1. 「押し紙」問題を放置してきた公権力機関、巧みなメディアコントロールのからくり、モデルは戦前・戦中の新聞用紙の配給制度

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2022年09月26日 (月曜日)

「押し紙」問題を放置してきた公権力機関、巧みなメディアコントロールのからくり、モデルは戦前・戦中の新聞用紙の配給制度

「押し紙」が温床となっているメディアコントロールの例を、具体的な新聞記事を引き合いに出して立証することは不可能だが、公正取引委員会や裁判所などの公権力機関が新聞社の「押し紙」政策を黙認してきた軌跡を記述することはやさしい。それはちょうと公害の原因を医学的な根拠を示して立証することが困難であっても、疫学調査によって健康被害の全体像を立証できるのと同じ原理である。

「押し紙」問題を半世紀前までさかのぼってみると、公取委や裁判所がメスを入れる機会は何度かあった。しかし、実際は抜本的な対策を取ったことはほとんどない。それどころか、新聞業界の自主規制に委ねることで、故意に「押し紙」政策を奨励したのではないかと思われる節もある。

【参考記事】公取委と消費者庁が黒塗りで情報開示、「押し紙」問題に関する交渉文書、新聞社を「保護」する背景に何が?

余談になるが、2022年7月に起きた安倍首相狙撃事件を機にして暴露された旧統一教会と自民党の関係も、約半世紀に渡って放置されてきた。警察などの公権力機関はメスを入れなかった。マスコミもほとんど報道しなかった。この問題についてもメスを入れる機会はあったはずだが、実際には延々と放置してきたのである。

統一教会による霊感商法の被害額は、35年間で1237億円(日テレNEWS、7月29日)に上った。これに対して「押し紙」による新聞販売店の被害は、中央市の場合、年間で100億円単位になる推定される。
金額という観点から言えば、「押し紙」による被害の大きさは、霊感商法の比ではない。

【参考記事】「押し紙」を排除した場合、毎日新聞の販売収入は年間で259億円減、内部資料「朝刊 発証数の推移」を使った試算

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元々、日本の新聞社は戦前・戦中はいうまでもなく、戦後も政府広報の性質を引きずっている。俗に「新聞人」と呼ばれる新聞社幹部は、公権力機関と対峙するよりも、相互理解を前提に親密な関係を維持してきた。もっとも警察の腐敗を追及した北海道新聞のような例外はあるが、その後、この問題を追及した記者らは社から冷遇されたようだ。

しかし、公権力機関と新聞人の情交関係は、今に始まったことではない。それは戦前に始まり、戦後もほとんどそのまま維持され、今日に至ったと言っても過言ではない。両者の関係を親密なものにしたのが、新聞業界の構造改革と新聞用紙の配給体制だった。新聞社側の経済的な事情が両者を結び付けたのである。

有山輝雄・東京経済大学教授の「総動員体制とメディア」(『メディア史を学ぶ人のために』収録)によると、新聞の構造改革は、1938年に始まった。最初の段階は、「悪徳不良紙の整理」だった。次に、「弱小紙整理」だった。そして太平洋戦争が始まった1941年には、「1県1紙制」への統合が始まった。「その結果、1938年秋段階には739紙であったのが、1942年4月15日には108紙に減少した」のである。新聞社の数が減ったことで、言論統制が容易になったことは言うまでもない。

この構造改革の牽引役となったのが、新聞用紙の配給体制だった。このあたりの事情について、有山氏は次のように述べている。

引用】当時の(新聞社の統合、構造改革の)切り札になったのは、新聞用紙の不足であった。原料を輸入に頼っていた新聞用紙の不足が顕著化するのは、1938(昭和13年)年頃からである。当初は製紙業界と新聞業界との話し合いで節約しようとしたが、調整がつかず、1938年8月、政府が強制的に新聞用紙の節約を命じた。このため各新聞社は減ページを余儀なくされたし、用紙の確保が各社の死活を制することとなったのである。これは、弱小新聞の廃刊、合併に大きな圧力となった。それだけでなく、各新聞社側に政府の政策に先取り的に迎合し、少しでも有利な立場を確保しようとする行動を引き起こすことになったのである。」

政府は、露骨な方法で商業メディアを検閲したわけではない。むしろ表向きは、新聞社の自主性を重んじていたのである。と、いうのも厳しい言論弾圧をするまでもなく、新聞用紙の配給に裁量を働かせることで、新聞社が国策の方向性に反する記事を掲載する事態を回避することが出来たからである。有山氏の言葉を借りていえば、「いうまでもなく、メディアが従順であったのは、差止命令に反して処分された場合の損害を回避し、協力することによって有利な用紙配給を得られるという企業的利益があったからである」

戦前・戦中の新聞がジャーナリズムになりえなかった主要な原因は、記者の職能や記者魂の欠落といった観念的なものに存在したのはなく、新聞社を経営する上で不可欠な物質的経済的事実の中に存在したのである。

