1. 週刊金曜日による「差別本」認定事件、謝罪告知の背景にツイッターの社会病理❹

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2023年07月19日 (水曜日)

週刊金曜日による「差別本」認定事件、謝罪告知の背景にツイッターの社会病理❹

本稿は、株式会社・週刊金曜日が同社発行の『週刊金曜日』(6月16日号)に『人権と利権』の書籍広告を掲載した後、Colaboの仁藤夢乃代表から抗議を受け、同書を「差別本」と判断した後、謝罪告知を行った事件についてのわたしの評論である。

既報したように謝罪告知は、『週刊金曜日』の6月30日号に掲載された。掲載に先立ち週刊金曜日は、『人権と利権』の編著者である森奈津子氏と版元の鹿砦社から事情を聴取するプロセスを踏まずに一方的に謝罪告知を行った。

仮に週刊金曜日が『人権と利権』が同社の広告掲載基準に適合しないと判断して、広告出稿の段階で掲載を断ったのであれば何の問題もない。一旦、掲載した広告について、それが「差別本」であるとあえて公言して、仁藤氏とLGBT関係者に謝罪した点が問題なのだ。

当然、それにより鹿砦社と森氏の社会的評価は著しく低下した。『人権と利権』と同じ広告枠に掲載されていた『紙の爆弾』、『季節』、それにわたしの新刊『新聞と公権力の暗部』の評価も失墜した。版元が同じであるからだ。

週刊金曜日は、なぜ一方的に仁藤氏の抗議を受け入れたのだろうか。この点について、同社の植村隆社長は、わたしの質問に対する回答の中で、「コラボの仁藤代表はネット上などで誹謗中傷や攻撃を受けています。そうした中で、以下のようなこと(黒薮注:仁藤氏に対する名誉毀損的な記述やイラスト、写真等)は、仁藤さんの人権を侵害するおそれがあると考えました」と述べている。

さらに7月7日付けの『週刊金曜日』に掲載された植村社長の「鹿砦社広告で『おわび』Colabo攻撃を許さない」と題するコラムでも、『人権と利権』の広告を掲載したり、その他のことが原因で、週刊金曜日がツイッター上で批判対象になったと説明している。次の記述である。

「今は極右の雑誌なのか?」「終わっとるな」「いい加減に鹿砦社の広告を載せるのを止めた方がいいか。言論の自由とヘイトの自由は別でしょう」・・・。胸が痛くなった。仁藤代表が本誌を「最悪」と投稿していたことも後で知った。

ここに掲載されたのはほんの一部のツィートで、週刊金曜日を中傷する膨大な数のツイートが発信された。

つまり謝罪告知に至る前段に週刊金曜日は、「ネット民」からスクラムになった攻撃を受けたのだ。右翼が反戦映画を上映している映画館に圧力をかけて、上映中止に追い込むのと同じ類型の言論弾圧が行われたのだ。その結果、植村社長が屈した可能性が高い。

実際、植村社長と文聖姫編集長が仁藤氏を訪問して、「白旗」を上げた後、満面の笑みを浮かべた3人の写真がツイッターに登場した。さらに仁藤氏が、次のようなツィートをリツイートした。

 週刊金曜日を定期購読再開しよ、、(下写真参照)

 

ツイッターを行使した週刊金曜日に対する攻撃に手を焼いて、植村社長と文編集長は、鹿砦社と森氏から事情聴取することなく、一方的に謝罪告知を掲載したというのが事件の経緯である。問題の本質はこの点にある。その他のことは枝葉末節の域をでない。

ツイッターの圧力に屈して鹿砦社を排除

SNSの「炎上現象」は、今や日常茶飯になっている。「ネットうよ」と呼ばれる人々がその代表格で、大半は匿名で、裏付けが不十分な情報を感情にまかせて吐き散らす。酒場で罵り合いをしているレベルの言論空間である。

「ネットうよ」以外にも、民族差別に対するカウンター運動を展開している人々や、喫煙撲滅を目指している「禁煙ファシズム」界隈の人々、さらにはLGBT関連の市民運動を展開している人々の中にも、ツイッター中毒になっている人もいる。

