想が泣きます。「相手の嫌がることはしない」。首相なら、ご近所付き合いとして最低限のマナー・配慮があってしかるべきです。

万一でも、これをきっかけに衝突が起き、東アジアの若い人たちの命が散る事態なった時、安倍首相は、結果にどう責任が取れるのでしょうか。この国には、厳しい国際競争の中国市場で、何とか存在感を高めようと、日々活動しているビジネスマンが多数います。その努力さえ水の泡にすることを、首相は考えてみたことがあるのでしょうか。

◇ジャーナリズムは人々の代弁者

安倍首相は、会見で「靖国参拝に中国、韓国に理解を求める」と、言い放ちました。しかし、その方法がたやすく見つかるとは思えません。今までそんな言葉で参拝を続けた政治家が、中国に行き、理解を得られたことは一度もなかったはずです。「理解を求める」と、安易に口にすること自体が、無責任です。

権力監視は記者の使命です。なら、「これまで理解が得られなかったのに、今回、本当に出来るのか」「どんな方法でいつまでに理解を求めるのか。その見通し、具体策を明らかにしてもらいたい」「理解を得られなかったら、どう為政者として責任を取るのか」…など、国民が聞きたいことは山ほどあります。それを、会見で厳しく問い詰めてこそ、記者です。

しかし、ただただ「理解を求める」と安倍首相が言っただけで、会見があっさり終わってしまう。これでは国民は、記者のやる気、権力監視の気概を感じ取れるはずもないのです。権力者の前で腰の引ける記者が、無責任な政治家を増長させている一因です。

ジャーナリズムが人々の代弁者になり、「知る権利」にきちんと応えていく覚悟があるのか。私は今年もこの欄で厳しく見つめていく1年にしたいと思っています。

◇選挙事務局長への隔離人事

さて、昨年から始めた「公共事業は諸悪の根源」シリーズも、今回で11回目になりました。

長良川河口堰でいかに官僚が国民を欺くウソを積み重ね、自らの利権のために無駄な公共工事を推進していたか。これまで10回にわたり本欄で事実を詳しく書いてきました。皆さんも、もうお分かり戴けていると思います。

しかし、朝日はそれをまともに記事にしなかったので、人々にはほとんど伝わっていません。とすればどうしても、当時の野坂浩賢建設相に直接伝え、ことの真相を分かってもらう必要がありました。しかし、堰の本格運用を思い留まってもらおうと大臣室に野坂氏を訪ね、訴えたにも拘わらず、その思いが叶わず、名古屋本社に戻ってきたことまで、前回で書きました。

1995年5月のことでした。私は、二度と長良川がダムのない自然河川に戻らないことを宣言した野坂氏の河口堰本格運用の記者会見を、テレビでむなしく見ていました。まだ、名古屋本社の選挙本部事務局長の身です。紙面作りに関わることも出来ず、統一地方選で使った大量のパソコンの後片付けをしていました。

選挙本部事務局長の仕事は、選挙報道用に特別に作られた電算システムに打ち込む候補者一人一人の経歴など、大量のデータ整理・管理から始まります。告示日の候補者一覧、投開票日の当選者、得票一覧など紙面をぬかりなく作り上げるだけでなく、当日の新聞の配送まで、すべての工程管理をする責任者です。煩雑な事務作業の連続。私に限らず、外を飛び回って来た社会部記者には、もっとも苦手、やりたくない仕事なのです。

それに無事、選挙の紙面が作れて当たり前。万一、新聞が出ない事態に至れば、重い責任が問われる割に合わないポストでもあります。誰もが嫌がり、普通は社会部デスクの回り持ち。選挙の度に代わるのも通例でした。しかし、私に限りその後の衆院選、参院選も含め3回連続で押し付けられました。

名古屋社会部にはデスクが5人いました。当番制で社会面を作っていきます。選挙のない時、たまにデスク席に座ることもないではありません。報道したいことは山ほどあります。そんな日は自分なりの社会面を作りたいとも考えました。

でも、私に配下の記者は一人も与えられていません。記者を指揮して何かを記事にすることなど、何一つままならなかったのです。もちろん河口堰報道も…、なのです。私の選挙事務局長への隔離人事は、それが狙いだったのでしょう。

