1. 公正・公平性を失った司法、監視出来ない司法記者の劣化

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2012年11月21日 (水曜日)

公正・公平性を失った司法、監視出来ない司法記者の劣化

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)

前回この欄で、「言論・報道の自由」を脅かす黒薮VS読売訴訟最高裁逆転判決の危険性を書いた。ツイッターでも議論し、多くの方々から反響が寄せられた。人々が検察以上に今の裁判所の公正・公平性に不信の念を強め、ごく当たり前の人々の思いにさえ耳を傾けようとしない裁判官に、いかに不満を溜めこんでいるかの証しだろう。

それは、権力の手先になってしまった裁判官の監視を怠り、司法への市民のフラストレーションを吸収出来ないでいる司法記者・既成メディアの劣化の裏返しでもある。

◆裁判官の監視役は司法記者のはず

震災以来、多くの既成メディアが、本当のことを実は何も伝えていないことが改めて明らかになった。その中で、記者クラブに安住する記者が束になってもかなわないくらい、原発事故の裏でその時何が起きていたか、多くの事実をネットで報道するなど幅広く活躍しているのが、フリーランス記者の烏賀陽弘道氏だ。

実は烏賀陽氏は朝日の名古屋社会部時代、愛知県警キャップだった私と指揮下の警察記者の間柄で、一緒に仕事をした仲でもある。その彼も、黒薮哲哉氏と同様に、スラップ(恫喝)訴訟の標的になった一人だ。

こうした真面目なフリーの記者たちが、スラップ訴訟とそれに呼応し、「表現・報道の自由」を縛ろうとする裁判官により記者生命が脅かされれば、この国は本当のことが人々に何も伝わらない戦前同様の社会になってしまう。

今、裁判官の人事一つを見ても、いかに不公正で権力寄りになっているか。烏賀陽氏は、私とのツイッターでのやり取りでも、幾つもの具体例を挙げた。そのうえで、「裁判官は日本最後のノーチェックの絶対権力者」と語気を強めた。

私は「法律書丸覚えで、司法試験に通った輩に、世間常識や人々の苦しみが分かる訳がない。その輩を『ノーチェックの独裁者』にして、国の大事なことを判断させているのが、いかに恐ろしいことか。そろそろみんなが気付き、チェック方法を考えないと…」と応じた。

では、誰が今まで「ノーチェックの絶対権力者」を監視して来たのか。僭越な言い方かも知れないが、裁判が本当に公正・公平に審理されているか、不当な判決が出されていないかを取材し、報道する司法記者がその役割を果たして来たと、私は思っている。というより、裁判官はそれ以外に制度上もチェックのしようのない「絶対権力者」なのである。

◆「裁判官回り」や「弁護士回り」をする記者は少数

私は名古屋社会部時代、名古屋地裁・高裁を担当する2年の司法記者経験がある。昔の取材相手でもある弁護士に、私は最近、若い司法記者がその任務を果たしているのかを聞いてみた。

その人は「記者クラブにじっとしている記者が多くなり、裁判官や弁護士回りをしているのはほんの一握りではないか」と苦々しげに語った。「判決の解説原稿も少ない。載っても通り一遍。なるほどとうなづける記者の勉強の跡は見られない。

まして『不当判決』などと批判する解説には、ほとんどお目にかかったこともない。あれでは裁判報道ではなく、裁判所の広報だ。裁判官は記者を恐れなくなっている」との厳しい意見も付け加えた。

私が司法記者をしていたのは、1980年代。もう20年以上前の話だ。その頃の司法記者の日常を紹介しよう。

朝、裁判所の中にある司法記者クラブに着くと、その日の裁判日程の確認から始める。当日報じなければならない判決の「予定稿」は書いてある。言い渡し時間に変更がないかどうか確かめ、記事の出稿について、デスクとの打ち合わせを済ましておく。

判決文は難解で長い。判決が出てから読んで、おっとり刀で記事や解説を書き始めては、締め切りに間に合わない。「予定稿」とは、あらかじめ大体の判決内容を予想して記事の形にしておく原稿のことを指す。判決が出れば、その内容を確認して少々手直しすれば、そのまま記事として使えるからだ。

実は、司法記者にとってこの「予定稿」作りが勝負所なのだ。判決が正確に予想出来ていれば、簡単な手直しで済む。他社の記者より早く記事を出せるし、記事・解説原稿の中身も濃くなる。そのための準備作業こそ重要だ。

まず、訴訟当事者の弁護士に取材。訴状だけでなく、原告・被告双方の主張が書かれている準備書面や提出証拠のコピーをもらい、法廷での争点を聞く。記者クラブに戻り、これまでの判例を調べ、裁判官が争点に対してどのような判断をするのか、幾つかの判決予想をしてみる。

