1. スポーツ現場のパワハラ報道、背景に東京五輪を意識した公権力の意図

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スポーツ現場のパワハラ報道、背景に東京五輪を意識した公権力の意図

このところスポーツ現場におけるパワハラ問題が次々と報道されている。女子レスリング、ボクシング、体操、野球、陸上競技、そしてウエイトリフティング。こんな現象は、スポーツジャーナリズム史上かつてなかった?

が、パワハラの問題は、今にはじまったことではない。昔からあった。筆者が高校生だった1976年ごろは、スポーツにパワハラはつきもので、国士舘大学を卒業したばかりの柔道部の教員が、椅子を振り回して、それが生徒の側頭部に命中し、口角から血を流しながら、ほうほうのていで床を滑るように逃げる事件もあった。新任教員はさすがに職員会議で注意されたそうだが、特に大きな問題にはならなかった。

 体育と暴力が結びついた悪しき構図が、日本のスポーツ界にはびこり、現在でも完全にはなくなっていない。それゆえにパワハラが報じられるようになったのは、歓迎すべきことだ。

しかし、パワハラ批判の報道の背景にある構図を想像すると、釈然としないものを感じる。オリンピックを前にして、政治的な力が働き、それにメディアが協力している構図である可能性が高いからだ。

おそらく東京オリンピックを前に、スポーツ界から不祥事を一掃することで、日本の国際的な信用を高めようという意図があるのだろう。オリンピック成功のための準備である。だから必ずしもメディアが問題意識を持ち、自主的にパワハラを報じはじめた結果ではないだろう。

一方、視聴者の側は、これまでメディアがパワハラをあまり報じなかったために、最近パワハラが横行しているように錯覚しているだけの話である。

メディアの独立性ということを考えると、パワハラ報道を喜んでばかりもいられない。だれが日本のメディアを支配しているのかを、オリンピックを前に改めて見せつけられた。

生活保護制度の運用を抑制したいときは、メディアが生活保護を受けている人々の不祥事を盛んに報じる。安保関連法案を成立させたいときには、中国や朝鮮の脅威論をメディアを通じて拡散する。日本の大半のメディアは権力構造の歯車に組み込まれ、その中で広報活動をしているに過ぎない。

そういう力学が働いているのである。

何を報じ、何を報じないかは、各メディアの自由だ。それが編集権である。その編集権をどう行使するかで、メディアの性格が決まるわけだが、NHKを筆頭にだれが編集権を握っているのかよく分からないメディアが多い。

パワハラ報道は画期的であると同時に、日本特有のメディアの構図を典型的に露呈している。