ニカラグア革命39周年、海外派兵体制の構築の裏に何が隠されているのか
早いもので7月19日で、ニカラグア革命から39年だ。現地では、毎年のように記念式典が行われてきた。2日前には、「歓喜の日」を祝った。これは当時の独裁者・ソモサが自家用ジェットで、マイアミへ亡命した日である。
その2日後に、FSLN(サンディニスタ民族解放戦線)が、首都を制圧して、新生ニカラグアが誕生したのである。
最近のニカラグア情勢といえば、学生グループとFSLN政権の間で衝突が起きていて、多数の死傷者が出ている件が国際ニュースになっている。西側メディアは、政府による弾圧と報じている一方、ベネズエラのTelsurなどは、トランプ政権から右翼の学生たちに活動資金が流れていると報じている。
いずれにしても政府が対話を呼びかけ、平和的に解決しようとしていることは事実のようだ。
海外ニュースの真相は、やはり現地へ行かなければ分からない。想像と事実の間には、かならずギャップがある。そんなわけでこの事件に、ここで言及することは控えたい。
◆ソモサ王朝が成立から崩壊まで
ニカラグア革命と聞いても、39年前のことで、関心のないひとが多いのではないか。そんなわけで、筆者は、毎年7月19日ごろになると、ニカラグア革命に関係した記事を書いている。
ニカラグアはもともと米国の傀儡(かいらい)政権の国だった。ソモサ一族による独裁国家だった。米国が強力な後ろ盾になっていたという点では、現在の北朝鮮よりもたちが悪かった。
しかし、ニカラグアの人々は民族自決の意識が強く、戦前に米国海兵隊がニカラグアを占領した時代に、ある人物が率いる小さな部隊が武装蜂起した。そのリーダーがサンディノという民族主義者だった。サンディニスタという名称は、サンディノ主義者という意味である。左派ではあるが、それよりも民族自決主義の色が濃い。
サンディノは、執拗なゲリラ戦を展開して、海兵隊をニカラグアから追い払った。しかし、その後、米軍の息のかかったソモサに暗殺される。ソモサは軍事クーデターを起こし、ソモサ王朝が成立したのである。
これに対してサンディノ主義者たちは、その後、再び武装蜂起した。しかし、FSLNは壊滅に近い状態に陥る。が、1972年の大震災で、海外からの支援金をソモサが横領したことから、国民の不満が急激に高まり、FSLNが勢力を広げていく。
そして1979年の革命でソモサを追放した。ソモサは、マイアミを経て南米のパラグアイに亡命したが、亡命先で何者かに暗殺された。
が、これでニカラグアが平静を取り戻したわけではなかった。怒り狂った米国のレーガン政権は、ニカラグアの隣国・ホンジュラスを米軍基地の国にかえ、コントラと呼ばれる傭兵を使って、新生ニカラグアの転覆に乗りだしたのだ。その結果、ニカラグアは、再び戦争状態になった。
◇戦士の遺言
筆者は、1985年にはじめてニカラグアを取材したが、革命は想像したように美しいものではなかった。経済封鎖と内戦で経済は破綻していた。徴兵制で前線におもむき、戦士した兵士の母親は、FSLNを許せないと話していた。車椅子に乗っている青年は、「何も話したくない」と口を閉ざした。
その一方で、FSLNの戦士だった大学生を持つ老いたお父さんが、リカルドという息子さんのことを話してくれた。お父さんは、リカルドがFSLNのゲリラ戦士ではないかと疑っていたが、何も言わなかった。そのうちお父さんが警察で取り調べを受け、「息子の居場所を教えろ」と詰問された。黙秘を続けると何日も投獄された。
1979年の7月、FSLNの部隊が首都マナグアに接近していた。ある日の深夜、お父さんは、誰かが玄関の戸をノックするのを聞いた。FSLNの司令官を名乗る男が戸口に立っていて、リカルドが戦死したことだけを告げて足ばやに立ち去った。お父さんは、いたずらに違いないと自分に言い聞かせたという。
ソモサとの戦闘の舞台はいよいよ首都に移った。FSLNの戦士が、一軒一軒民家を廻って、市民に協力を呼びかけた。10代、20代の人を中心に多くの市民が、バリケードを築いたり、前線に武器を運ぶなどFSLNに協力した。ソモサ軍の兵士もかなり離反したという。これにあせった独裁者は、17日、自家用ジェットで、夜明けが近づいた空へ消えたのである。
リカルドのお父さんは、首都に入ったFSLNの兵士たちの中から、リカルドを捜そうと歩き続けた。何日も捜したが、見つからなかった。歩きながら、長かった牢獄の夜を思い出したという。
リカルドの墓は、自宅の小さな庭にあった。そこには、次のような詩が刻まれていた。
お母さん、私だけがあなたの息子だと思わないでください。
戦う仲間たちはだれもあなたの息子です。
仲間の一人ひとりの姿にぼくの面影を捜してください。
1979年3月25日 リカルド
日付からして、おそらく遺書である。
◇ニカラグアから近隣諸国へ
ニカラグア革命の成功は、近隣諸国にも影響を及ぼした。まず、翌1980年、エルサルバドルで、それまでばらばらだった5つのゲリラ組織が統一して、FMLN(ファラブンド・マルティ民族解放戦線)を結成した。そしてただちに首都へ向けて、大攻勢をかけた。政府軍は戦意を失い、首都陥落はまちがいないとまで言われていたが、米国のレーガン政権が介入してきた。
その結果、エルサルバドルでも泥沼の内戦になったのだ。
グアテマラは、古くからゲリラ活動があった。ニカラグア革命の影響を恐れた政府は、1980年代に入ると、凄まじい勢いで反政府勢力の取り締まりに乗りだす。その中心人物の一人が、2013年に禁固80年の判決を受けたリオス・モントである。
グアテマラの実態については、日本でも比較的報道されている。『私の名はリゴベルタ・メンチュ』(新潮社)は、ノーベル平和賞を受けた著者の手記である。彼女の父親は、仲間と一緒に、グアテマラにおける人権侵害の実態を告発するためにスペイン大使館へかけこんだ。するとグアテマラ軍がスペイン大使館を包囲し、窓と戸口を釘付けにしてから火を放った。スペインは、ただちにグアテマラとの国交を断絶した。
1981年と82年の2年間で、グアテマラの最高学府サン・マルコス大学の教員96人が殺害された。このひとたちの大半は、解放戦線のシンパでもなんでもない。ただ、疑いをかけられたというだけである。
今世紀に入って、ラテンアメリカの状況は変わってきた。選挙で次々と左派の政権が誕生し、米国もかつてのような軍事介入が出来なくなった。キューバの孤立も解消した。
◇海外派兵を考える視点
ニカラグア革命は、今でも先進国と第3世界の関係を考える上で格好の歴史的事件である。たとえば、海外派兵。日本では、「国際貢献」を口実に海外派兵の体制が構築されようとしているが、本当は、政変から多国籍企業や傀儡(かいらい)政権を防衛することが目的なのだ。中米紛争の歴史がそれを物語っている。
また、日本の米軍基地問題を考える上でも参考になる。米軍がいかに危険な部隊であるか、歴史から学ぶべきだろう。
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