1. チリの9・11から46年、多国籍企業の防衛と海外派兵・軍事介入を考える

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2019年09月12日 (木曜日)

チリの9・11から46年、多国籍企業の防衛と海外派兵・軍事介入を考える

「9.11」といえば、2001年に米国ニューヨークで起きた同時多発テロを連想する人が多い。日本のメディアも、18年前の悲劇を回想する記事を掲載している。一方、チリの「9.11」、軍事クーデターについては全く報じていない。少なくともわたしがインターネットで検索した限りでは、1件も発見できなかった。こちらは46年前の悲劇である。

ある事件がもつ意味は、個々人によって異なるわけだから、米国の同時多発テロをメディアが再検証して、チリの軍事クーデターについては再検証しない姿勢をとやかくいうつもりはない。わたしにとってはチリの「9.11」が、世界史の中の重用事件の上位に位置する。ラテンアメリカ諸国でも、わたしと同じ認識が一般的で、9月11日が近づくと、多くのメディアがチリの軍事クーデターを回想する。

チリでは11日、1973年の9月11日のラジオ放送を再現する企画が催された。主催したのは、Museo de la Memoria y los Derechos Humanos(注:「記憶と人権博物館」の意味)。ミシェル・バチェレ大統領の時代の2010年に、チリの軍事クーデターの記憶を後世へ遺すために設けられた博物館である。バチェレ大統領の父親も、軍事政権の時代に投獄され、拷問死している。バチェレ大統領自身も元亡命者である。

チリの人々にとって、あの事件はまだ終わっていないのだ。実際、未だに行方不明の人もいる。広島の人々が8月6日になると原爆の閃光を思い出すように、チリの人々は46年前の軍事クーデターの日を記憶している。

皮肉なことに、チリの軍事クーデターは、米国政府とは何かという問題を提起してくれる。グローバリゼーションを考える上で欠くことができない。

アジェンデ政権が成立したのは、1970年である。共産党、社会党、キリスト教民主党の連合政権で人民連合(UP)と呼ばれた。アジェンデは医師から政治家へ転じた経歴の持ち主である。

世界史の中での人民連合の評価は、歴史上はじめて選挙により社会主義を目指す政府を樹立したことである。それまで社会主義革命は、武力によるものとされていたのだ。当時のチリは、深刻な貧困が広がっていたとはいえ、南米の中では先進国だった。早くからイギリスの議会制民主主義を導入していて、政治制度も成熟していた。

アジェンデは、政権につくと米国資本の鉱山を国有化するなど、急進的な社会主義の方向を打ち出した。それが貧困や社会格差を是正する道だったからだろう。その政策は、一定の支持を集めたが、富裕層が激しく反発した。フライパンを叩いて、「チリにパンと自由を」と叫びながら行進する右派のデモが繰り返されたりした。米国は経済封鎖に踏みきり、資本家のよるストライキもはじまり、チリは混乱に陥る。

しかし、1993年の総選挙で、予想に反して、アジェンデ政権の与党が勝利した。この時点で、合法的にアジェンデ政権を倒せないことが明確になり、クーデターの動きが浮上してくるのである。

9月11日、クーデターの日の朝、陸軍のアウグスト・ピノチェト将軍が、アジェンデに対して、国外への亡命を提案した。そのための輸送機を準備するというのである。ピノチェトといえども、当初は、無血クーデターを狙ったのである。しかし、アジェンデはこれを拒否。その後、大統領官邸が空爆され、アジェンデは死亡した。

チリ全土にテロが広がり、歌手のビクトル・ハラやノーベル文学賞詩人のパブロ・ネルーダ(写真右上、右側の人物)も殺害された。ネルーダの死因は、最初は白血病による病死とされていたが、その後、毒殺の疑惑が浮上して、数年前には、墓を掘り返して、遺骨の調査も行われた。

 

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チリの軍事クーデターの背後に米国CIAがいたことは、既に歴史の事実として定着している。当時、米国によるラテンアメリカへの介入は、事実上、米国政府の国策として定着していて、チリへの介入以前にも、グアテマラやキューバに対する介入を試みている。当然、チリに対する軍事介入も当初から予測されていた。

改めて言うまでもなく、軍事介入の目的は、米国の多国籍企業の権益を守ることである。

グアテマラへの介入(1954年)の背景に、UFC(ユナイティド・フルーツ・カンパニー)など果実会社の権益があったのと同様に、チリの軍事クーデターの背景には、鉱山を経営する米国の多国籍企業の権益があったのだ。

チリには広大な砂漠が広がっているが、その地下には資源が眠っている。それがしばしば暴力を誘発してきた歴史がある。

 

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次に示すのが、米国によるラテンアメリカへの介入を示す年表である。

■1954年 グアテマラ

■1961年 キューバ

■1964年 ブラジル

■1965年 ドミニカ共和国

■1973年 チリ

■1979年 ニカラグア内戦

■1980年 エルサルバドル内戦

■1983年 グレナダ

■1989年 パナマ

【参考記事】安保関連法案の報道で何が隠されているのか?左派メディアも伝えない本質とは、多国籍企業の防衛作戦としての海外派兵、前例はラテンアメリカ

 

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チリの軍事クーデターから何を教訓とすべきなのだろうか。それは米軍の役割の再評価である。沖縄の米軍は、日本を守るために駐留しているというプロパガンダが広がっているが、チリの軍事クーデターをフィルターして見るとそうではない。アジア諸国に権益を持つ多国籍企業を政変から防衛するために駐留しているのである。

日本が米軍と行動を共にし始めたのも、日本の多国籍企業を防衛するためである。グローバリゼーションの中で、それが財界の要求になっているからだ。国際貢献というのは口実に過ぎない。

鳩山由紀夫には、沖縄の米軍基地を県外へ移設すると公約したにもかかわらず、それを断念した過去がある。その時、鳩山は、アジェンデと同じような選択肢を米国から突き付けられたのだ。鳩山は、提案を受け入れ、アジェンデは断ったのだ。それがそのままふたりの政治家の資質の違いである。

何が両者の違いを決定的にしたのか?それはおそらく階級の違いだろう。アジェンデは政治家になってから、アンデス山脈にある鉱山に何度も足を運び、鉱山労働者と膝をまじえて語り合った。だから最後まで、ファシストに屈しなかったのである。それに比べて、鳩山の場合は、彼が属した階級そのものが、政治家として育つ地盤を提供しなかった。

米国政府との癒着がどれほどの不幸を生んできたかを検証し、今後の日米関係を考えるべきではないだろうか。