1. 公共事業は諸悪の根源? ジャーナリズムでなくなった朝日 その1(後編)

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2013年09月04日 (水曜日)

公共事業は諸悪の根源? ジャーナリズムでなくなった朝日 その1(後編)

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)

新部長が赴任したのは、7月1日です。私は、「完全に、建設省のウソは解明した。証拠も万全だ。説明したい。早く検討会を開いて、報道開始のゴーサインを出して欲しい」と、デスクを通じ即座に申し入れました。

しかし、部長は「とにかく今は忙しい。しばらく待て」の一点張りなのです。確かに新しい部長が来ると、直後は各方面の役所や団体などへの挨拶回りで、多忙な日程が組まれます。しかし、新聞社は何と言っても、報道・記事が大事です。重要な報道が正念場を迎えていたなら、何を差し置いても、そのことから優先的に進めていくのは、これまでの部長なら誰でもしていたことです。

◇「その話なら、おめぃの激励会も兼ねて・・」

「どうも様子がおかしい」と、思い始めたのは、その時からです。ただ、部長が「忙しい」と言う以上、待つしかありません。もう赴任して半月余りが経った頃です。やっと部長から私に「話がある。社に戻れ」と連絡がありました。

「やっと検討会を開いてくれる気になったのか」と、私は勇んで戻りました。でも、「ちょっと内緒で」と、別室に呼び込まれました。部長はうやうやしく「君には、9月から東京本社政治部に行ってもらうことになりました」と、言い渡しました。

もちろんこの話は前にもこの欄で書いたように、その年の正月前後に前部長から聞かされていたことです。だから私は、何とか早く河口堰を記事にしなければと、急いでいたのです。でも、部長はさも自分の努力の結果かのように、人事に恩を売る口ぶりでした。

9月転勤が本決まりなら、連載を実現するまでには、なおさら時間はありません。私は、人事の話はそそくさに、「とにかく、前からお願いしている河口堰報道の打ち合わせを」と、迫りました。

しかし、部長は「その話なら、そのうちゆっくり聞く。そうだ。今月末に人事発表の部会がある。そのあと、おめぃの激励会も兼ねて、飯を食いながらでも聞こうじゃないか」と、言ってきました。

最初はうやうやしく私に「君」を使いました。しかし、この部長は、もともと部下のことを「おめぃ」呼ばわりすることでも、社内で有名でした。新聞記者の言葉遣いは、私も含めて決して褒められたものではありません。しかし、朝日広しと言えども、部下に「おめぃ」呼ばわりする部長は、他にはいませんでした。

「なるほど、社内の評判通りだった」と、内心思いましたが、そんな言葉に腹を立てている余裕はありません。「それでは遅い。建設省にもかなり当たっています。一刻も早く、記事にしたい。調査報道のプロなら、いかにタイミングが大事か、お分かりでしょう」と、説得はしました。しかし、「今は忙しい」の一点張りです。

◇東京本社・政治部へ厄介ばらい

また、待つしかありません。7月末、人事発表の部会も終わり、私の政治部異動も知らされました。同僚、後輩には「何で県警キャップが今更、政治部?」とのいぶかる声もありました。中には「河口堰報道の中止と政治部転勤を引き換えにしたのではないか」という、嫉妬半分の心ないウワサも出ました。

でも、それが目的なら、もともと春の異動でほぼ決まっていたものを、何も9月まで延ばさず、取材が完了する前にさっさと転勤させれば済むことです。でも、「年初から話があって…」などと、人事の内情を社内で話すのは、ご法度。ウワサに私は耳を塞ぎ、ひたすら「河口堰報道を早く」とだけ、部長に訴え続けました。

8月に入り、やっと私には「打ち合わせ会」のつもりの、部長、デスクも出席する「激励会」が開かれました。これまでに収集した河口堰資料のうち、めぼしい資料のいくつかを取り出し、予定稿などとともに紙袋に入れ、会社近くの小料理屋に向かいました。

しかし、食事しながらの話で、詰まるはずもありません。私が本題に入ろうとしても、部長は「政治記者になるなら、参考になる」と、さも親切心のように調査報道で知りあった政治家の話を始め、はぐらかそうとしました。何とか引き戻し、私はひと通りの説明はしたつもりです。でも、それ以上の進展はあるはずもなかったのです。