鹿砦社も、ツイッターによる攻撃を受けてきた。わたしもツィッター上で、「レイシスト(差別者)」のリストに登録されたことがある。大阪市の北新地で左派を自認したグループが大学院生に瀕死の重傷を負わせたリンチした事件を取材したのが原因のようだ。

週刊金曜日も執拗なツイッターによる攻撃を受けたことが、今回の謝罪告知をめぐる事件を通じて判明した。そしてその対応策として、植村社長は、一方的に謝罪告知を行ったのである。しかも、その中で『人権と利権』に対して、堂々と「差別本」のレッテルを張ったのだ。それを正当化するために、植村社長はさまざまな理由を持ち出してきた。
以下、植村社長が、人権を侵害している箇所として指摘した部分について、わたしの見解を示しておこう。

◆表紙デザインは「女性に対する暴力を想起させる」だろうか?

色文字の箇所は、植村社長の筆による記述である。わたしからの質問に対する回答である。

●「表紙のデザイン」。コラボのバスの写真と、それが傷つけられているように見える表紙。実際にコラボのバスが傷つけられた事件が起きており、それを想起させます。同書の中で、編者の森奈津子さんと対談して富士見市議の加賀ななえさんは、「女性に対する暴力を想起させる表紙はあってはならず、気づかずにいた事は私の過ちです」とツイートで発信しています。『週刊金曜日』も同じように考えています。

植村社長は、『人権と利権』の表紙について、「コラボのバスの写真と、それが傷つけられているように見える表紙」と指摘しているが、それは単に自分自身が受けた印象に過ぎない。普遍的な感覚ではない。

わたしは最初、表紙のイラストが何を意味しているのかまったく分からなかった。背景色の赤とバスの赤が重複していて、明確にバスの輪郭を認識することができなかった。バスが描かれていることを指摘された後は、豪雨の中をバスが迷走しているイラストだと思った。白く太い線は、バケツの水を散らしたような雨だと直感した。

それをナイフとする解釈があることを知った後も、特にそれが悪意
を持った表現だとは思わなかった。と、いうのも実際にナイフでColaboのバスを傷付ける事件が起きた経緯があるからだ。この事件を象徴するデザインを表紙に採用しても、それが暴力を助長することにはならない。無論、イラストレーターにもそんな意図はないだろう。これはジャーナリズムの正当な表現である。

●グラビアの1ページ目で、仁藤さんを盗撮しています。これは肖像権の侵害ではないでしょうか。

ジャーナリズムの現場で写真撮影する際に、相手の許可を得てからシャッターを押す取り決めは原則として誤っている。取材対象者の承諾を得てから写真を撮っていたのでは、出版企画そのものが成り立たない。カメラマンは肖像権よりも公益性を優先して、仁藤氏の活動を撮影したと考えるのが自然だ。

それに掲載された仁藤氏の写真は、醜態を公衆の前にさらしたものではない。すでにツイッターなどで十分に認知されている顔を、カメラマンが現場で撮影したものに過ぎない。この程度のことで肖像権を理由に取材を制限していたのでは報道は成立しない。「肖像権の侵害」というのは悪質な言いがかりである。下品な盗撮やのぞきとは性質が異なる。

『人権と利権』が扱うテーマのひとつは、公金の在り方だ。住民監査請求が通ったわけだから、住民の視点かColaboの経理を再点検するのは当然の権利である。東京都は最終にColaloに不正経理はなかったと結論づけたが、「役所」の結論が真実とは限らないからだ。

また、住民監査請求を行った男性がスラップめいた訴訟を起こされる事態も発生したわけだから、Colaboの体質を検証してみることは、重要だ。ジャーナリズムが公金の在り方を検証するのは当たり前だ。

