1. 公共事業は諸悪の根源? ジャーナリズムでなくなった朝日 その5 (後編)

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2013年12月03日 (火曜日)

公共事業は諸悪の根源? ジャーナリズムでなくなった朝日 その5 (後編)

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)

何しろ今回は、特に朝日社内の説得こそ大事です。そのまま記事にはめ込める言質を文章の形で取って、編集幹部に見せて納得させる必要があります。相手に言い直す暇を与え、少々、トーンが落ちるのは、覚悟の上です。紙面に掲載する中部地建河川部長名の談話の文面をその場で詰めることにしました。

案の定、それまでのやり取りから私が作った原文に、建設省はいろいろと細かい注文をつけて来ました。「認めた」ことまでも、もう一度あいまいにし、必要以上に言質を落とそうとします。その都度、「建設省はタイムマシンを持っていると書こうか」と、攻め立てて押し返しました。

最終的には「着工時、現状の川で、どのくらいの大水まで流せるか、きちっとした数字を算出していなかったのは事実」と、まとめたのです。もちろん、相手に合意させ、双方が文面のコピーを取りました。その後、再度念を押して再確認する作業も怠りませんでした。

これで前任の社会部長が在任当時言っていた「相手が認めないものはダメだ」という無理難題さえ、完全にクリアしたことになります。先の予備取材で、3年前に書いておいた続報も、そのままで使えることも、確認済みです。名古屋本社に戻り、突破口となる最初の原稿を書き上げました。もちろん、この日のうちに記事にするつもりだったのです。

「建設省は『堰がなければ、洪水の危険のある』との根拠が、着工時には存在しなかったことを認めた」と、デスクに取材経過を話し、先の談話も盛り込んで仕上げた原稿を示しました。

出来るだけ読者に分かりやすくするため、88年の着工時、建設省に唯一あった係数値で描いた最大大水時の水位シミュレーションも、読者の視覚に出来るだけ分かり易く訴えられるイラストにしようと、「図案さん」と呼ぶ担当部門に発注しました。

◇ウソの系譜を時系列でまとめる

これまでのおさらいです。長良川河口堰で建設省がどれほどのウソをついて来たか。私が3年前解明したウソの系譜を時系列でまとめると、次のようになります。

1962年 建設省は、治水ための必要浚渫量を「1300万トン」、利水からの必要量を「3200万トン」と算出。極秘の「長良川河口堰調査報告書」を作成。

 1968年 建設省は「治水」、「利水」を区別することなく、「治水・利水に必要な浚渫量は3200万トン」として、閣議決定に持ち込む。

 1972年 「河口堰建設事業」の一環の長良川川底の土砂を浚渫する事業開始(1990年までに900万トンの浚渫と地盤沈下で300万トンの同様効果)。

 1976年 安八水害発生。建設省は水余りの中、「治水のために、堰建設は不可欠」と大宣伝を始める。

1984年 安八水害のデータから、コンサルタント会社に依頼して、長良川の最新の現況粗度係数を算出。マニュアルではこの値で直ちに治水計算しなければならない。しかし結果は、最大大水時の水位は完全に安全ラインを下回り、「治水のためには堰不要」との結論になる。公表せず、ひた隠しにした。

1988年 木曽三川の改修100年記念事業として『木曽三川?その流域と河川技術』を発刊。頭隠して、尻隠さずで、安八水害のデータで算出した本物の「長良川の現況粗度係数」を掲載。

1989年 岐阜県は、建設省から渡された72年の河床データと「計画粗度」で計算した水位シミューレーションをパネルにして県庁正面に掲げ、「堰を造らないと、洪水の心配がある」と、住民を説得。

1990年2月 建設省が記者会見。計算根拠を明らかにしないまま、「現況の長良川は最大大水時、水位は安全ラインを1メートル弱上回り、洪水の危険がある。治水のためにあと1500万トン以上の浚渫が必要で、堰は不可欠」と説明。

1990年3月 私たちが取材で、『河床年報』を要求。「不等流計算」され、結果が露見するのを恐れた建設省は、さらなる取材対策のために、新しい「粗度係数」の算出にとりかかる。

1990年4月 新しい「粗度係数」の値を作り上げる。「4.9」の日付でペーパーを作成。この係数で計算すると、安全ラインを上回り、「堰必要」との結論にひっくり返る。