◇追及を放棄した朝日のジャーナリズム観

社内に戻った私は、デスクともう一度話をして、「どうしたら記事になるのか。条件を詰めてほしい」と、頼みました。

「激励会」では、反論に会うからでしょう。部長は私の前では何も語りませんでした。しかし、デスクによると、部長は「建設省は新しい粗度係数が正しく、『今の長良川で洪水の危険がある』と反論して、非を認めていない。計算方法も建設省と同一だと、誰が保証するのか。とにかく相手が非を認めないものは駄目だ。すべてこちらのデータを相手に示し、建設省が非を認めたら記事にしてやる」と、言っているとのことでした。

しかし、考えてもみて下さい。新聞社が疑惑を指摘して、取材の最初からすんなり「悪うございました」と、非を認める素直な政治家や役所・企業がどれだけあるでしょうか。調査報道の標的にされた相手は、組織の存亡にかかわる死活問題に直面します。ほとんどの相手は、理屈になろうがなるまいが、すぐには認めず、反論して来ます。

そこを乗り越えるのが調査報道です。いかに社会悪を追放し、政策変更に繋げられるか。私は調査報道とは、読者・国民を巻き込む劇場型でなければならないと、常々思っていました。

取材したものが真実だと新聞社として確信出来れば、記事にします。相手の反論は談話の形にし、同時に掲載しておくのです。実はこれが調査報道劇場の幕開きです。相手が憎々しげに反論してきたところで、出鼻をくじくように数々の証拠・証言を小出しにしながら、相手のウソを暴く続報を書いて追い詰めて行きます。だから、私はその時のために前述の通り、10本もの続報を書き溜めておいたのです。

◇部長が必死に記事止めする理由は無くなったはずだが・・・

劇場全体がクライマックスに達したところで、決め手になる決定的な証拠を示し、報道と相手側の反論のどちらが真っ当か、観客である読者・国民に判断してもらいます。公開の劇場だから、相手の反論のウソ・矛盾は、すぐに観客にも判断出来ます。劇場はブーイングに包まれ、相手も観念。「悪うございました」と、公衆の面前に謝罪させてこそ、社会浄化・政策変更に繋がる成果が出せます。これでこそ、調査報道なのです。

何よりこの部長自身、数々の調査報道もその手法で進めています。私は「部長自身、記者時代、相手が非を認めなくても記事にしているではないか。最初から、すべての手の内を建設省に示せなどとの指示は、報道を潰すのに等しい」と、反論しました。

しかし、デスクは部長が屁理屈をこねてでも、記事にしないつもりだと分かっていたのでしょう。「相手が認めるまで記事にしないと、部長が言っている以上、あとは何を言っても無駄だ。指示に従い、これまでの取材で集めたこちらのデータ・手の内をすべて建設省に示し、相手側が認めるかどうか、とにかくやってみるしかない」と、戸惑いつつ答えました。

私は、「建設省の記者会見の手の内を完全に解明したら、載せてくれる約束ではなかったのか」とも食い下がりました。しかし、最後はデスクも「それは前部長時代のことだ」と、あくまで強硬でした。

私としても、何とか異動までに記事に仕上げなければ、名古屋から離れられません。部長命令がどんなに無茶でも従い、何とか異動までに記事に仕上げる以外になかったのです。

もう、転勤まで2週間余り。私は建設省取材を再開、まず学者に計算してもらった1990年2月の水位図と建設省が私の取材対策のため4月に算出した粗度係数で描いき出した水位図を比較、「描く水位の相違は粗度係数の違いだけによるものか」と、質問しました。

建設省からは「あなたが私たちの行政マニュアルである『河川砂防基準』を穴が開くほど読まれ、勉強されたのは、よく分かっています。計算式は、その中でお示ししていますので、その式でやられた計算なら、結果は誰がやっても同じです。

相違は言われる通り、係数の違いだけです」との言質を取りました。これで部長が記事を止める理由の一つとした「計算方法も建設省と同一だと、誰が保証するのか」に対し、建設省自身が「計算方法は同一」と、保証してくれたのです。つまり、部長はこの理由をもって、記事を止める理由はなくなったことになります。

