憲法9条のDNA 、この国の祖先、縄文人に思う
◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)
前回の本欄で、私は今の現実から憲法9条を持つ意義を考えました。今回はこの国の遠い昔から考えます。交戦権まで放棄する世界史的にも稀な憲法が、曲がりなりにもこの国に根付いたのは、なぜか。
私は、この国の半分の人々が「押し付けられた」と拒否反応を示さなかったのは、実は、1万年以上前からこの国に住んでいた縄文人のDNAを、私たちが受け継いでいることにあるのではないかと思うのです。世界の東の果てのこの国。その地に、まだマンモスが生きていた時代から育まれてきた縄文文化に思いをはせ、この国の民が「9条」を大事に育てていかねばならない人類史的意義を考えてみたいと思います。
◆憲法9条--非交戦権の奇跡
再軍備には多大な財政負担を伴います。前回も書いた通り、それを迫る米国の圧力をかわすために、この国で「9条」の果たす役割を高く評価していたのが後藤田正晴氏でした。しかし、私が「9条」について聞いたところ、その後藤田氏でさえ「軍隊を持たないという憲法がこんなに長く、この国に定着するとは当初思わなかった」と、回想されていました。
サルから進化したのが、人間です。サルは群れを作り、その闘争本能から他の群れとの抗争を通じ、陣地を拡げています。こうしたサルの習性は、「ヒト」にも乗り移ったのでしょう。人類史もその当初から、部族と部族、国と国との間の領土争い、血で彩られた戦争の歴史でした。サルのDNAを受け継いだ、「ヒト」という種のなせる悲しい性(さが)かも知れません。
「建国の祖」などと、国ごとに語り継がれてきた英雄伝説は、血で血を洗う争いに勝利し、領土を広げて来た人たちの話でもありました。そんな人類史の中で、「交戦権」を持たない憲法を持つ国が長続きすることなど、後藤田氏ならずとも、青春時代、戦争の中で過ごした人たちには、想像さえ出来なかったのかも知れません。
でも、世論調査を見ても、この国の人たちの半分は今、この憲法を受け入れています。現実論としても、この国の戦後の復興と繁栄に大きな役割を果たして来たのも間違いありません。その理由は、どこにあるのか。私も考えあぐねていました。
私は、報道弾圧を巡る朝日幹部との確執で、思いがけなく東北の支局長に赴任する機会を得ました。そこで後藤田氏も気付かなかったその理由を見つけたような気がするのです。
◆山形支局へ赴任
以前からこの欄で書いている通り、私は、無駄な公共事業であることを完璧に立証する長良川河口堰報道を朝日から止められました。編集局長に異議を唱えたことを発端に、最後には記者の職を剥奪されましたが、それまでの私の人事異動も、こうした確執により常に異例でした。
私が名古屋社会部のデスク(次長)を終えた後、次の役職がなかなか決まらず、「部長付」などと言う訳のわからない肩書で、しばらく待機ポストにいたこともその一つです。
普通、朝日で名古屋本社のデスクをすると、次のポストは名古屋本社管内の県庁所在地、つまり津か岐阜の支局長(現在、朝日は県庁所在地支局長は「総局長」と呼んでいる)に就くのが定番でした。
県庁所在地支局長は1城1国の主のようなものです。その県の地方版は自由に作れるし、社会面の記事などについても出稿権限を持つデスクとも対等以上にわたり合えます。
もし、津か岐阜の支局長にしてしまうと、止めていた河口堰報道を配下の記者を使って、私が蒸し返すのではないか。そう、朝日幹部が恐れたことが背景にあったのかも知れません。
津か岐阜支局長就任の目はなくなりました。そんな宙ぶらりんの状態にあった私を見るに見かねたのが、東京本社政治部時代の上司・先輩でした。「一度は県庁所在地の支局長ぐらいはさせてやりたい」と、私に気を使ってくれたのでしょう。その尽力もあり、1997年、突然私に「山形支局長」という人事発令がありました。
当時、名古屋のデスクから「山形」への異動は前代未聞。あまりにも異例でした。私も戸惑いましたが、それ以上に周囲がアッと驚く人事でした。何しろ私は、名古屋社会部で長く記者活動をしていました。北海道への出張で東北の上空を飛んだことはあっても、直接東北に足を踏み入れるのは初めてのことだったのです。