●グラビアの2ページ目で、「なぜコラボはピンクのバスにこだわるのか。仁藤氏にとって、新宿の繁華街で性搾取される女の子の救済はあくまで手段、方便であり、それよりむしろ彼女が大好きな『ピンク色のバスカフェ』を維持することを優先しているのではないか」と書いています。彼女に取材もせず、彼女のやっていることを証拠もなしに、「手段」「方便」と一方的に言うのは、仁藤さんの人格を傷つけることにはなりませんか。

この記述だけを切り離して読むと、仁藤氏に対する人格攻撃のように受け止める人もいるかも知れない。しかし、この前段にある記述を読めば、植村社長の懸念は単なる執筆者の私見に過ぎないことが分かる。前段は次のように述べている。

月に2~3回しか出勤しないバスを東京都のはずれにある町田(駐車場がある場所は川崎市麻生区の最北端)で飼い殺しにしているのは維持費の無駄だ。Colabo支持者からも「応援していますけど、バスに拘るのはやめれば?」との声が寄せられていたほどだ。

具体的な事実の記述を受けて、執筆者が私見を述べたに過ぎない。

グラビアの3ページ目で、「コラボの事務所は歌舞伎町2丁目のHビルにある・・・・ピンクばかりではったりをきかせる張子の虎、イメージ戦略の生臭が浮上する」と書いています。これも憎悪を駆り立てるような記述ではないでしょうか。

この記述についても前段から切り離して、特定の表現を批判している。全体を読めば違和感はない。

Colaboは同ビル3階に入居してはいるものの、ビルの案内表示表札は更新されておらず、郵便受けも無記名のままだった。バスカフェの派手な印象とは打って変わって、本拠地である事務所は、できるだけ目立たないようにしたいという意図がはっきりと掴める。
 Colaboの事務所のある3階へ行ってみた。エレベータが開くとドアだけがピンク色。支援対象の10代女子が気軽に訪れやすいようにとの配慮なのか?ピンクばかりではったりをきかせる張子の虎、イメージ戦略の生臭さが浮上する。

この程度の表現を問題視するのであれば、現場で事実を記録するルポルタージュは成立しない。とりわけ『人権と利権』は、告発色の強い本であるから、表現に多少の感情が闖入するのは許容範囲だ。

◆住民運動と市民運動は異質

今回の週刊金曜日による謝罪告知をめぐる事件の背景には、ネット社会の病理がある。植村社長と文編集長は、週刊金曜日に対する仁藤氏らの圧力に屈して、鹿砦社に配慮することなく、謝罪告知に及んだのである。元々、差別問題についての両者の考えが類似していることも、この方針に影響しているのではないか。Colaboの側にしてみれば、週刊金曜日に裏切られたという感情があったのかも知れない。

わたしは10年程前に、ある著名な弁護士からこんな問いかけをされたことがある。

「黒薮さん、市民運動と住民運動の違いが分かりますか?」

わたしは「分からない」と答えた。生涯を通じて水俣病に取り組んできたこの弁護士は、市民運動を推進している組織の中には、無責任が団体も多く、しばしばトラブルを起こすと話していた。これに対して住民運動は地域に根を張ったまじめな人々の集まりである。もちろん両者には重複する領域もあるが、根本的な方向性の違いという点では正確な分類である。

以来、わたしは市民運動からは距離を置き、冷静に言動を観察してきた。そのうち市民運動には利権が絡んでいる場合が多々あることに気づいた。

たとえば、ヘイトスピーチ解消法やLGBT理解増進法の裏面である。元々、人間の内面を法律で規制すること自体が無理であるにもかかわらず、「差別者」の発掘が法曹市場の開拓に繋がるとすれば、弁護士は負の側面には配慮しない。市民運動の派手なパフォーマンスに便乗して、一緒に暴走してしまう。LGBTにしても白黒で割り切れるような単純な問題ではない。

こんな時代、『人権と利権』は議論のための視点を提供してくれる。謝罪告知はタブーなきメディアの重大な汚点にほかならない。週刊金曜日は方針を誤った。

 

参考記事:『人権と利権』の「差別本」認定事件、週刊金曜日・植村隆社長から回答、Colabo代表・仁藤夢乃氏は回答せず❸