あとは、90年4月の作り出した係数の値が、「実はまともなものではなく、私の取材対策のためのデッチ上げ言い訳係数ではないか」との私の追及に、建設省がどう答えるかです。

案の定、部長は建設省のこの言質だけでは、「建設省は『係数値が違う』と言って、『長良川は安全』とは認めていない」と、記事化を認めませんでした。私は翌日、1988年に言い訳でない本当の安八水害時の係数の値が記載されている建設省発行の記念誌『木曽三川』をカバンに忍ばせ、取材で出掛けました。まだ、私が『木曽三川』の存在を知っているか、相手も疑心暗鬼になっている時です。

◇へりくつに終始する建設省

取材のやり取りはざっとこんな具合です。

?――この前、6月の私の取材で示された係数が唯一の値」と言われたが、本当にこれ以外にないのですね?

「あるとも…、ないとも…」

10分ほど、こんな押し問答を続けた後、私はやおらカバンから『木曽三川』を取り出し、机の上にドンと置きました。「何を口ごもっているか、最初から分かっている。あなたたち自身で発行したこの記念誌に、あなた方が『唯一の値』と主張する係数とは違う値が、堂々と載っているではないか」と、目次を開き、大見得を切りました。

それでも「確かに、安八水害の後、一度、この粗度係数は算出し、『木曽三川』には載せました。しかし、もともと、1波目から算出したこの係数の値は低過ぎ、最初からおかしいと思っていました。だから、一度も治水計算に利用したことがないのです」と、苦しげな表情で答えました。

「それなら、なぜ、『木曽三川』に載せたのか」「『低過ぎる』根拠は」「駄目と分かっていたなら、なぜ、計算し直さなかったのか。堂々と『木曽三川』に載せているのは何故か」と、私は、矢継ぎ早に質問し、追い打ちをかけました。

相手からは、「とにかく、この時は、この数字しか……」「前にも言ったように、1波目で計算していたが、4波目で計算するのが妥当と……」「なぜ、『木曽三川』に載せたか、私には分かりません……」などと、しどろもどろの答えが返ってくるばかりです。

――「4波目で計算しないと……」と言われたが、『木曽三川』のこの部分をよく読みなさい。1波から4波の96時間を「計算期間」としている。最初から波目も考慮に入れているではないか?

「まぁ、とにかく、今回、4波目で計算したら、こうなるということで……」

――4波目は推定流量。「実測」がマニュアルの決まりだ。「推定」ならいくらでも、操作可能だ!

「お分かりの通り、4波目は流量が測れていなかった。4波目で計算しなければならない以上、流量を『推定』するしかありません。そこから今回は、係数を導き出したということで……」

――流量の推定方法は極めてアバウトだ。正確な粗度係数を求めるのに使う手法ではないことは、水理学の常識ではないのか?

「実測流量がない以上……、これを使う以外になかったということです」

――私たちが取材を始めたから、言い訳の係数を急遽、デッチ上げたのではないのか?

「いゃ?、そんなことではなく……。たまたま時期が一致したということで……」

――新たな係数値では、隣接する木曽、揖斐川の値に比べ突飛に高くなる。もともと流れが交差、一つの川だったはずだ。長良川だけ高いのは不自然だ!

「とにかく高くなるものは、高くなるとしか……」

――長良川では河川改修を続けてきたにもかかわらず、新しい値は、以前より高く、わざわざ建設省は改修で長良川を流れにくく、危険な川にしてきたことになる。どんな改修をしたのか?

「そうなるとしか……」 もう、しどろもどろ。私は前述したように、このやり取りを調査報道劇場の幕を開けた後、読者から見える公開の場でしたかったのです。それでも相手とは、了解を取り合い、この一問一答はすべて録音してあります。

◇官僚「ここだけは読んでもらっては困ります」

浮き足立った相手なら、普段は絶対出さない資料でも追い詰められて、出すことがあります。私は、ここで手綱は緩めず、聞いていた『木曽三川』記載の係数を実際に算定した『コンサルタント報告書』を要求しました。報告書には、流量水位曲線を使い、4波目の流量は、「1波目とほぼ変らない」との記載があることは事前の取材で、私は知っていたからです。