名古屋本社でデスクを平均点程度で済ましさえすれば、管内の県庁所在地、つまり、津か、岐阜支局長というのも、朝日では定番でした。選挙報道の電算システムは、衆院選に比例制度が導入されたことによって、私の時代から格段に複雑になっていました。綱渡り運用でしたが、意地でも私は3回とも何とかノーミスで選挙を乗り切りました。毎回、編集局長賞ももらっていましたから、少なくとも平均点以上の仕事はしたつもりです。

◇「部長職以上にはなれない

しかし、私に津、岐阜支局長の声はかかりません。津か岐阜なら、また河口堰報道にかかわることがあると恐れたからかも知れません。それに、出所は分かりませんが、当時、若い記者の間で、私は名古屋編集局の部長職以上にはなれないというウワサが流れていたことも事実です。

まがりなりにも私の河口堰取材内容を「記事にしていい」と、1993年に一旦許しが出た時、この欄で書いたことをもう一度、想い出して下さい。

当時の編集幹部は私に、それまで記事を止めていた社会部長を「二度と編集局には戻さない」と、私に約束しました。しかし、実はその時、この部長には交換条件として、私を「名古屋編集局の部長以上にしない」と、約束しているとの裏情報があったのです。

若い記者までこんなウワサが流布していたからには、編集幹部の誰かが漏らしたのでしょう。実際にその力学が社内に働いていたのが原因かも知れません。

私は半年ばかり「社会部長付」などという宙ぶらりんのポストに置かれた後、遠く、山形支局長への転勤を命じられました。山形への赴任前、私は、東京本社管内の地方支局を管轄する地域報道部に立ち寄りました。部長は、私の政治部時代の上司。私の身の上を心配してくれていました。

――よろしくお願いします。それにしても、なぜ突然、山形ですか?

「名古屋での君の評判はガタガタのようだね。しばらく、山形に緊急避難していればいいと思って」

――そんなに評判を落とすことをした覚えがないのですが……。

「まあ、とにかく、1年程度、支局長生活を楽しめばいい」

そんな会話でした。

◇販売店会で政治献金の話

私が東京政治部を離れる時、「名古屋で矢が尽き、刀が折れれば、骨ぐらい拾ってやる」とは言われていました。多分、その約束が果たされた結果だったのでしょう。

心配してもらって有り難かった半面、朝日の人事は、派閥・人脈で動くことを、改めて思い知った瞬間でもありました。私は、たとえわずかな期間でも、政治部に在籍していなかったら、さらにどんな報復を受けていたのか。それを思うと、正直、背筋の寒くなる思いがしました。

山形での生活は、若い記者と純粋に議論出来る楽しい時間が持てました。でも、人事の季節になると猫なで声で、私の人事の進み具合を探る電話をかけてくる後輩もいるにはいました。

私の報道を止めた例の社会部長と同じ新聞社から途中採用された人物です。誰に御注進するつもりか、大体見当はついてはいました。でも、彼も自分の将来がかかっていたのでしょう。そう思うと、あまり腹も立ちませんでした。答えられることは、正直に話したつもりです。

県庁所在地の支局長(今の朝日は「総局長」と称しています)は、その県の朝日の代表です。でかい顔も出来ますし、記者時代には知らなかった様々な経験もします。ある日、販売店主の会議に出た時のことです。

会の幹部が「支局長は聞かないことにして下さい」と、いきなり政治家への献金話を始めたのです。過当競争の新聞は、値下げ競争でバタバタ倒れると、自由な言論社会の根底を揺るがしかねません。宅配制度を維持するためにも、定価販売を再販制度により守られています。

しかし、新聞に愉快でない感情を持っている政治家や官僚からは、常に解除の圧力もかかっていることは、政治記者時代から知っていました。でも、朝日が直接することではないにしても、再販制度に理解を持つ政治家を支援するために、販売店が献金までしていようとは、その時まで知りませんでした。