戦後、日本の新聞社は、GHQによって「改革」を迫られた。「改革」と言っても、それは「親米」と「反共」の世論形成を前提とした方向性の「改革」であって、真の意味でジャーナリズムの導入を進めたわけではない。

GHQの方針の結果、次々と新興紙が登場した。戦前の構造改革で淘汰された新聞が復活した例もある。一見すると多様な言論がGHQによって誕生したかのような印象があった。しかし、新聞社が新聞拡販を柱とした自由競争のレールの上を走り始めると、大半の新興紙は生き残ることができなった。その結果、戦前の構造改革の中で生き残った新聞社が、戦後もそのまま事業を継続する体制になったのだ。

このあたりの事情について、東京経済大学の有山輝雄教授は、1998年、わたしのインタビュー(『新聞ジャーナリズムの正義を問う』に収録)に答えて次のように述べている。

【有山】戦後の初期、新聞ジャーナリズムは機能し、その後に腐敗堕落したと考えている人もいますが、私はそうではないと思います。基本的な体質は創業から同じであって、それは新聞人の個人的な問題ではなくて、ひとつのシステム(体制)の問題があるからです。新聞が社会制度の中に組み込まれて来たわけですから。

--戦後、新聞を改革できなかった理由は?

【有山】アメリカが、日本を民主化しようとしたといっても、一面では自分たちの国益を優先したわけです。考え方によっては、日本の新聞社の戦争責任を追及して、新聞社を全部つぶすことも選択肢としてはもっていたわけです。しかし、アメリカは国益を守るためには今ある新聞社を利用する方が都合がいいと考え、新聞の制度それ自体はいじらなかった。独占禁止法を導入し、朝日、読売、毎日などの独占を言葉の上では批判し、分割することもひとつの選択だったわけです。しかし、それをやれば、日本国内が混乱するので、避けようという判断だったのだと思います。

戦前に定着した新聞紙と公権力機関の癒着は、戦後もそのまま受け継がれた。新聞人らは、日本政府に強い影響力を持つ米国の公権力機関とも親密な関係を構築した。それを裏付ける典型的な人物が、読売新聞の正力松太郎と朝日新聞の緒方竹虎だった。この2人を米国CIAが抱え込んでいた事実は、米国公文書館の文書でも明らかになっている。

2013年1月23日付け『東京新聞』は、「日米同盟と原発」と題する記事の中で、このあたりの事情について、次のように延べている。

【引用】首都ワシントンの米国立公文書館に保管されている国務省やCIAの膨大な極秘文書。正力は「PODAM(ポダム)」(右写真)という暗号名で呼ばれていた。どういう意味かは不明だが、ちなみに元朝日新聞主筆で、自民党副総裁を務めた緒方竹虎(六七)の暗号名は「POCAPON(ポカポン)だった。
正力が衆院議員初当選からほぼ半年後の五五年八月十一日付けのCIA文書には「PODAMは協力的だ。親密になることで、彼が持つ新聞やテレビを利用できる」
。その1カ月後の9月十二日には「PODAMとの関係ができてきたので、メディアと使った反共工作を提案できる」と記されていた。

「PODAMの存在感が大きくなっている。彼の関心はテレビから原子力へ拡大し、今では首相になると言っている」

日本の世論形成に影響力を持つ新聞、テレビのオーナー、正力とその懐刀の柴田。ビキニ事件の対応で手をこまねいていた米国が見逃すはずがなかった。当時、米政権中枢に提出したCIA局密文書には「大手日刊紙とつながりを持つため正力と柴田を取り込むべきだ」との助言が盛り込まれていた。

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日本の新聞社は、元々、公権力機関に組み込まれることで生存してきたのである。戦前・戦中は、新聞用紙の配給制度がそのアキレス件になっていた。このアキレス腱切れると生存できない状況に置かれていた。

では戦後は、何が公権力機関のメディアコントロールのアキレス件になってきたのだろうか。答えを先にいえば、「押し紙」制度が、その温床になってきた可能性が高い。再販制度や新聞に対する消費税の優遇措置も、その客観的な原因になっているが、決定的なものは「押し紙」を放置する公権力機関の政策にほかならない。「押し紙」によって新聞社が得る経済的利益が尋常な額ではないからだ。

もっとも公権力機関が意図的に「押し紙」政策を導入したのではなく、過当な新聞拡販競争の土壌の中から、「押し紙」制度が生まれ、それが莫大な不正利益を生む点に着目して、暗黙のうちにメディアコントロールの道具にした可能性が高い。

「押し紙」問題にメスを入れると、公権力機関は世論誘導の有力な手段を失ってしまう。従って新聞の問題は、戦前と同様に自主規制に委ねる姿勢を取り続けることで、「押し紙」問題を放置してきたのである。そして裁判になれば、最高裁事務総局が、裁判官の人事権を行使して、裁判官を交代させるなどして、新聞社に有利な判決を下してきたのである。

【参考記事】野村武範判事の東京高裁での謎の40日、最高裁事務総局が情報公開請求を拒否、透明性に疑惑がある事務局運営の実態