公共事業は諸悪の根源 ジャーナリズムでなくなった朝日 その4(前編)
◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)
維新・橋下氏の出自差別報道の痛手も癒えないまま、朝日から出向で再建を託された週刊朝日編集長の解任・懲戒解雇処分が伝えられています。朝日OBとしては、情けない限りです。
伝えられる週刊誌報道が事実に近いとしたら、上司の立場を利用した行為は、人として、まして社会的弱者を慮ることが職業的倫理であるはずのジャーナリストなら絶対にあってはならないことです。
私が朝日を批判するのは、現役時代の恨みつらみが原因ではありません。戦前回帰の風潮が強くなっている今の社会・政治状況からも、権力の監視役が是非とも必要です。これからも朝日の役割りは大きいはずです。真っ当なジャーナリズムとして再生してもらわなければなりません。しかし、現状を見ると、その道がいかに遠いか、改めて感じざるを得ません。
組織の末端が腐り、様々な不祥事が続発するのは、必ずと言っていいほどトップが腐っている時です。私は役所や企業を相手にした多くの調査報道で、嫌と言うほどそのことを見て来ました。しかもトップが腐っていた組織では、その頃育った社員により、その後何年、何十年と不祥事が繰り返される傾向にあります。
そんな組織でも建前では立派なことを言います。しかし、本音、つまり言っていることとやっていることは違っています。トップが腐敗していると、中堅、末端社員に至るまで不満がうっ積します。幹部が建前で倫理観の順守を言っても、組織には根付いていないのです。
残念ながら、国の官僚、政治家もさることながら、朝日もそうした組織の一つだったと言わざるを得ません。問題を起こした週刊朝日二人の編集長は、私より1世代若く、私が上司による報道弾圧・人事差別に苦しんでいた頃、まだ若手記者だった人たちです。現経営陣になって少しは改善されたようではありますが、朝日の長い歴史の中でも、最も派閥体質の強かった時期とも言えるでしょう。
◇朝日に不祥事が続出する理由
当時の幹部もジャーナリズムの使命とか倫理は格調高く語り、記者には念入りなジャーナリスト教育も行っていました。しかし、それは建前。仏作って魂入れず、なのです。建前で話す立派な言葉も乾かぬうちに、幹部自ら倫理・使命とは程遠い派閥抗争にうつつをぬかし、力の論理に走っていては、若い記者の心に響くはずもありません。
言葉を操るのがジャーナリストです。とすれば、言葉についての責任は一般人以上に重く、言行一致は最低限の倫理であるべきです。しかし、前回のこの欄http://www.kokusyo.jp/?p=3539で掲載した私への当時の名古屋編集局長の手紙が典型的な例の一つです。幹部が口にする言葉とやっていることのあまりの落差…。組織としての背筋が通らず、ジャーナリズムとしての組織原理が根底から崩れていました。
これも先の本欄に書いた通り、記者が警察の裏金情報を持って来ても、「取り引きに使え」と指示した人物が取締役、この程度の手紙しか書けない人物が編集局長……。露骨な派閥人事が横行していた時代です。幹部が「人々の知る権利・報道の自由が大事だ」と口にしても、本気で聞く記者はいません。
今の朝日の中堅幹部は、ジャーナリストとして最もその資質を磨かなければならない大事な時期に、こんな幹部のお説教を鼻白む思いで聞いて育った人たちです。本来のジャーナリストとしての倫理観が育っていなかったとしても当然ではないでしょうか。その後遺症が不祥事続発の原因だとしたら、本人だけの責任にし、トカゲの尻尾切りをしてみても組織全体が再生するはずもありません。
根元を絶つには、いかに苦しいことでもタブーを作らないことです。かつてのトップ・幹部の責任に及ぼうとも、徹底的な事実に基づく検証を行い、膿を出し尽くす過程が避けて通れません。しかし、今の朝日にその覚悟があるようには見えません。
◇過去を検証する意義
「公共事業は諸悪の根源」のこのシリーズも、今回で8回目になりました。私がこうした過去のことを書くのも、朝日の中でいかに言行一致がないがしろにされて来たかの実例だからです。過去の検証を朝日がしないなら、私が事実を明らかにする以外にありません。
現役時代、私に対し、「自分だけきれいごとを言って……」との批判が社内からあったことはよく承知しています。でも、「きれいごと」かどうかは別として、朝日自ら紙面で、他企業、役所に対し、手厳しいお説教を垂れてきたように、検証作業なくして、朝日もジャーナリズム本来の使命・倫理に根底に立ち戻ることは出来ないと、私は思っています。
負の部分・連鎖を断ち切ってこそ不祥事もなくなります。言行一致のジャーナリズム本来の姿勢、組織の姿を取り戻するには、それが一里塚になると信じて疑いません。