しかし、そこはさすがにキャリア官僚です。追い詰められても、なかなか出しません。小1時間も「出せ」「出せない」で、押し問答を続け、「建設省は最初の係数は、『計算方法に問題があった』としている以上、本当に問題があるかどうか、コンサルの報告書を読めば分かる。税金を使って作った報告書だ。何故出せないのか」と迫ると、渋々出すことに応じました。

でも、「出す」と言ってからも、しばらく裏でゴソゴソ。やっと出てきた報告書を読むと、コンサルでは、『河川砂防基準』通りの極めて正当な方法で、係数の値を求めていたのが分かりました。でも、ページをめくっていくと、一部、ざら紙で封をして、読めないようにしている部分がありました。

「何故」と聞くと、「ここだけは読んでもらっては困ります」との返答です。また、「見せろ」、「見せない」で、押し問答になりましたが、絶対に封を破ることを許しませんでした。裏でゴソゴソしていたのは、封をするこの作業だったのです。

しかし、私は事前の取材で、この部分に何が書かれているかは、とっくの昔に知っていました。「4波目の流量も1波目は、ほぼ変らず、安八水害の係数の値として、1波目のデータを4波に当てはめてもいい」との水位流量曲線を使った検証結果から詳しく書かれ、1波目が正しいことが自ら認証した最も肝心な部分だったのです。

建設省とはどこまでも往生際の悪い役所です。「すべてお見通しだ」と、言ってやろうかと思いましたが、今回は、「ざら紙で封をした部分は見せられない」との言質を取って、そのまま引き揚げることにしました。

何故なら、このやり取りの録音を聞けば、朝日に限らず、何処のメディアでもごく当たり前に記事にします。いくらなんでもこの部長も、記事にすることを許さない訳には行かないだろうと、思ったからでもありました。

報道を開始すれば、世間の建設省に対する風当たりはさらに強まります。いやでもコンサルタント報告書は、出さざるを得なくなるからです。その時、「最も肝心な部分は封をして記者に見せなかった」と報じれば、ますます建設省を袋小路に追い詰めることが出来ます。

◇腐敗した建設省追及から逃げた調査報道の「神様」

しかし、この部長にそんな常識は通じませんでした。「相手の論理矛盾は明らかだ。報道を開始できる状況に十分ある」と、テープをもとに説明しても、記事化を一切認めませんでした。

「建設省は現状の長良川が『治水上、安全』とはっきり認めた訳ではない。認めていない以上、今すぐ記事には出来ない」「おめぃは、もう、転勤間近だ。この報道は長期戦なる。転勤前の記者にまかせる訳にはいかない。とにかく後は、引き継げ」。建設省同様、またも理屈にならない屁理屈を部長は並べ立てたのです。

私は、取材経過のすべてをもう一度話し、記事の裏付けがこれほど十分な調査報道のないことを何度も何度も主張し、食い下がりました。しかし、後は何を言っても、「引き継げ」の繰り返しです。「原稿にまだ取材不足がある」と言うなら、まだ「どこが不足か」などと論争のしようはあります。でも、「引き継げ」では取りつく島もなかったのです。デスクはお手上げの表情でした。

「あいつは、転勤だ。いなくなれば、何とでもなる。何を言ってきても議論を平行線にして、一切記事にさせるな」との指令が、部長の赴任直後からデスクに出ていたという話を聞いたのは、ずっと後のことでした。

政治部への異動で東京本社に向かう新幹線の中でも、私は後ろ髪を引かれました。でも、記者もサラリーマン。異動が会社命令である以上、受け入れざるを得ません。「引き継げ」と言われた以上、精魂込めて書いた予定稿や取材資料をデスクに託し、名古屋を離れるしかなかったのです。

その後、この仕事を引き継いだはずの若い記者には、取材中止が言い渡されたと、東京で聞きました。託したはずの予定稿は、跡形もなく消えていました。

申し訳ありません。ここまで書いたところで、今回もまた紙数が尽きました。私は、東京本社でも何とか取材した内容を読者に知らせようと、もがき続けました。しかし結果的には、朝日は私の東京在任中も記事にすることは認めませんでした。

どう止めたか。次回はその経過から書こうと思います。今回も難解な内容で申し訳ありません。これに懲りず、ぜひ次回もご愛読頂ければ幸いです。

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)

フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」(東京図書出版)著者。