1. 対読売の損害賠償裁判(福岡高裁)敗訴について、論理が破綻している木村元昭裁判長の判決

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2013年03月19日 (火曜日)

対読売の損害賠償裁判(福岡高裁)敗訴について、論理が破綻している木村元昭裁判長の判決

読売がわたしに対して提起した3件の裁判(請求額は約8000万円)が、「一連一体」の言論弾圧にあたるとして、わたしが読売と江崎氏を相手に起こした裁判の控訴審判決が15日、福岡高裁であった。木村元昭裁判長は、わたしの控訴を棄却した。

このニュースはすでに読売新聞が次のように報じている。

(略)  読売新聞側は、黒薮氏が2007年12月から09年6月にかけて西部本社からの抗議文書を自身のサイトに無断掲載したり、読売新聞が販売店に余分な部数の新聞を押しつけて不正収入を得ているかのような記事を週刊誌に掲載したりしたことなどを理由に、仮処分申し立てや名誉毀損(きそん)訴訟など4件の裁判を起こした。??

? 訴訟で、黒薮氏は、こうした一連の裁判が言論抑圧を目的とした不当な裁判だと主張し、読売側は「権利を侵害されてやむを得ず提起したもの」と反論していた。判決は、4件の裁判を個別に検討した上で、「個々の裁判に違法性は認められず、一連の提訴などの行為により不法行為が成立することはない」と判断、黒薮氏側の主張をすべて退けた。(略)

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この判決については、後日、詳細な見解を発表する予定にしているが、この場では、1点に絞って判決後の率直な感想を述べてみたい。

◇著作者人格権を根拠にしたが

控訴審の争点は、読売が起こした3件の裁判(仮処分申立を含めると4件)のうち著作権裁判の判決内容をどう評価するかという点だった。著作権裁判は、江崎が仮処分申立に続いて、2008年2月に起こしたものである。江崎氏は、わたしが新聞販売黒書(現在のメディア黒書)に掲載した催告書(江崎氏がEメールで送付したもので、新聞販売黒書にわたしが掲載した江崎氏作成のビジネス文書の削除を求めたもの)を削除するように求めて裁判を起こしたのである。

江崎氏が主張の根拠としたのは、著作者人格権だった。

【著作者人格権】

著作者人格権は、著作者だけが持っている権利で、譲渡したり、相続したりすることはできません(一身専属権)。この権利は著作者の死亡によって消滅しますが、著作者の死後も一定の範囲で守られることになっています。

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つまり著作物を作成した本人だけが有する権利である。従って著作者人格権を主張する場合は、自分が作成した文章であることが大前提になる。

その著作者人格権に基づいて江崎氏は、自分が作成した催告書を無断で新聞販売黒書に掲載することは違法行為に該当すると主張したのである。

ところが裁判の中でその大前提が崩壊する。催告書の作成者が、江崎氏ではないことが認定されたのだ。東京地裁は、催告書の作成者は、喜田村洋一自由人権協会代表理事か、彼の事務所スタッフの可能性がきわめて強いと認定したのである。少なくとも江崎氏が作成したものではないと判断したのである。

知財高裁も最高裁も下級審の判決を認定した。

つまり江崎氏はそもそも著作者人格権を根拠として、裁判を起こす資格がなかったのに、催告書は自分が作成したという虚偽を前提に裁判を起こしたのである。わたしが、恫喝裁判であると主張している根拠のひとつである。

◇  論理が破綻した木村判決

常識的に考えれば、ウソを前提にしてわたしを裁判にかけたわけだから、そのウソが裁判の中で認定されれば、当然、損害賠償を請求されても仕方がない。 極めて悪質なうえに、裁判が引き金となり、経済的な損害を被ったからだ。

たとえば2008年に予定していたニカラグア取材をキャンセルした。これだけでも新聞社の社員によるフリーランス・ライターに対する言論妨害である。また、わたしを支援してくれた弁護団にも経済的な負担をかけてしまった。

