1. 将来の福祉はボランティアが担う?国は責任を放棄、必然的な新自由主義の政策

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2019年09月17日 (火曜日)

将来の福祉はボランティアが担う?国は責任を放棄、必然的な新自由主義の政策

2013年9月、東京オリンピックの開催が決まったのち、マスコミがボランティア活動をさかんに奨励するようになった。オリンピックのボランティアはいうまでもなく、災害が起きるたびに、ボランティアの人々の支援活動を報じるようになった。2018年には、全国の被災地に姿を現わす尾畠春夫さんを「スーパーボランティア」と呼んで、善行の模範のように宣伝した。

ボランティア活動そのものは、善意に基づいた支援であるから、奨励されて当然である。ところがこまったことに、ボランティア活動が盛んになるにつれて、政府や地方自治体の対応がどんどん鈍くなっていることだ。子育てにたとえるなら、「育児放棄」の状態に陥っている。

本来、中央政府や地方自治体が、災害復興のイニシアチブを取るべきなのだが、その怠慢ぶりは目にあまる。千葉県南部では、いまだに電気が普及していない地域がある。福島でもいまだに生活の再建の目途が立たない人々がいる。
中国などは、災害が起きてもあっという間に復興してしまうのだが。日本政府のスピード感のなさを中国人は不思議に感じているようだ。

◆高齢者の貧困に対してもボランティア活動
わたしはボランティア活動の奨励は、新自由主義に基づいた政策以外のなにものでもないと考えている。福祉や医療に国費を投入することは控え、これらの活動を市場原理(民間)に乗せて、解決しようという思想の延長なのだ。

障害者などの社会的弱者に対しても国が支援するのではなく、ボランティアの力を借りる方向性が見え始めている。しかも、この方向性は、将来的には高齢者の貧困問題に対しても、適用されるのではないか。国や自治体が、本来の役割を放棄して、ボランティアにそれを丸投げするかたちになるだろう。しかし、当然、限界がある。

と、いうのもボランティア活動は自分に経済的な余裕があるからこそできるのだ。自分自身の生活が追い詰められたとき、ボランティアは成立しない。従って、政策としてのボランティアの奨励は間違っている。2000万円の貯蓄がなければ、老後を生きられない時代では、ボランティアが成立する余地はない。

◆小沢氏の自己責任論
1993年に小沢一郎氏が、政治改革と新自由主義を掲げて政治の表舞台に登場した。小沢氏の著書『日本改造計画』の中で、小沢氏は自己責任論を展開している。これは、当時の財界の要望でもあった。実際、小沢氏は財界に支援されて、小選挙区制を導入し、2つの保守党による政権交代可能な体制を構築した。

この制度を逆手に取って、自民党は小泉首相の時代から急進的な新自由主義の導入を進めたのである。その結果、格差が広がり、教育も医療も福祉も切り捨てられた。そしてその弊害を少しでも是正する部隊として、ボランティアが登場したのである。

国民は高い税金を支払っている。逆説的にいえば、必要なときに生活支援を受けるために、税金を支払っているのである。ところが、被災すれば、ボランティアが中心になって動くようになり、復興もほとんど自己責任で進めるようになっている。。

日本はどこで進路を誤ったのか。改めていうまでもなく、1993年、小沢一郎氏が登場した時期である。「オザシン(小沢信者)」や共産党は、小沢一郎氏がどのような人物なのか再検証する必要があるのではないか。