故意に「差別者」をつくる愚、表現の自由をめぐる部落解放同盟との論争
(本稿は、『紙の爆弾』(12月号)からの転載である。)
言論・表現にかかわる事件の行方は、文筆を仕事とする者にとっては職業の生死にかかわる。
菅義偉内閣が誕生してのち、言論と差別にかかわる2つの事件が浮上した。ひとつは首相が、日本学術会議の会員候補6人の任命を拒否した件である。もうひとつは、自民党の杉田水脈議員が、「女性はいくらでもウソをつける」と発言したとされる件である。杉田議員は「差別者」として、Change.org上で13万人から糾弾され、野党からは辞職要求を突きつけられた。後述するように、この事件はなぜか自民党サイドが報道機関にリークして、発覚させた経緯がある。
ここ数年、言論や表現に対する視線が厳しくなっている。国会で閣僚が言葉を滑らせて、野党から謝罪を要求される事件が続発し、もはや予定原稿なしに言葉を発することが議員生命を危うくしかねない状況が生まれている。国会ではヘイトスピーチ規制法が成立し、川崎市では、それに連動して差別的な表現に刑事罰を課す条例が全会一致で可決した。
こうした時代に、今度はルポライター・昼間たかし氏が『紙の爆弾』誌上で使った「士農工商ルポライター家業」という表現が、論争のリングに上がろうとしている。
部落解放同盟は、これまでも「士農工商」の後に職業をつけたレトリック(修飾方法)に対して繰り返し苦言を呈してきた。 たとえば筒井康隆氏による「士農工商SF屋」という表現である。阿久悠糾による「士農工商(注:広告)代理店」という表現である。さらに『差別用語を見直す』(江上茂著、花伝社)によると、芸能人、印刷屋、予備校生、アナウンサー、AB型、お笑い屋、百貨店、研究所、編集者などの例があるという。
部落解放同盟は、このレトリックが差別を助長するという考えに立って『紙の爆弾』に釈明を求めてきたのである。
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わたしは「士農工商」の後に職業を付けるレトリックは、筒井氏や電通のケースも含めて「差別を助長」する表現には当たらないと考えている。
昼間氏のケースで言えば、差別表現ではないことを説明する2つの論点がある。江戸時代や明治時代などの差別政策に対して、現在社会がどのような歴史的評価を定めているかという点と、昼間氏がどのような文脈の中で、このレトリックを使ったのかという点である。
まず前者についていれば、江戸幕府など過去の差別政策が誤りであったとする評価に異論を唱えるひとはまずいない。この認識はすでに実生活の中に定着している。部落差別が完全に解消していなのは事実だが、少なくとも過去の政策が誤りであったとする認識を覆す世論が形成される余地はない。それが歴史の流れである。
従って「士農工商」に職業を加えたレトリックを使って、差別の理不尽さを比喩的に表現しても、それによって差別を助長する世論が形成させることはない。この論理を覆すためには、部落解放同盟は、差別助長した具体例を提示すべきだろう。
「士農工商ルポライター家業」というレトリックが、差別を助長する表現でないことは、全体の文脈からも読み取れる。
昼間氏は、ルポライターの悲惨な実態を、「襤褸をまといあばやら暮らしもおぼつかない。だから、請われれば書いて、いま追いかけているテーマの取材費の足しにする」と書いている。このような実態を強調するために、江戸時代の身分制度を引合いにだしたのである。文脈を理解すれば、昼間氏の意図は明快になる。
この程度の表現を差別と決めつけるのは、「差別者」の発掘が一次的な目的であると解されても仕方がない。
ただ、このレトリックがルポライターの惨状を表現する上で、最上の選択肢かといえば、疑問がある。使い古された陳腐なレトリックに過ぎない。だからといって、表現の自由を規制していいことにはならないが。