また、前置きが長くなりました。今回は、私が名古屋編集局長に送った直訴文に対し、先の手紙通り鼻をくくった回答を返し、大阪の局長に栄転した後の1993年の出来事を報告して行きたいと思います。
◇1000兆円の借金大国に?事実が立証した編集方針の誤り
「このまま無駄な公共事業の典型・長良川河口堰の運用を許すなら、国・地方の財政を危機に陥れる。将来の超高齢化社会の到来で、この国が立ちいかなくなるのではないか…」。私が局長に対し、誠心誠意訴えたのはこのことでした。
当時の訴えが的を得ていたことは、その後のバブル崩壊で、「景気対策」の名の下に、河口堰同様の無駄な公共事業を乱発。今、この国が1000兆円を超える借金を抱え、青息吐息の状態になっていることからも証明されていると思っています。しかし、財政破綻に国の官僚が責任を取っていないのと同様、朝日も、記事を止めたことに対して責任を取ろうとする幹部はいません。
記者の仕事とは何か。私は、今ある現実を取材し、将来の危機を察知し、世間に知らせることで、問題を未然に防ぐことだと思っています。何故、あの時河口堰報道を止めたのか?。今でも、当時の局長の顔を想い出すたびに虫唾が走ります。
この時も、私は局長の手紙に対する反論は、いくらでも書けました。でも、もはや名古屋の局長でもなく、この程度の文面しか書けない人物相手に、論争を続けても無駄。その暇も気力もありませんでした。
1993年正月になって、後任の新局長が赴任していました。この人物に問題点を改めて訴え、報道・組織の是正をお願いする以外にないと思ったのです。でも、本当に出来るのか。実は多くの不安要因がありました。
何よりこの局長は、東京本社学芸部長から2階級特進、異例の抜擢での就任だったからです。河口堰報道を止めている社会部長が、「自分に名古屋編集局長のポストを約束した」と、その名を口にした例の経営幹部は、この新局長とも近い仲とのウワサがありました。
通常、名古屋編集局長は、東京編集局次長の中でも将来の取締役として嘱望される人物がなることが多かったのです。しかし、この局長は学芸部長時代も部下の評価が高かった訳でもなく、在任中に大きな実績があったとも聞いていません。
これもこれまでのこの欄で何回か触れました。社会部長と親しい例の幹部は、名古屋の社会部長、編集局長、局次長、代表も歴任、取締役になってからも、名古屋編集局の幹部人事を遠隔操縦しているとのウワサが絶えませんでした。この人物なら、何らかの意図で自分の息のかかった人物を、思い通りに局長に据えることは朝飯前だったはずです。
もちろん、人事は密室。この人事が幹部の私的意図で行われたとか、局長が本当に幹部の息のかかった人物であったとか、断定出来る証拠はありませんし、私も、そうと決めつけるつもりなど毛頭ありません。
ただ当時、私が河口堰報道の再開を周囲に強く働きかけていたこともあり、社会部内で部長の言動・行動に部員の不満・疑問の声が高まっていました。この局長の就任は、前局長の方針を引き継ぎ社会部長を擁護するため。つまり、河口堰報道を止めるための対策人事としか、私には思えなかったのです。少なくとも周囲も「なぜ」と、いぶかる謎の人事だったことだけは間違いありません。
◇本音と建前の使い分ける朝日の空気
新局長が就任すると、恒例の管内支局・通信局回りの予定も組まれました。私はその時に新局長に河口堰報道について話をしようと待ち受けていました。しかし、前局長が豊田訪問を見送ったのと同様、新局長視察は案の定、「豊田」だけが日程から飛ばされていました。
しかしその後、愛知県内の通信会議の予定がありました。長く本社に居た私のような記者は別でも、支局、通信局勤務経験が長い地方の記者は、局長・部長など本社の編集幹部とふだん親しく話す機会はあまりありません。通信会議は、1年か2年に一度、一緒にホテルなどで会議を開き、夜、懇親会で親睦を深める会です。
朝日では昔、地方にサムライ記者が多くいました。気に入らない部長を酔っ払ったと見せかけ、ぶん殴るという武勇伝も懇親会では絶えなかったのです。私が新人で地方支局に配属された1970年代は、誰をどうぶん殴るかのリスト・シナリオまで、支局・通信局を駆け回っていました。
だから、部長連中はこの会議が近づくと戦々恐々。何しろ記者にぶん殴られる部長が出たら、殴った記者が咎められることはありません。むしろ、殴られた部長はなぜ部下から評判が悪いかが問題とされ、編集局長からも罰点がつく時代でした。
ジャーナリズムの使命・倫理とか舌を噛む難しい話をしなくてもいいのです。こうした朝日独特の酔っ払い文化が何にもまして、管理職の理不尽な横暴を止め、朝日がジャーナリズムとしての道を踏み外さない歯止めとして働いていました。
