1. 「報道不信の根源を探る」(『マスコミ市民』)を読む、新聞の衰退は記者の職能に問題があるからとする視点の根源的な誤まり

新聞社の経営難に関連する記事

2021年05月03日 (月曜日)

「報道不信の根源を探る」(『マスコミ市民』)を読む、新聞の衰退は記者の職能に問題があるからとする視点の根源的な誤まり

新聞ジャーナリズムが機能しない原因を記者個人の職能不足に矮小化した議論があとを絶たない。新聞社の収益構造の中に、客観的に存在するメディアコントロールの温床を探し当てるのではなく、記者個人を自己変革することで、問題は解決するという安易な論考が後を絶たない。その大半は大学の研究者である。

『マスコミ市民』(5月号)は、「報道不信の根源を探る」と題するインタビューを掲載している。記者の職能不足を指摘した内容だ。インタビューに答えているのは、法政大学の上西充子教授である。リードの部分は、次のようになっている。

「野党は反発」「政府はかわした」「決定打を欠いた」「安全運転に徹した」と、政治報道の言葉は何かおかしい。コロナ対策を訴える政治家も「正念場の・・」「勝負の・・」「瀬戸際の・・」といった具合に、危機感の安売りのようで市民の心には響かない。
 国会パブリックビューイングの活動を続けてこられ、このたび『政治と報道 報道不信の根源』を上梓した上西充子さんに、政治家やメディアの言葉の使い方、伝え方についてお話を伺った。聞き手は本誌の石塚さとし発表人。

新聞ジャーナリズムが衰退した原因を職能不足に矮小化している例として、次のくだりを引用しておこう。

---確かに、原発事故の時などは専門記者がいないことを感じました。今は記者の資質に相当問題があるのでしょうか。

上西:資質というか、育成が必要だと思います。海外に比べれば、日本はジャーナリズムをきちんと学んだ人が記者になるというルールが確立されているわけではないので、入社した人をどう育てるかが大事です。新聞社はそれなりに大きな組織なので、深堀りした記事を書いたり、批判的なものの見方ができる人材を育てることはできるはずです。ネットメディアよりもそういう体制はあるはずです。一人の記者の力量の問題ではなく、組織としての記者の育成のあり方だと思います。

こうした発言がまったく無意味というわけではない。しかし、記者の資質が高まれば、真実が報道できるという単純な構図ではない。新聞社の経営構造の中に、公権力によるメディアコントロールの温床があることが、根源的な問題なのである。

メディアコントロールの温床としては、次のようなものである。

1、残紙問題:独禁法違反に該当する。

2、折込媒体の水増し問題:刑法の詐欺に該当する。

3、新聞の高額景品付き販売:景品表示法に違反する。

4、再販制度:再販制度の存続・廃止の決定権を国会が握っている。つまり新聞社経営が国会に委ねられている。

5、消費税の軽減税率:軽減税率の存続・廃止の決定権を国会が握っている。新聞社経営が国会に委ねられている。

6、新聞販売店の労務問題:外国人の酷使が問題になっている。

7、政治献金:新聞業界は、日販協の政治団体を通じて、政治献金を行っている。

1~6に対して、公権力がメスを入れば、新聞社経営そのものが成り立たなくなる。と、なれば新聞は本当に公権力を批判する勢力とはなり得ない。どこかで落としどころを作らなければならない。それが報道自粛や、曖昧な表現として紙面に現れるのである。

結局、新聞社は経営を維持するためには、公権力の世論誘導の道具になる以外に選択肢はない。

1~7が諸悪の根源なのである。

さらに企業から広告費を受け取っている問題もある。

◆◆

実は、新聞ジャーナリズムの衰退を記者の職能や心がけに求める観念論は、すでに1960年代から始まっている。大半の新聞批判は、昔から同じことの繰り替えしなにほかならない。

1967年、日本新聞協会が発行する『新聞研究』に掲載された「記者と取材」と題する記事を引用しておこう。

たとえば、新聞記者が特ダネを求めて“夜討ち朝駆け”と繰り返せば、いやおうなしに家庭が犠牲になる。だが、むかしの新聞記者は、記者としての使命感に燃えて、その犠牲をかえりみなかった。いまの若い世代は、新聞記者であると同時に、よき社会人であり、よき家庭人であることを希望する。

1997年、新聞労連も、「新聞人の良心宣言」の中で、次のように述べている。

新聞が本来の役割を果たし、再び市民の信頼を回復するためには、新聞が常に市民の側に立ち、間違ったことは間違ったと反省し、自浄できる能力を具えなくてはならない。このため、私たちは、自らの行動指針となる倫理綱領を作成した。他を監視し批判することが職業の新聞人の倫理は、社会の最高水準でなければならない。

新聞社の経営構造の中にある客観的なものに、原因を探ろうという姿勢はまったく見えない。