1. 1999年の「改正」新聞特殊指定の何が問題なのか?(2)独禁法を骨抜きにした公取委、新聞人に便宜を図った疑惑

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2024年04月30日 (火曜日)

1999年の「改正」新聞特殊指定の何が問題なのか?(2)独禁法を骨抜きにした公取委、新聞人に便宜を図った疑惑

本稿は、「新聞の1999年問題」についての連載の2回目である。1回目では、1999年に公取委が独禁法の新聞特殊指定の「改正」を行った結果、「改正」前よりも新聞社の「押し紙」政策が容易になった事情について記した。「改正」前の新聞特殊指定の内容を検討し、それを「改正」後の新聞特殊指定と比較した結果、それが明確になったのだ。この検証作業を行ったのは江上武幸弁護士である。検証の結果、1999年の「改正」に重大な問題があることが判明したのだ。連載の1回目の記事は次の通りである。

■1999年の「改正」新聞特殊指定の何が問題なのか?(1) 新聞人による「押し紙」政策の法的温床に変質、「注文部数」から「注文した部数」に変更

◆公取委と新聞人の話し合い

1999年の新聞特殊指定「改正」に至る発端は、約2年前にさかのぼる。1997年12月のことである。公取委は石川県の北國新聞に対して「押し紙」の排除勧告を発令した。

勧告書によると、北國新聞は朝刊の総部数を30万部にするために、新たに3万部を増紙した。この3万部をノルマとして、販売店に押し売りしていたのである。

公取委は勧告を発令した際に、日本新聞協会に対しても、独禁法に違反することがないように要請している。北國新聞と類似した不正行為が報告されていたからだ。

この事件を機に公取委と新聞協会(厳密には、新聞公正取引協議会)が話し合いを重ねた末に行われたのが1999年の「改正」なのである。ところが「改正」内容は、却って「押し紙」を取り締まることを妨げる内容だったのだ。独禁法を骨抜きにしたと言っても過言ではない。

既に述べたように「改正」前は、「実配部数+予備紙2%」を超えた部数は、機械的に「押し紙」と認定された。それゆえに北國新聞が摘発の対象になったのだが、「改正」新聞特殊指定では、新聞の発注書に明記された部数に残紙が含まれていても、それは「予備紙」ということになってしまい「押し紙」とは、認定されなくなったのだ。

露骨な詭弁がまかり通るようになったのだ。

実際、2000年代になって「押し紙」(残紙)は急激に増えていく。いくら搬入部数の中に残紙が含まれていても、それは「予備紙」ということになってしまい、取り締まりの対象ではなくなったのだ。新聞社は、やりたい放題に「押し紙」ができるようになったのである。

ちなみに、1999年の「改正」後に、それまでは予備紙を2%と定めていた新聞業界の自主ルールも削除された。これにより「押し紙」は存在しないことになった。残紙があっても、それは販売店が注文した「予備紙」ということになったのだ。

皮肉なことに「改正」新聞特殊指定が、日本の新聞社の巨大なABC部数を維持するための安全装置に変質したのである。

この時の公取委委員長が後に日本野球機構コミッショナーになる根来泰周氏だった。新聞協会の会長は、読売の渡邉恒雄氏だった。そして内閣総理大臣は、自民党新聞販売懇話会の会長を兼任していた小渕恵三だった。
 
◆情報公開で「開示」された黒塗りの書面

公取委と新聞協会は、「押し紙」をめぐって何を話し合ったのだろうか。わたしはこの点に興味を持ち、両者の話し合いを記録した議事録の情報公開を請求した。しかし、新聞特殊指定に関する記述はすべて黒塗りになって開示された。次のPDFでそれを確認してほしい。

 ■公取委と新聞協会の話し合い

黒塗りの部分が、日本の公権力と新聞人の関係を物語っている可能性が高い。
次回の連載では、1999年の新聞特殊指定「改正」後の「押し紙」(残紙)の実態を紹介しよう。(続く)