1. 森喜朗会長の失言、ワイドショーでも炎上、スピーチ原稿なしに発言できない堅苦しい時代に

ウェブマガジンに関連する記事

2021年02月05日 (金曜日)

森喜朗会長の失言、ワイドショーでも炎上、スピーチ原稿なしに発言できない堅苦しい時代に

東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長が、「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」などと発言したことが問題になっている。森会長は、4日、記者会見を開いて発言を謝罪した。国会では、立憲民主党の枝野幸男代表が、森会長の辞任を求めた。

国会議員が「不適切」な発言をして批判を受け、非を認めて謝罪する事件はこのところあとを断たない。しかも、謝罪に追い込まれる背景には、必ずメディアの追及がある。(この種の報道にはなぜか熱心だ。)

森会長の発言内容そのものに問題があることは異論がないだろう。しかし、特定の発言に対して、謝罪を求めたり、辞任を要求する社会風潮は過剰反応ではないか。長い目でみれば、言論統制への道を開いていくからだ。おそらく国民の99%は、謝罪するのは当たり前だと考えている。

それゆえに別の視点からこの問題を再考する余地もない。

◆◆
元々、話し言葉というものは自由闊達なものである。それゆえにスピーチや会話を聞けば、そのひとの人間性がかいま見える。

ところが社会通念に合致しない発言を「取り締まる」のが、あたりまえになってくると、公人はあらかじめ準備したスピーチ原稿なしに公の場で発言できなくなる。現在の国会における官僚や大臣の答弁がそれに近い。これでは発言者の内面が見えない。厳しい追及もできない。

◆◆
話し言葉の対極にあるのが、書き言葉である。書き言葉は、正確に誤解なく意味を伝達しなければならない。それゆえに文書類はなによりも重視されてきたのである。意味が曖昧だったり、論理が破綻していたりすれば公式の文書としては都合が悪い。

実際、文書類は話し言葉をそのまま「翻訳」したものとは、かなり色合いが異なる。

と、すれば失言は、原則として制裁の対象にはならないはずだ。それがむしろ常識ではないか。寛大に見る必要がある。まして失言した者に対して、辞任を求めるようなことはあってはいけない。

言論統制は、気が付かないうちに影のように広がっていく。それが認識できた時には、自分の意見を自由に表明できなくなっている可能性が高い。発言内容に暗黙の規定を設け、その範囲内でしか発言できなくなる。

自由闊達な話し言葉が死に絶えた時代は索漠とした荒野に等しい。取材も困難を極めるだろう。