もちろん、司法記者と言えども法律のプロではない。もう一度、弁護士を訪ね、再取材する。もらった資料に基づいて自習した範囲での判決予想のパターンでいいのかどうか、確認を兼ねて話を聞くと、大体、判決パターンは分かる。住民の権利を重視する裁判官なら、こんな判決。国家権力の意向に沿う人なら、こんな判断をするだろうということも、想像出来るようになる。

◆裁判官の悩みを共有する

記者の仕事は、「権力監視」である。住民・国民の権利を踏みにじるような不当な判決が出れば、もちろん判決を批判する解説記事は不可欠だ。

でも、情緒的な批判記事は何の説得力ない。「これまでの判例に沿っても住民の権利を認める判決も書けたのに、敢えてこの裁判官は、その立場を取らず、国に有利な判断を下した」などと言う解説を書くには、こうしたきちんとした勉強の成果が必要になる。

それと私は、時間が許す限り、原告の人たちを直接訪ね、話を聞くように努めた。法廷は何も法律のプロたちによる単なる無機質な法律論議の場であってはならないからだ。

一般の人々が、多額の費用をかけて訴訟を起こそうと言うのは、並大抵の覚悟ではない。やむにやまれず、裁判での解決に一縷の望みを託す人々の思いはどんなものか。

裁判所と市井の人々をつなぐのが司法記者なら、裁判官が本当にそんな人々の声に真剣に耳を傾けて来たか。その思いを聞くことが、記者にとって最も大事なことなのだ。もちろん、そうした人々の願いが裁判官に通じたかどうかは、判決当日の社会面の記事になる。

だが、そこまでは私たちの時代の司法記者なら当たり前にやっていたことだ。問題はそこから先である。つまり、夜、自宅に戻った裁判官を訪ね、判決の感触をどうつかむか、「夜回り」をしているかどうかなのだ。

私は朝日の定年前、「最近の若い記者は裁判官の夜回りをしているのか」と後輩に聞いたことがある。「吉竹さんの頃はまだ裁判官が夜回りを受けてくれたから出来たでしょう。でも今は、ほとんど裁判官は受け付けないから、行くような司法記者はまずいないのでは…」との答えだった。

ただ、昔もそう簡単に裁判官は記者を自宅に招き入れてはくれなかった。何度も通ううち、玄関先で何とか話せるようになる。記者が前述の通り、裁判の流れ、争点・判例などを把握して解説記事も用意していると聞くと、裁判官なら自分の判決が当日、記事でどう書かれ、どのように評価されるか気になる。

家に招き入れても、判決記事を書く記者の話も聞いて、自分の思い・正当性も伝えておきたい。そんな思いがあったからこそ、裁判官は私を家に入れ、話をしてくれたのだと思っている。

判決内容を漏らしてくれなくても、二人で話をしていれば、ざっくばらんな裁判談義に発展することもある。たまには酒も出る。何も杓子ばって、「権力監視」などと言わなくてもいいのだ。記者の持っている世間感覚も裁判官に自然に伝わるし、人々の思いを法と枠内で判断しなければならない裁判官の心の痛みを感じることが出来る。

そんな夜回りの成果で、記者は裁判官の悩みも分かったうえでの解説記事を書く。裁判官も世間の目がどんなものか、自ずと分り、人々の心とあまりにもかけ離れた判決は書かなくなる。それが記者のしていた「判決・裁判官監視」だったのだ。

◆判決を公開して市民による監視を

「裁判官の独立」は建前。裁判官が一番怖いのは、人事権を持つ最高裁であることは間違いないだろう。でも、世間体を気にするから、判決評価を書く司法記者も実は怖い存在であった。

つまり昔、裁判官は権力の意向を受けた最高裁の目と、記者の監視による世間の論理との微妙なバランス感覚で判決を書いていたと言えるだろう。でも、司法記者が夜回りをしなくなっている。

記者クラブにいて、判決が出てから、それを書き写すだけの記事を出しているようでは、裁判官は記者を恐れる存在と見ない。人事権を持つ最高裁だけを気にするヒラメ裁判官の判決が、権力寄りになるのは当たり前のことではないかと、私には思えるのだ。

司法記者が裁判官監視の役割を放棄している今、烏賀陽氏は、「裁判官のようなガリ勉あがりは、名前と仕事結果が公開されるのを一番嫌がる」として、不当判決を下した裁判官に「鬼畜判決大賞」を出したり、「裁判官データベース」「裁判官ウオッチ」「裁判官ミシュラン」「裁判官閻魔帳」などのサイトで、具体的に判決を公開して、市民の監視を強めていく方法を提案している。

私も同感、大賛成だが、そうしなければならない司法と司法記者の現状を悲しく思うのだ。

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)

フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える『報道弾圧』(東京図書出版)著者。

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