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冒頭で述べたように、このところ言論に対する告発が多発している。全体の文脈を無視して、特定の言葉を捉えは、「差別者」を作り出し、場合よってはネット上で集中砲火をあびせる現象である。本来、言語表現の評価は、発言者や執筆者の思想や属性とはかかわりなく、客観的に行わなければならないが、それとは反対の方向性が鮮明になっている。しかも、同調圧力が強く、話題が「差別」となると異論を唱えにくい空気がある。「差別=悪」の世論が形成されているからだ。
それを示す分かりやすい例としては、自民党の杉田議員が、自民党内部の会議の中で「女性はいくらでもうそをつけます」と発言したとされる問題と、その後の社会現象がある。
新聞・テレビの報道は、杉田氏がどのような文脈の中で、このような表現に及んだのかを報じていない。
それが原因で、大半の人が、この表現はすべての女性はうそをつける性質を有しているという事実を摘示した発言として受け止めている。
「事実の摘示」という解析は、名誉毀損裁判の法理として定着している。名誉を毀損する表現が、「事実を摘示」しているとして、法廷へ持ち込まれた場合、訴えた側(被告)は、争点の表現が真実であること、あるいは真実に相当することを反証しなければならない。さもなければ名誉毀損が認定される。しかし、争点の表現が意見の表明や評論であれば、一定の条件を満たした上で免責される。名誉毀損には当たらないと解される。つまり両者の違いを明確に区別しているのだ。
この原理を杉田議員の「差別発言」に当てはめてみると、新聞・テレビは杉田議員が、女性はひとりの例外なく嘘つきであるという事実を会議の席で摘示したと報じたことになる。だからこそ多くの女性が怒った。
しかし、杉田議員は、「差別発言」が発覚した直後に、「そんな発言はしていない」とコメントした。事実を摘示した発言ではなかったから、自分でも意外に感じて、「そんな発言はしていない」答えになったのだろう。
実際、杉田議員は、自身のブログの中で、市民団体の資金を横領した疑惑で逮捕された韓国の国会議員、尹美香(ユン・ミヒャン)氏を念頭において、「女性はいくらでもうそをつけます」と発言したと書いている。つまりメディアが発言の文脈を正確に報じていれば、問題となった発言は、女性の性質を摘示したものではく、尹美香議員の不正を念頭においた意見であったことが分かる。自民党のリークに応じた報道機関の責任は重い。
念を押すまでもなく、わたしは杉田氏の支援者でもなければ、自民党のシンパでもない。むしろ政権党が押し進めてきた特定秘密保護法や共謀罪法の導入など、言論の抑圧につながる政策には批判的な立場である。
しかし、「差別者」の属性がどうであろうと、発言内容を客観的に伝えることが、ジャーナリズムの基本原則である。正確に事実を確認した上で、それを前提に批判することは自由である。が、新聞・テレビは歪んだ報道で「差別者」と、それに反応する人々を多量に生み出したのである。
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昼間氏の「士農工商ルポライター家業」をめぐる問題の背景も、杉田議員の発言をめぐる問題の背景にも、わたしは故意に「差別者」を作り出そうという意図があるように感じる。それによって市民運動を活性化する戦略があるのではないか。それは政権党にとっても利益をもたらす。規制を強化して国民を監視・管理・指導する国策と共通する部分があるからだ。
実際、部落差別解消推進法やヘイトスピーチ解消法も、市民運動と連携した野党の「活躍」と、それに歩み寄った政権党の力で可決した経緯がある。市民運動には、公権力と利害が一致すれば暗黙の同盟関係を結ぶこともあるのだ。
この点を踏まえた上で、言論規制の是非を考えるべきだろう。規制をすれば、そのつけは国民全体に跳ね返ってくる。公権力は、そういう構図を仕組んでいるのである。だから杉田議員の発言をリークしたのだ。
まして部落解放同盟が指摘した昼間氏の「士農工商ルポライター家業」という表現は、事実の摘示でも意見の表明でもない。格差の実態を表現するためのレトリックである。言論規制を検討する対象にすらならない。
仮に部落解放同盟が今後、謝罪を求めるのであれば、誰に対して謝罪するのかを明確にすべきだろう。
この問題について、自由闊達な議論が深まることを切望する。