1990年6月 私たちが取材。建設省は「待ってました」とばかり、新しく算出した「粗度係数」のペーパーを示し、「この係数が正しい」として、堰建設の論拠とする。

――以上の通りです。

◇前社会部長が没にした出稿計画の一覧

新聞社では、事件などその後の展開が分からないものはともかく、調査報道のように記者に展開の主導権が握れるものは、あらかじめ「コンテ」を作り、編集各部門に渡しておくのが常です。コンテとは、「記事の狙いは何か」とともに、どんな原稿をいつから書き始め、どのように展開、いつ完結させるか―報道の設計図と言えるものです。

私が1990年、政治部に行く前に前部長に提出し、潰された出稿計画・コンテは、先の事実に基づき見出しだけ書くと次のようになります。

1日目 「建設省、治水計算の重要係数、最近変更 変更前なら治水上堰の必要なし」「極秘の『河床年報』を入手。計算から明らかに」

2日目 「住民団体から一斉に建設省への不信の声」

3日目 「建設省 1988年に係数算出 自ら発行した記念誌『木曽三川』に掲載」「この係数では、『堰は不要』のシミュレーション 新しい係数算出はやはり言い訳か」

4日目 「『88年の算出係数は正しい』と、岐阜大教授は自信」

5日目 「木曽、揖斐川の係数も88年係数とほぼ同じ 『木曽三川』記念誌に記載」

6日目 「『大水危険』の岐阜県庁の水位図は1972年の古い河床使って計算」

7日目 「治水のための浚渫必要量は1300万トン 1962年の建設省極秘報告書から明らかに」

――です。

◇再び「しばらく検討させて欲しい」

このうち、1日目の原稿を、私が書き上げたばかりの「建設省 88年の着工当時、『治水上不可欠』の裏付け数字なし 90年に新しい値で計算」の原稿に入れ替えます。後はこのままほぼ変更せずに使えます。

コンテとともに渡した原稿も、社会部のパソコンから完全に消されてはいました。でも、私のフロッピーにはしっかり保存されています。私はフロッピーから3年ぶりに取り出して印字、デスクに渡し、このコンテに沿ってすぐに報道を始めるよう促しました。

苦労してデータを積み上げて完成した報道です。全国至るところに長良川河口堰同様、無駄なダム計画がありましたから、一緒に葬り去る連載計画の構想も提出しました。

当時、河口堰は、「無駄な公共工事の典型」として、今の八ッ場ダム以上に全国の注目を集め反対運動が盛り上がっていました。

その最中に建設省が建設方針を維持する最大の拠り所がもろくも崩れたのです。「着工当時の88年には、『堰は治水上必要』は根拠のない主張、つまりウソであったと、他ならぬ建設省自身が明確に認めた」…。私は、全国通し1面扱いで最初から大々的に報道されて当たり前の記事と、信じて疑いませんでした。

取材が終われば、すぐ原稿を書き、翌日の紙面に載せてこそ、新聞です。ところが、デスクは相変わらず歯切れが悪かったのです。「しばらく検討させて欲しい」と、私の原稿はまた預かりになりました。

慎重居士のデスクにしてみれば、私の書いた原稿を編集局長、社会部長の双方に見せ、その顔色を伺いたかったのでしょう。「久しぶりに徹夜かな」と思い、支局に「今日は戻れない」と電話を入れていました。しかし、私はそのまま豊田にすごすごと引き揚げる以外になかったのです。

もちろん、部長への直談判も考えました。しかし、デスクはまだ、「記事にしない」と言っている訳ではありません。デスクを飛び越え、部長に出稿を促しては、デスクの顔が立ちません。今後の報道計画を考えても、ここでデスクと対立するのは、得策ではなかったからです。

◇編集局長「1面は使わせない」

しかし、案の定と言うべきか、デスクはなかなか返事をしてきませんでした。それから1週間、もう師走です。その間何があったか知りませんが、普段通り、豊田で地方版の取材をしていると、デスクから突然、「河口堰の記事を明日の新聞に載せる。すぐ名古屋に来て欲しい」と、私に連絡があったのです。

