1. 東京地裁103号法廷の一事件、差別意識のある裁判官に公正・中立な裁判はできるのか?

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2015年11月23日 (月曜日)

東京地裁103号法廷の一事件、差別意識のある裁判官に公正・中立な裁判はできるのか?

裁判官の資質について考える機会があった。改めて言うまでもなく機会とは、18日に判決が言い渡された特定秘密保護法違憲訴訟の法廷で、谷口豊裁判長が記者クラブに対しては、判決の言い渡し前に2分間の撮影を許可したが、フリーランスのフォトジャーナリストに対してはそれを認めず、しかも、その理由説明を回避した事件のことである。

既に述べたように、18日の判決法廷では、原告のフリージャーナリストの1人が突然に立ち上がり、谷口裁判長に対してフリーランスに対しては、撮影を許可しない理由の説明を求めた。

これに対して谷口裁判長は、判決後にその理由を説明することを約束した。しかし、これに納得せず、5,6名の原告が抗議の退廷を行った。

わたしは谷口裁判長は、忠実に約束を守るものと思っていた。しかし、理由を説明することはなかった。

原告が不穏当な行動を取ったというのが前言を翻し、説明を拒否した理由らしい。しかし、質問したり、退廷する行為は原告の正当な権利である。それを理由に、約束を破ってもいいことにはならない。

今回の谷口裁判長の姿勢は、裁判官の資質を評価する大事な指標になる。裁判では裁判官に中立・公平さが求められる。法廷に立つ人々は、たいてい裁判官は中立・公正な姿勢を守りながら係争を裁くものと考えている。このようなイメージが消えると、裁判所の存在価値そのものがなくなってしまう。軍事法廷が民主主義の国で受け入れられないのは、裁判官そのものが中立の立場ではないことをが周知になっているからにほかならない。

今回、谷口裁判長が起こした差別事件を通じて、当然、わたしは谷口氏の裁判官としての資質を疑わぜるを得ない。そして特定秘密保護法違憲訴訟において谷口裁判長は、そもそも訴訟が始まった時点で、すでに国側を勝訴させることを決めていたのではないかと勘ぐる。

原告と被告の双方が提出した膨大な量の紙面を熟読したうえで、どちらの主張が正しいかを判断したのではなく、訴訟の初めから結論を決めていたのではないかを考えざるを得ない。法廷撮影をめぐる露骨な差別を通じて、わたしはそんなふうに考えるようになった。少なくとも、裁判官にとって最も大事な中立・公正の意識が欠落しているようだ。

谷口裁判長が最初から、国を勝訴せることを決めていたとすれば、1年半に渡った審理は一体何だったのか? これほど原告をバカにした話はないだろう。

国が裁判官に高給を支払い、人を裁くただならぬ特権を与えている前提には、中立・公正は裁判の遂行よりも、別の目的があるのではないか。が、今回の差別事件で、日本の裁判官の質が見えてきた。

◇判決法廷の中継が不可欠

ちなみにすでに法廷での審理や判決を実況中継している国もある。中米のグアテマラである。次に示すのは、米国の独立系テレビ局「Democracy Now! 」が放映した画像で、1980年代の初頭に先住民族に対してジェノサイド(大量虐殺)を断行した元将軍で元大統領・リオス・モントが禁固80年の判決を受ける場面を記録した動画である。

 

■日本語版

現在の日本では、判決の瞬間を画像で記録することは禁じられている。グアテマラよりもはるかに遅れている。