1. 公共放送のあり方を問う、NHKが高校野球を連日報道、露骨なスポーツの政治利用

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2017年08月25日 (金曜日)

公共放送のあり方を問う、NHKが高校野球を連日報道、露骨なスポーツの政治利用

夏の全国高校野球が、23日、花咲徳栄高校の優勝で終わった。

筆者は毎年、夏の甲子園が始まるたびに、NHKが全試合を中継していることに違和感を持ってきた。全試合だから、日によっては朝の8時から、ナイターにまで及ぶこともある。

野球が好きな人にとっては、ありがたい番組編成だろうが、野球に関心がない人は、公共放送のあり方に疑問を感じるのではないだろうか。おなじ事がゴルフやゲートボールでやられたら、その異常さがもっとはっきりするだろう。

公共放送としては異常である。

しかし、スポーツの政治利用という観点から、この問題を考えると、それなりの意図を読みとれる。

◇教育現場に根付いている観念論

筆者は高校時代の異様な光景を思い出す。野球部が奇妙な儀式をしていたのだ。練習が終わると、全員がグランドに正座して、まぶたを閉じ、天を仰ぎ、怒鳴りつけるような大声で呪文を唱えるのだ。あまりにも大声で早口なので、冒頭の「ひとつ・・」という部分を除いて何を言っているのか全く分からない。

留学生が、この「日本文化」を見て、びっくり仰天していた。

高校野球に洗脳はつきものだ。聞くところによると、呪文を唱える儀式を強制しているのは、筆者の出身校だけではないようだ。

球児たちは、全員が坊主頭。球場を去るときには、グランドへ向かって深々と一礼する。自分を鍛えてくれた場所に感謝の念を示す意味があるそうだ。この儀式も野球部の部長なり監督が、球児に強制しているものだ。

スポーツを通じた精神教育の何が問題なのだろうか。結論を先に言えば、球児たちがみずから育んでいく世界観が、観念論の哲学に汚染されてしまうことである。観念論というのは端的に言えば、心がけをよくすれば夢は実現できるという誤った考えである。逆説的にいえば、幸福になるためには、社会を構成する人間ひとりひとりが心がけをよくすることが大事という考えである。

笹川良一氏の「人類みな兄弟、一日一善」という哲学である。

この思想は、第1次安倍政権の時代、首相が提唱していた「美しい国」づくりのコンセプトとも共通している。かつて中央教育審議会が打ち出した「(経営者から)期待される人間像」の思想とも同じ系列だ。現在、義務教育の中に組み込まれている「道徳教育」とも、哲学上のルーツは同じだ。

もちろん、心がけをよくすることが無意味というわけではない。誰も否定できないほど、大事なことである。が、誰も否定できないからこそ、逆説的に見れば、批判の余地がなく、盲点になるのだ。スポーツジャーナリズムも指摘しないのである。

しかし、果たして心の向上だけで本当に人間は幸福になれるのだろうか。社会は改善されるだろうか。結論を先にいえば、心がけは二次的なものにすぎない。一次的なものは、別にある。

たとえば高齢者に対して優しく接してあげれば、高齢者は幸福になれるのだろうか。答えは否である。高齢者を幸福にするには、まず、医療の切り捨てを止めなければならない。老人ホームの質も上げなければならない。客観的に生活環境を変えることが一次的な対策なのだ。

今、日本の教育現場で行われている道徳教育は、野球部による呪文も含めて、心がけが立派な「愚民」を多量に生産するための国策といっても過言ではない。心がけがよく、目上の人には従順で、自分の意見は言わない。こうした人間を多量に「生産」しているのだ。

NHKが高校野球を重視する背景には、観念論による国民の洗脳という意図があることは間違いない。東京オリンピックへ向けて、スポーツの政治利用、観念論による洗脳は、野球以外の種目へも広がるだろう。