ところが木村裁判長は、あえて江崎氏を救済したのである。判決文を注意深く読めば、読者は[ウ]の部分と「エ」の部分に著しい論理の飛躍があることに気付くだろう。

ウ)ところで、著作者とは、著作物を創作する者をいい、作成に当たり事実行為のみをしたのか、創作した者といえるかといった評価や、複数の者が作成に関与した場合に共同著作や職務著作が問題になり得る。

 また、著作物とは、思想又は感情を創作的に表現したものであるが(著作権法2条1項1号)、その要件については一般に広義に解されており、創作性についても、厳格な意味で創造性が発揮されることは必要ではなく、記述者の個性がなんらかの形で現れていればそれで十分と考えられている。近年、様々な言語著作物について著作物性が主張される中、具体的事案の判断では、ありふれた表現であることを理由に著作物性が否定されることがあるが、著作物性が弱い場合にデットコピーかそれに近い態様の侵害については侵害行為の差止め等を認める見解もある。

エ)以上からすると、本件催告書は、その作成過程から作成者を一義的に決することは困難であったということができる。そして、被控訴人江崎が、同人の考えが入っており、同人の作成名義にかかる文書を送付したことからすると、被控訴人江崎が著作者となり得ると考えたとしていも、本件著作権仮処分命令の申立てを行う段階では、やむを得なかったといわなければならない。

「ウ」で木村裁判長は、著作物をめぐる判断がいかに複雑であるかを記している。それを前提として「エ」で、「被控訴人江崎が著作者となり得ると考えたとしていも、本件著作権仮処分命令の申立てを行う段階では、やむを得なかった」と江崎氏の立場に理解を示しているのだ。

つまり江崎氏は誤解していたが、それは著作権問題の複雑さを考慮すれば、やむを得なかったと言っているのだ。  こうしてあえて江崎氏を救済したのである。「知らなかった」から、不法行為にはなりえないということらしい。

しかし、既に述べたように「ウ」と「エ」の間には、著しい論理の飛躍がある。

まず、「ウ」では、著作権問題には共同著作や職務著作が問題になることがある旨を明記している。しかし、催告書の作成者が江崎氏以外の人物であることは、前訴にあたる著作権裁判の中で認定された事柄である。すでに決着がついている。

次に木村裁判長は、著作物性を判断する複雑さに言及している。しかし、争点になっているのは、催告書に著作物性があるか否かではない。催告書の作成者はだれかという問題である。著作物性を見極めるための法的な指標と、だれが作者であるかという問題は何の関係もない。まったく関係のない事柄を強引に関連ずけて、著作権問題の複雑さを印象づけ、あたかもそれゆえに江崎氏が誤解したかのように記述しているのだ。論理が破たんしてることは言うまでもない。

それに喜田村弁護士が、催告書の執筆を含めて一連の訴訟手続きをしていながら、江崎氏が勘違いしたというものもおかしな話だ。

◇住民運動も視野に

2011年3月15日を境に、一連の対読売裁判は大きな変化があった。3月15日よりも以前は、真村氏もわたしも読売に全勝していた。真村氏は確か7連勝、わたしは5連勝。が、この日を境に全敗に転じた。勝っていた裁判まで、最高裁で逆転させる決定が下された。

真村氏に至っては、自宅の仮差し押さえにより、全財産を失う危機に直面させれている。(読売が支払っていた間接強制金の返済を求められている)

わたしは、今後、なるべく多くの法律家に対読売裁判の判決を読んでもらおうと考えている。木村裁判長の判決が、本当に公正中立な立場で書かれているのかを、広範な意見を聞きながら、検証する必要があるからだ。

公正中立な立場から判決を書かない判事は、司法界を去るべきだろう。そのための住民運動も視野に入れている。

また、裁判所と司法記者クラブの関係、裁判所と政界の関係についても、情報公開を求めるなどして解明していきたい。

◇新聞の危機と偽装部数

なお、木村裁判長がいかにデタラメな判決を下してきたかについては、『新聞の危機と偽装部数』(花伝社)の第6章、「人権問題としての真村裁判」で詳しく述べている。