◆戦争嫌いの縄文人
でも、「人生至るところに、青山あり」です。初めて来た東北は私にとって何より新鮮でした。人のいい山形の人たちと多くの交流も出来ました。今でも私に、サクランボを送ってくれる人が何人もいます。
本社には、上司の顔色を見ながら、自分の損得で仕事をする記者が多いのも事実です。時には信頼している人から裏切られることもあります。しかし支局では、若い記者と純粋にジャーナリズムを語り合えます。そんな生活は、私にとって何より貴重で楽しい時間でした。
私は、山形で体験した多くのこともこの欄で語りたいと思います。でも、今回は紙数の関係もあります。縄文文化に触れ合ったことだけに絞って書きます。 支局長時代、私は努めて支局から外に出ました。空いた時間を外部の人たちから話を聞いたり、休みの日には少し遠出、山形以外の東北の地を訪ね歩くことにも充てました。
「支局長が局舎ででかい顔して居座っていると、デスクや若い記者もやりずらい」と、先輩からの忠告を受けていたこともあります。そうでなくても私は、でかい顔をする習性があります。支局員に迷惑をかけまいと、忠告にそい東北を歩くうち、私が生まれた関西や記者活動の主舞台だった中部地方と違い、この地方に多く残っている縄文遺跡やその出土物に出会ったのです。そこで話を聞くうち、縄文文化に魅せられました。
縄文文化は、研究者の間でも諸説があるようです。大体、今から1万5000年前から3000年前までの頃、この国に住んでいた先住民でもある、「縄文人」と言われる人たちの文化を定義するようではあります。その頃の遺跡から出土する縄模様の土器が有名です。その後、大陸から渡来したとされる弥生人による弥生文化にとって代わられます。
私は縄文遺跡に詳しいある人からこんな話も聞きました。
「縄文と弥生文化の違いは、何だと思われますか? 狩猟文化か、農耕文化かの違いに求める研究者も多いのですが、実は縄文遺跡からも農耕の痕跡が見つかることもあるのです。でも、決定的な違いは、弥生時代の遺跡からは、人々が闘いで傷ついたことを示す人骨が多く見つかります。しかし、縄文遺跡からは皆無と言っていいほど見つかりません」
「領土争いが部族の闘い・戦争に発展するのは確かでしょう。でも、縄文遺跡からも農耕の跡が見つかる以上、縄文時代にも農地をめぐる陣地争いはあったはずです。でも戦争の跡がないと言うことは、縄文人は本来温和で、領土を巡り戦争することを知らない民族ではなかったかと思うのです」
◆サルの対極にある人類
縄文人がこの国でのびのび生きていた時代、エジプトや中国文明が隆盛を極めていました。確かに文明史的には、東の端のこの国は「文化果つる地」との位置づけなのでしょう。
でも、サルから受け継いだ闘争本能丸出しに、壮絶な戦いを繰り広げる「文明人」が、本当に「進化した人類」なのでしょうか。それに比べ、闘争本能をほとんど持たず、サルの習性から最も離れた縄文人こそ、実は「最も進化した人類」と言えるのではないか。私はこの人の話を聞いてそう思ったのです。
もちろん、これは、文科人類学など勉強したことのない、ど素人である1新聞記者の勝手な思い込みかも知れません。この国の先住民である縄文人が、「全く闘わなかった人達」かどうかは異論のある研究者もおられるでしょう。東北大学などには、「東北学」なる縄文文化を研究する人たちもおられますが、縄文人・縄文文化は、この国の中でもっと研究され、私の直感が当たっているかどうか、掘り下げていって欲しいテーマです。
私の故郷の京都は、大陸から渡来した征服民族である「弥生人千年の都」です。その京都や今の支配者が集う東京からは、なかなかこうした視点から見ない、見えないと言うことが影響しているのかも知れません。でも、縄文人の心で、この国を逆転的に見てみると、いろいろ理解出来ることも多いのです。
例えば、この国の建国史である古事記、日本書紀が諸外国の征服史に比べ、はるかに壮絶な戦いの記述が少ないのは、何故でしょうか。こうした縄文人に性格によるものではないかと考えると、辻褄が合います。
最新のDNA解析では、日本人は縄文人と弥生人の混血であるそうです。心優しきこの国の先住民は、大陸から渡来した闘い好きの弥生人に追われるように東北に追いやられて行ったのは確かでしょう。
