1. NIE(Newspaper in Educationの間違いについて、子供の頭に慣用句を詰め込む弊害、教材に「押し紙」の可能性も

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2020年05月12日 (火曜日)

NIE(Newspaper in Educationの間違いについて、子供の頭に慣用句を詰め込む弊害、教材に「押し紙」の可能性も

 NIE(Newspaper in Education)をご存じだろうか。これは簡単に言えば、教育活動の中で新聞を教材として使う運動である。日本新聞協会が中心になって実施しているプログラムである。同協会のウェブサイトは、NIEを次のように説明している。若干長いが全文を引用してみよう。

NIE(Newspaper in Education=「エヌ・アイ・イー」と読みます)は、学校などで新聞を教材として活用することです。1930年代にアメリカで始まり、日本では85年、静岡で開かれた新聞大会で提唱されました。その後、教育界と新聞界が協力し、社会性豊かな青少年の育成や活字文化と民主主義社会の発展などを目的に掲げて、全国で展開しています。

日本新聞協会は96年にNIE基金を発足させるとともに、NIE事業を「新聞提供事業」と「研究・PR事業」に分け積極的に推進し始めました。そして、NIE事業は、新聞協会から98年3月2日新たに設立された日本新聞教育文化財団(新聞財団)へと引き継がれました。

学校に新聞を提供する活動は、89年9月パイロット計画として東京都内の小学校1校、中学校2校でスタートし、96年に「NIE実践校」制度となった翌97年には、47都道府県全ての地域での実践が実現しました。当初、学校総数の1%である400校を目標としていましたが、2004年にこれを達成。その後は500校を目標に掲げ07年に達成しました。09年4月から「NIE実践指定校」制度として活動を進めています。

また、全国47都道府県に教育界、新聞界の代表で構成されるNIE推進協議会が設立され、地域のNIE活動の核となっています。

新聞財団は11年3月に新聞協会と合併し、NIE事業は新聞協会で引き継ぐこととなりました。


昨日、テレビ朝日の番組で、ある識者が子供向けのメッセージを送っていた。新型コロナの影響で、外出自粛が続いているが、こんな時にこそ視点を変えて、新聞を熟読したり、テレビのニュースを見るべきだという趣旨のメッセージだった。

ツイッターで、この発言を紹介したところ、興味深いコメントがツィートされた。

私は3人の我が子には大してしつけらしいことはしなかったが、「TVと新聞のニュースだけは読むな」とだけは伝えている。報道の全てが洗脳ではないが、やはり日本の報道を信頼するということだけはさせたくなかった。洗脳されるくらいなら無知なほうがまだマシだ。

わたしも、新聞・テレビには否定的な考えだ。もっともメディアを取材対象にしている関係上、テレビや新聞をモニタリングしているが、番組そのものを楽しむことはあまりない。特にやたらと増えている学校の教室に似たてた教養番組には辟易している。新聞人やテレビ人が学校を信仰している裏返しである。ジャーナリストと社会科教員の区別があいまいになっている。

◆◆
新聞・テレビが教育に逆効果である理由は複数ある。特に注意喚起を要するのは次の2点である。

まず、メディアが報じていることが、社会の全体像ではないということである。メディアがクローズアップしているニュースが形成する印象が、客観的な状況を反映しているとは限らないということだ。むしろ恣意的に操作されている部分の方が多い。特に印象に訴える映像はくせ者だ。どうにでも加工できるからだ。

たとえば新型コロナの終息を願って、祈祷したというニュースを掲載した新聞社があるが、このようなニュースに接していると、苦難と直面したときは、祈祷すればいいという意識が形成させる。無意識のうちに洗脳されてしまう。

ボランティアの美談に接していると、人権や生活権を守るのは、政府の役割ではなく、ボランティアの役割だと勘違いしてしまう。それは小さな政府を目指す政府と財界にとっては、好都合な意識の形成なのだ。

ボランティアそのものが悪いわけではないが、報道の仕方によっては、洗脳の道具にもなる。

テレビでホリエモンに接していると、新自由主義の世の中では、誰でもホリエモンのようになれると勘違いする。ホリエモン本人に責任はないが、実態は勤労者の4割が非正規である事実がかすんでしまうのだ。

新聞・テレビが洗脳の道具になっている。

◆◆◆
新聞記事には、日本語という観点からも問題がある。記事というものは、わたしが書く駄文も含めて、骨格がほぼ慣用句で成り立っている。また、型が決まっている。しかも、その慣用句の質が悪い。たとえば、「汗ばむ陽気」とか、「激を飛ばした」とか、「・・・と推測される」など。子供のうちから新聞の慣用句を頭の中に叩き込まれると、言葉による思考の幅が狭くなる。

たとえばむし暑さを表現する際に、「汗ばむ陽気」で片付けてしまう癖が定着しかねない。むし暑さを自分で感じ取ったり、外観を観察することで、最も適切な言葉に置き換える。それにより知力は発達するのだが、新聞の慣用句はそのようなプロセスを妨害してしまう。

子供に新聞を読ませるのは、子供に絵画の模写をさせるのと同じ弊害がある。模写をすると絵は上手くなるが、既存の概念が叩き込まれてしまい、却って弊害が大きい。

子供にバーベルを使ったウェートトレーニングを強いる過ちとも共通している。これをやると背が伸びなくなる。

豊かな日本語を身に着けるためには、新聞記事よりも、定評の定まった小説やノンフィクションを読む方が効果がある。幸田文氏が幼児のころから、父の幸田露伴に漢文を素読させられた話は有名だが、新聞を素読させられたという話は聞いたことがない。幸田文氏に限らず、そんな人はだれもいないはずだ。

こんなことは半ば常識なのだが、多く人が、「新聞を読め!」「新聞を読め!」と繰り返している。