「電波取り」と称し、地方にテレビやラジオ局が新設されると、新聞社はその出資比率を少しでも高めようと、血眼になります。権限を持つのは、官僚、影響力を行使する政治家です。支局長もそんな渦中に、否応なく巻き込まれます。新聞社と時の権力、政治家との貸し借りは、実はいくらでもあるのです。

◇広報室長へ異動

支局長でもこの程度のことまで、具体的に分かりました。上層部なら、さらに多くのことを知ってもいるはずだし、実際に手を染めている人たちもいたかも知れません。

先のこの欄http://www.kokusyo.jp/?p=3704でも書きました。新聞社では、記者時代に培った人脈を、報道以外の政治家、官僚らとの交渉・取り引きに使う人を「異能分子」と呼んでいます。名古屋編集局次長が、例の社会部長を「異能分子」と呼んでいたことも、先の欄で記した通りです。私の知らない「異能分子」の活躍余地はまだまだあったのでしょう。

河口堰報道の差し止めは、編集現場の常識からはあまりにも異常です。その裏で働いた力学は何であったか。もし取り引きの道具として使われたとしたら、何に使われたのか…。私はそれまでもいろいろ思いを巡らせて来ましたが、山形に赴任して1年半。推測できる対象が多くなり過ぎ、私にはますますことの真相が分からなくなっていた頃です。名古屋編集局長から、電話がありました。

この時の編集局長は、私の河口堰報道復活を応援してもらった超エリートでした。電話は「広報室長として、名古屋に戻ってもらいたい」と、言うものでした。私はもう腐り切ったこの組織の中で、もう地位などどうでもよくなっていました。ただ、何とか記事を書ける記者の立場に戻りたいと思っていました。

私は「苦情処理、危機管理など、得意分野でもなければ、柄でもありません。喧嘩早い私が、読者と口論になれば、組織に迷惑をかけます」と、一旦は固辞しました。

しかし、局長から「いろいろ、君のポストを考えた。だが、上の反発が強くうまく行かない。とにかく1年だけ我慢して欲しい」と説得されました。さらに「広報は大変な仕事だ。でも、君の人間修行にはなるだろう。外部の目で、新聞社を見る得がたい機会だ。後のことは考える」と、付け加えたのです。

名古屋編集局長なら、当然本来は、名古屋本社内の編集局人事はほぼ自分で決められます。まして、この局長はエリート、実力者です。しかし、その局長が私を編集局に戻す人事だけはままならなかったと言うのですから、余程、上層部からの強い力学が働いていたのでしょう。

それまで広報室長は、定年間際の人が就く窓際ポストでした。私はその時点では、定年までまだ8年を残していました。この局長には世話にもなりました。「1年限り」と言われた人事をむげに断れるものでもなかったのです。

◇「悪いが、今は我慢してくれ」

こんな経緯で、1999年にたどり着いたのが名古屋本社の広報室長というポストでした。やっと3級の部長職には昇格しました。しかし、その時点で、もう同期に比べ、昇格、昇給でも大幅に遅れていました。

朝日の給与制度では、「広報」という職種自体が、「記者職」より安く設定されています。査定も、編集にいた頃に比べ大幅に低く、昇格してもむしろ山形支局長時代より、もらえる給料の額は減る有様です。

これまでも人事発令の度に、上司は私に「悪いが、今は我慢してくれ」と付け加えました。この時も例外ではなかったです。私の人事は、河口堰報道の弾圧を境に、常に異例でした。

「広報は1年」の約束をした編集局長は人望もあり、将来の社長候補の一人と社内では目されていました。しかし当時、権勢を振るっていた箱島信一社長の人事でその後、関連会社の社長に突然、出向を命じられました。

これも謎の異例人事でした。私のことで「いろいろ努力したことが、社長の反感を買ったのでは」とのウワサもありました。もちろん真偽の程は、分かりません。

局長が名古屋を去る時、私と酒を酌み交わしました。「2年経ったら、朝日に取締役として戻る担保は、社長から何とか取り付けた。約束通り1年で君の次の役職を考えてくれるよう、後任にも引き継いだつもりだ。でも、今の社長のことだ。君の人事はどうなるか分からない。私が出向先から戻るまで、おとなしくしていてくれ」と、私を諭したのです。

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)

?フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」(東京図書出版)著者。