でも、日本各地では闘い、抵抗よりも、むしろ征服者との和合を選んだ縄文人が多かつたのかも知れません。その中でしっかりそのDNAを日本人の血の中に残して行ったのでしょう。
「和の心」、「おもてなし」「日本料理」……。最初は大陸文化の模倣でも、そのうち異質の「わび・さび」の日本独特の繊細で、心和む優しい文化がこの国で育って行ったのも、日本人が弥生人だけでなく、縄文人のDNAを受け継いでいたからと思うと合点がいきます。
中国以上に優秀なテクノロジーがこの国に育ったことを考えれば、縄文人のDNAは世界に誇れるほど、優秀だった証左かも知れません。私は、さすが「サルの対極にある人類」と、縄文人に拍手喝采したい気持ちです。
◆?日本の果たすべき役割
3・11の大震災。東北地方は、筆舌に尽くしがたい未曾有の被害に遭いました。そんな悲しみ、苦しみの中でさえ、この地方の被災者は秩序や礼儀を失わず、じっと耐えられました。
その姿を見て、中国の人たちは驚き、尊敬の念さえ持ったとの報道もありました。「とても中国ではそうはいかない」と改めて日本・日本人を見直したのも、実は東北人には、中国人にない縄文人の血が色濃く残っていることと無縁でなかったのかも知れません。
闘争本能むき出しに、中国に対し威勢のいい発言をする人たちもいます。国の交戦権を否定する「9条」の見直し、「日本人の誇りを取り戻せ」と、日本の自主独立、「普通の国」にしようと唱える人たちと重なります。
でも、そんな人たちは失礼ながら、弥生人、つまり大陸からの渡来人の闘争本能を受け継いでいる人たちかも知れません。大陸人のDNAを色濃く持つ人たちが、そのルーツでもある大陸の人たちと罵り合う構図……。そう言うと言い過ぎでしょうか。少なくとも私には、同じ発想力・価値観を持つ人たちが争っても、人類史に進歩をもたらすとは、思えません。
改めて憲法前文をここに再録しておきましょう。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」
まさにこの心・理想こそ、縄文人のものではないのでしょうか。ますます不安定化する東アジアにあって、日本の果たす役割は大きく、独自性を発揮すべき時ではあります。でも、中国と同じ次元、価値観のまま、お互い激しい言葉をぶつけ合い、力の論理で対決しても、「名誉ある地位」を占めることにはならないと、私は思います。
私はこの欄・憲法論の初回で書いた、「平和外交を進めたことがないこの国」をもう一度、読み返して戴きたいと思います。「諸国民の公正と信義に信頼」する「決意」をしたはずのこの国であるなら、官僚は利権にまみれず、縄文人の心に応える「平和外交」を展開すべきだったのです。
日本がそれを戦後、真っ当に実行していたなら、「平和を愛する諸国民」も「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想」を追う、日本人の姿を理解し、信頼が高まっていたはずです。万一、日本が侵略されることがあるなら、「そんな日本人を窮地に陥れてはならない」と、「公正と信義」により、日本を支持してくれる土壌が国際社会に生まれていたのではないでしょうか。
私は、「9条」を改正し、「普通の国」になることで、この国が東アジア、ひいては世界の中でこの国が存在感を示せるようになるとは、とても思えません。人類史の中でも類まれな「縄文人」。その心、DNAに依拠し、世界に広げてこそ、憲法の理想を体現することになるのではないでしょうか。
それは、日本人が縄文人のDNAを持つから成しうることであり、それが出来る唯一の資格・能力がある民族であると思えるのです。それはまた、征服史の中でも希望を捨てず、そのDNAをしたたかに残して来た、私たちの半分の祖先・縄文人に、私たちの世代が報い得る唯一の道でもあると考えています。
≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)
フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」(東京図書出版)著者。