でもこの頃は、すでに派閥人事の横行は地方まで及んでいました。サムライは定年で徐々に減っただけでなく、地方からも飛ばされ、数も少なくなっていました。もともと酔っ払いは、心優しい人たちです。酒の勢いを借りて徒党を組んでこそ力が出ます。一人、二人では何も出来ないのです。
当時の通信会議は、もう上司にゴマをする記者も多くいる、何処の企業にでもあるありきたりの宴会になっていました。でも、局長から遠ざけられていた私は、この機会をとらえて話すしかありません。そのチャンスを虎視眈々と狙っていました。
宴会は、新局長の「忌憚ない意見を、どんどん聞きたい」との挨拶から始まりました。本音と建前の使い分けは、朝日の得意技。内面はともかく、幹部になると、太っ腹なところを部下に見せるのも、この組織の習わしでした。
局長の前には、記者が入れ替り立ち替り来て、にこやかに酒を注ぎ去って行きます。私は本社勤務が長かったこともあり、この会議に出るのも10数年ぶり。ウワサでは聞いてはいましたが、様変わりした雰囲気に隔世の感がしました。
◇報道自粛を突破できない「ノミの心臓」
そんな記者の局長への挨拶回りが、一通り終わった時です。局長の前に人が絶えたのを見計らい、私は「豊田には来ていただけませんでしたが……」と、酔っぱらったふりをして銚子を持ち、局長の前に進み出ました。
「河口堰報道はこれ以上待てない」と、話を向けました。そうすると、先程の「忌憚ない意見をどしどし…」はどこへやら。局長は「酒の席だ。詳しいことを言われても……」と、最初から逃げ腰です。
「今やらないと、大きな禍根を残す」と、説得しました。局長はさらに逃げようとしたので、「今、忌憚なく、何でも話せと言われたのでは……。名古屋では河口堰報道は重要課題であることは、当然赴任前に勉強されて来たのでしょう」と、酒癖の悪さと見せかけ、強引に引き止めました。
そんなこんなで「俺も、河口堰報道に関心がある」との言質をやっとのことで、取り付けたのです。でも、「詳しい資料を見ないと……」と、局長はまた逃げ腰。「それではぜひ、豊田に来ていただきたい。酒の入らない席で、説明させて下さい」と、説き伏せました。
大勢の記者がいる席です。「忌憚ない意見を」と言った手前もあり、あまりみっともない姿も見せられなかったのでしょう。「この前の視察日程では、忙しく豊田を組み入れられなかった。ぜひ近いうち行かせてもらう」と言わせて、局長を解放しました。
ただ、後で聞いた話では、「なぜ、あいつを私と話させた。途中で誰かが割って入り、私から引き離さなかったのか」と、側近はえらい剣幕で怒られたという話です。案の定、約束したにも関わらず、その後も局長が、豊田に現れることは、一度もありませんでした。
そんな無駄な時間を過ごすうち、その年ももう3月。人事・査定の季節がまた廻って来ていました。蓋を開くと、査定は前年から2ランク落ちて、「標準」のC。前回のこの欄に書いたように、部長が「俺の言うことを聞いていれば間違いない」と電話してきた前年は、最高ランクのAでした。
少し自慢に聞こえたらお許し下さい。私は大きな特ダネを書いた時にもらえる編集局長賞の受賞は、それまで9回を数えていました。部長賞、努力賞を入れると50回以上です。ですから査定は、AかBが大半。標準のC査定など駆け出し記者以降は、一度もありません。それまでの昇格も、同期に比べて早い方だったのです。
この1年間も、地方版記事の出稿は一日100行以上を維持。社会面への特ダネ出稿も、他の支局長・通信局長より群を抜いていました。地方版が埋まらず苦労している担当の責任者からも常々感謝されていました。最初の評価は、この責任者によるものです。尋ねると、「私はそんな査定はしていない。部長が後で変えたのかな」と答えました。
◇記者としては無能力な者が現場記者を勤評する愚
この頃から社員への管理を厳しくしていた朝日では、「成果主義」と称し、仕事の成果をより重視した査定と、昇格制度を導入していました。しかし、部長は査定で私を懐柔出来ないなら、逆に報復に出たとしか、私には思えませんでした。
「能力・成果に応じた昇給」は、世の中の風潮。でも、朝日の「成果主義」とは、所詮この程度です。とっくに次長相当の4級へ昇格していい時期でした。しかし、それもなく、処遇は同期より大幅に遅れをとり始めていました。
ただ部長や編集局長に不満を言っても、これまでの経過からも取り合わないのは、目に見えています。「金のことで、もめた」と、面白おかしく伝わるのも不愉快です。そのままにしておきましたが、報道弾圧・報復の道具に、査定まで使う…。朝日はそんな組織になり果てていました。(続く)
≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)
フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」(東京図書出版)著者。