1. 『人権と利権』の書籍広告をめぐる『週刊金曜日』植村社長の謝罪、市民運動に忖度してジャーナリズムを放棄❶

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2023年07月01日 (土曜日)

『人権と利権』の書籍広告をめぐる『週刊金曜日』植村社長の謝罪、市民運動に忖度してジャーナリズムを放棄❶

『週刊金曜日』(6月30日付け)に、同社の植村隆編集長の名前で「おわび」と題する告知が掲載された。森奈津子編著の『人権と利権』(鹿砦社)の書籍広告を同誌に掲載したことに対する謝罪の弁である。告知によると、この本は「『Colabo問題、LGBT問題について提起する』としておりますが、その内容は当社の広告掲載基準(内規)で、『掲載できない』としている『差別、プライバシーの侵害など基本的人権を侵害するおそれのあるもの』に該当するものと考えられます」と述べた上で、「Colaboの仁藤夢乃代表やLGBT関係者の皆様の人権を傷付け、その尊厳を否定する結果となってしまいました」と謝意を表明している。

実はこの件に関して、わたしには無関心ではいられない事情がある。と、いうのも『人権と利権』と並列するかたちで、わたしの新刊書『新聞と公権力の暗部』(鹿砦社)の広告が掲載されていたからだ。厳密に言えば、鹿砦社が発行する『紙の爆弾』と『季節』の広告もセットになって、『週刊金曜日』の裏表紙に掲載されたのだ。

当然、『人権と利権』が人権を侵害した書籍だという烙印を押されれば、同じスペースに掲載された書籍に対しても、信頼性の低い書籍だというイメージが拡散してしまう。当然、わたしとしても事実関係を調査する必要がある。

もちろん『人権と利権』の内容に深刻な問題があれば、植村社長が取った措置もやむを得ない。「深刻な問題」と書いたのは、言論や思想の幅には個人差があり、ある程度は他人の言論に対して寛大になる必要があるからだ。考え方が異なることを理由に、処罰めいたことをするのは適切ではない。法律で規制するレベルになると、ファシズムの領域になる。

わたしが『人権と利権』を読んだ限り、特別に大きな問題になるような箇所はなかった。実名(あるいは通称)が使われている箇所もあるが、「公人」であるから問題はない。

しかも、植村社長が謝罪を決めるに際して、事前に鹿砦社と森奈津子氏から事情を聴取した形跡もない。インターネット上の情報によると、上村社長と文聖姫編集長は、仁藤氏のもとにみずから足を運び謝罪したという。実際、両氏の親密そうな写真もネットで公開されている。

そもそも、仁藤氏が鹿砦社に抗議せずに、『週刊金曜日』に接触したことも尋常ではない。通常、書籍や記事で名誉を毀損された場合、抗議の対象とするのは版元と著者である。広告を掲載した媒体に抗議して、書籍の「隠蔽工作」を進めた前例をわたしは知らない。事件の経緯そのものが不自然なのだ。

今後、植村社長と文編集長は、具体的に『人権と利権』のどの記述に「基本的人権を侵害」する恐れがあるのかを示すべきだろう。両氏は、今回のような謝罪が鹿砦社や同社に関係する執筆者の心情を害していることを自覚していないのではないか。

◆『週刊金曜日』と市民運動

わたしは『週刊金曜日』には決して悪意を持っていないが、今回のような事態には無関心ではいられない。最近の同誌の誌面からは、新聞人が中心となった市民運動団体のための「連合同人誌」のような印象を受けていたが、今回の事件もColaboなどに対する配慮かも知れない。

ジャーナリズムが批判対象とする範囲から、市民運動を除外するのは間違っている。たとえば2014年に大阪市の北新地で暴力事件を起こしたニセ左翼の団体があるが、まじめにもの事を考えている在日韓国人の人々にとっては迷惑な存在である。一部の野党が没落したのも、票ほしさに反社会的なグループと共同歩調を取ったからではないか。しかし、『週刊実話』と鹿砦社を除いてだれも報道しなかった。

もともと『週刊金曜日』は、広告に依存しないことで、既存メディアでは扱えないテーマを扱う方針だったと聞いているが、市民運動の批判だけはタブーなのだろうか。

わたしはColaboをジャーナリズムの監視対象にした鹿砦社の方針は高く評価すべきだと思う。