河口堰報道が本格化すると、紙面展開に応じて、建設省へ改めての取材も必要になります。しばらくは地方版の原稿を書く余裕はありません。でも、地方版を書いている同僚に迷惑をかけられません。そのために書き溜めておいた10本ほどの地方版記事を、「穴が空いたら、この記事で埋めておいて欲しい」と、地方版担当デスクに事情を話し、まとめて送信。夕方、その足でそそくさと名古屋本社に向かいました。

ただ、河口堰の原稿は書き終えています。本社に着いても、当日の仕事はそれほどありません。私の原稿にデスクが手直しした文章を点検しました。慎重居士だけに、私の書いた鋭角的な表現をマイルドにし、何が言いたいのか分からなくしている点も多々ありました。あまりにもおかしな直しのいくつかは、元に戻してもらう交渉をしました。

ところが、記事のニュース価値を判断し、編集・見出しをつける整理部の様子が普段と違い、異常な雰囲気になっていました。

私の原稿を見て、整理部デスクや実際に見出しをつける「面担」と呼んでいる担当記者の判断は、私の紙面構想と同じく、一面トップに本筋の建設省が「根拠なし」と認めた記事、関連原稿は社会面見開きで大々的に展開しようと考えていました。しかし、編集局長は認めず、「1面は使わせない」と頑としてストップをかけて来たというのです。

紙面編集の最終権限は確かに編集局長室にあります。しかし、幹部による意図的、恣意的な紙面作りを防ぐため、普段のニュース価値判断は、整理部に権限委譲されていました。編集局長も、現場で意見の対立があるなど、余程のことがない限り、口を挟まないのが、朝日の伝統でもあったのです。

しかしこの時は、私の直訴に「社会部内の判断に局長が介入するのは好ましくない」として動かなかった局長室が、現場の整理部デスク、記者の一致した判断に口を挟み、「1面扱いにしない」と、有無を言わせぬ強権、指揮権発動に出たのです。

◇名古屋本社の社会面トップで報道

新聞なら、読者に知らせるべき事実は何か。ニュース価値からの判断に真摯にあるべきです。しかし、何故この記事を1面で展開するのがダメなのか。局長室がまともな理由も示さなかったため、整理部デスクも怒ったのです。現場からの突き上げを受けた整理部長や社会部長も、入れ替わり立ち代り局長室に入り、協議を続けました。

薄いガラス窓1枚で仕切られた部屋からは、双方の怒鳴り声がまる聞こえでした。しかし、局長室はこの指揮を押し通し、一面扱いはなくなりました。記事は、1993年12月7日付け名古屋本社社会面見開き展開になりました。 私が1面と考え、結局は社会面トップとなった記事の書き出し、前文は次のようなものでした。

「長良川河口堰について、建設省は『洪水を防ぐには、川底の浚渫が欠かせない』としてきたが、1988年の着工当時、どれくらいの浚渫をしたらいいかという裏付けデータを持っておらず、着工から2年経過した90年になって、データ作りをしていたことが6日、建設省の内部資料や説明で明らかになった。現状の川で、どこまでの大水に耐えられるか、流下能力の検証のないまま、着工していたことになる。堰の建設は68年に閣議決定されているが、反対派などからは、『経過が不自然。治水のために本当に堰は必要だったのか』と検証を求める声が出ている」。

もちろん、私の元の原稿では、建設省による「粗度係数工作」を強く臭わせるものでした。しかし、前述通り慎重居士のデスクの手で、マイルドにはされています。でも、原稿に陽の目を見させるには、この程度の妥協はやむを得ません。後は 次の日からの続報で補えば良いからです。

続く本文では、「根拠」がなかったことを認めた中部地建河川部長名の談話も盛り込み、治水計算の手順、粗度係数の説明、88年と90年の値の違いで、シミュレーションはどう違うか、イラストで分かり易く示しました。

おっかなびっくり、デスクが手を入れた記事はもどかしくもありましたが、反対派住民の「都合が悪く、新データを作成したのでは」と疑問提起の声も加えることで、建設省の隠ぺい工作を、読者にそれなりに分かってもらえたとは思います。

しかし、難解な話です。短い1回限りの記事で、建設省がこれまで延々と国民・住民を騙し続けてきた偽装工作の全容を伝えることは、もちろん不可能です。

◇続報を許可する気概と勇気なし

それでも翌日、朝日の特ダネ記事を読んで、予想通り、他社の記者は建設省に押しかけ、記者会見を要求しました。反対派住民も、建設省に不信の声を挙げ、当初の紙面計画に沿い、私はその動きを取材、翌日の紙面を作ろうとコンテ通りの続報原稿を書きました。

でもデスクは、その記事を載せようとしませんでした。それなら3日目に予定していた記念誌『木曽三川』の存在を明かす続報を繰り上げて使って欲しいと、頼んだのです。しかし、それもデスクは受け入れません。結局この日は何の記事も載らないまま、終わりました。

中部地建が渋々、記者会見に応じたのは、翌々日の夕方でした。案の定、他社の記者は、私の記事を十分に理解出来ているとは思えませんでした。私も出席、質問をリードしたつもりです。でも、今後の続報の手の内を他社に明かす訳にはいきません。せめてこの時点で、『木曽三川』の記事だけでも載っていたら、私の質問はもっと工夫出来ました。他社の記者も、建設省の工作にさらに強い疑念を持ち、追及を強めただろうと、残念でなりません。

何とももどかしい会見でした。それでも他社の記者にも問い詰められて、建設省は改めて「着工時、データを把握していなかった」と、私の記事を事実として認めました。しかし、「数字的な検討をしておけばよかったが、想定する洪水で流れないのは明白」として堰建設を見直そうとは、しなかったのです。

デスクは、豊田支局長であることを理由に、この会見記事さえ私に書かせず、当時の中部地建担当記者に執筆させたのです。その結果、「『着工時、把握せず』中部地建、会見で認める」と、わずか3段見出しの小さなものにしかなりませんでした。住民団体の動きも、「工事の即刻停止を建設省に要請 市民団体」とのベタ記事が添えもののように載っただけです。

◇続報は自粛、デスクは肩を震わすだけ

この報道では、特に続報が命というのは、最初から承知済みの話です。これだけ難しく、前提の多い話を理解してもらうには、出来るだけ丁寧な説明が必要です。なおかつ建設省のカラクリまで、読者や他社の記者に分かってもらうには、しつこい程、続報を積み重ねていく以外にありません。

ボクシングに例えても、最初のパンチが当たったら、追い詰めて、2発も3発もボディーブローを浴びせる。最後は決め手の強烈アッパーとストレートでノックアウト。これが当り前の戦い方です。

せっかく顔面への見事なパンチが当たり、グラッと来たのに、そのまま相手の息が吹き返すまで、手をこまねいて見ている…。そんなボクサーが、どこの世界にいるでしょうか。

すでに多量の続報原稿をデスクに渡してあります。デスクは整理部に渡しさえすれば済む話です。私は、「早く、出稿して欲しい」と、言い続けました。しかし、デスクは、記事にしない理由はあいまいにしたまま、下を向いて、肩を震わすだけです。

何日もこの状態が続きました。さらに強硬に主張すると、最初の記事から1週間後に、「使えぬはずがここに掲載」と、『木曽三川』に88年の係数値が載っているとする記事だけ、なんとか載せました。しかし、第2社会面3段の目立たない扱い。気の抜けたビールです。

デスクは私へのガス抜きのつもりだったのかも知れません。でも私にも、読者にとっても、スカッとするどころか、むしろストレスが溜まっていくばかりです。結局、あとの続報は何を言おうとも、載せませんでした。

もう一度、時系列で私が解明した建設省のウソの多さと、わずかに記事として載り読者に知らせることが出来た事実の少なさを比較してみて下さい。これで河口堰反対の世論が高まるはずもありません。建設省は記事などどこ吹く風で、工事を平然と続けたのです。

◇朝日は読者の知る権利を侵害した

私が朝日記者を名乗って「知った事実」は、少なくとも朝日の読者にとって「知る権利」のある事実です。でも朝日は、読者の「知る権利」を侵害したとしか言えません。結果、国民のチェックが行き届かず、無駄な公共事業が野放しにされました。その先に国の借金・国債の途方もない積み上がりもあります。 いかに「知る権利」が侵害されると恐ろしいことになるか、その一端をこれで、ご理解戴けたと思います。

申し訳ありません。ここまで書いて来たところで、また紙数が尽きました。この後も私は、デスクに止められた続報を、何とかもう一度陽の目を見させようと、もがき続けました。次回はそこから始めたいと思います。ぜひ次回もご愛読頂ければ幸いです。

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)

フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」(東京図書出版)著者。