1. 市民運動に対するタブー 『週刊金曜日』と『人権と利権』の書籍広告をめぐる事件 

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2023年08月02日 (水曜日)

市民運動に対するタブー 『週刊金曜日』と『人権と利権』の書籍広告をめぐる事件 

株式会社金曜日の植村隆社長が鹿砦社の『人権と利権』に「差別本」のレッテルを張った事件からひと月が過ぎた。7月の初旬、両者は決別した。事件は早くも忘却の途に就いている。重大な言論抑圧事件が曖昧になり始めている。

事件の背景に、市民運動に依存した『週刊金曜日』の体質がある。ジャーナリズムの視点から市民運動の在り方を客観的に検証する姿勢の欠落がある。

この点について自論を展開する前に事件を概略しておこう。

◆Colaboの仁藤氏らによるSNS攻撃

Colaboは、仁藤夢乃氏が代表を務める市民運動体である。「中高生世代の10代女性を支える活動」を展開してきた。日本最大の歓楽街・東京の歌舞伎町などで、売春などに走る少女を保護・啓蒙する活動を続けてきた。そのための公的資金の援助も受けていた。

事件の発端は、鹿砦社が『人権と利権』の書籍広告を『週刊金曜日』に掲載したことである。この中にColaboの不正経理疑惑に関する記述も含まれていた。

これに反発した仁藤氏らが、SNSなどで、『人権と利権』の書籍広告を掲載した『週刊金曜日』を激しく非難した。仁藤氏も、『週刊金曜日』を指して「最悪」と投稿したという。

こうした動きに動揺した『週刊金曜日』の植村社長は、文聖姫編集長と共に仁藤氏のもとを訪れ、『人権と利権』の広告掲載を掲載した事に対して謝罪したあげく、『週刊金曜日』誌上で謝罪告知を行った。植村社長らは、『人権と利権』の編著者である森奈津子氏と鹿砦社に対する聞き取り調査は行っていない。『人権と利権』を一方的に差別本と決めつけ、その旨を公表したのである。

さらに植村社長が鹿砦社を訪れ、今後は鹿砦社の広告を『週刊金曜日』に掲載しない旨を申し入れた。

事件を総括すると、植村社長がSNSの激しい攻撃に屈して、鹿砦社との決別を宣言したということになる。反戦映画を上映する映画館に対して、右翼が街宣車などで妨害し、それに屈して映画館が上映を中止するのと同じ構図が、「ネット民」と『週刊金曜日』の間で起きたのだ。ある意味ではSNSの社会病理が露呈したのである。

わたしは、自著『新聞と公権力の暗部』(鹿砦社)の書籍広告が問題となった『人権と利権』の書籍広告と同じ枠に掲載されていたこともあって、植村社長に質問状を送った。そして植村社長からの回答を待って、「週刊金曜日による『差別本』認定事件、謝罪告知の背景にツイッターの社会病理」と題する記事を、みずからのウェブサイトに掲載した。

この記事は、フェイスブックの「FB『週刊金曜日』読者会」にも投稿したが、公表の承認を得ることはできなった。(その後、8月2日に承認された)

◆公的資金の検証は納税者に許される当然の権利

さて、この事件を通じてわたしは、市民運動とジャーナリズムのあり方を再考した。市民運動を無条件に「正義」と決めつけていいのかという問題である。やはりちゃんと取材して、市民運動のやり方に問題があれば、それを指摘すべきだというのが、わたしの考えだ。

鹿砦社が『人権と利権』の企画を通じてColaboを検証対象にした背景には、この市民運動体が東京都から多額の公金を得ていた事情がある。しかも、その公金に対する住民監査請求が通った。最終的に東京都は、不正経理は無かったと結論づけたが、都の発表が真実とは限らない。住民の視点から公的資金の使途を再点検するのは納税者に許される当然の権利である。

ところが植村社長は、当事者を取材せずに、一方的に謝罪告知を行ったのである。市民運動体=正義という偏見と、『週刊金曜日』が多くの市民運動体に支えられている事情が背景にあるようだ。

◆過去のしばき隊の問題でもトラブル

実は、今回の事件と類似した出来事が過去にも起きている。これについて植村社長は、鹿砦社の松岡社長に送付した書面の中で次のように述べている。

2016年8月19日号の弊誌でも、今回と似たようなトラブルがありました。同号はSEALDs の解散特集でした。代表の奥田愛基さんと映画監督の原一男さんとの対談がメインで、表紙は両氏が並んでいる写真でした。その裏表紙には『ヘイトと暴力の連鎖 反原連─SEALDs─しばき隊─カウンター』と題する貴社の書籍の広告が掲載されていました。

「SEALDs を特集しておいて、SEALDs を叩く本の広告を載せている」などと、弊社は様々な批判を受けました。北村肇前社長時代のトラブルですが、その記憶は、弊誌の読者に強く残っており、私が社長になった後も、「鹿砦社の広告を出すべきではない」という批判の手紙などが私の手元や編集部に送られてくることもありました。

『週刊金曜日』に、鹿砦社の『ヘイトと暴力の連鎖 反原連─SEALDs─しばき隊─カウンター』の書籍広告を掲載した際に、同社に市民運動の関係者から批判が殺到し、それが今回の植村社長の方針にも影響しているというのだ。ただし、北村前社長は植村社長と異なり、外圧には屈しなかったが。

◆市民運動に対するタブー

『週刊金曜日』が創刊されたのは1993年だった。本多勝一氏らが中心になり、最初は日刊紙を創刊する方向で可能性を探っていたのだが、その壁は高く、前段として週刊誌を立ち上げたのである。当時は、広告に頼らないタブーなきメディアを目指す方針を打ち出していた。実際、既存のメディアが取り上げない事件を扱うようになった。ジャーナリズムとして一定の役割を果たすようになっていたのである。

記事の内容について抗議があった場合、反論を掲載する方針もあったように記憶している。「FB『週刊金曜日』読者会」が、わたしの投稿を受け付けなかったことからも明白なように、現在は、反論権の尊重という考えも捨てたようだ。

しかし、市民運動はそれほど崇高なものなのだろうか。もちろん模範となる市民運動が存在することも紛れない事実である。だが、問題を孕んでいる運動体があることも否定できない。たとえばしばき隊である。

周知のようにこの市民運動体は、2014年12月に大阪市の北新地で暴力事件を起こした。ニセ左翼という評価もある。被害者の大学院生は、鼻骨を砕かれるなど瀕死の重傷を負った。事件現場の酒場にいたリーダー格の女は、自分は暴行には加わっていないと逃げとおしたが、大阪高裁の判決で次のような事実認定を受けた。

被控訴人(リーダー格の女)は、Mが本件店舗に到着した際、最初にその胸倉を掴み、AとMが本件店舗の外に出た後、聞こえてきた物音から喧嘩になっている可能性を認識しながら、飲酒を続け、本件店舗に戻ってきたMがAからの暴行を受けて相当程度負傷していることを確認した後、「殺されるなら入ったらいいんちゃう。」と述べただけで、警察への通報や医者への連絡等をしないまま、最後は負傷しているMを放置して立ち去ったことが認められる。

被控訴人(リーダー格の女)は、本件傷害事件の当日、本件店舗において、最初にMに対し胸倉を掴む暴行を加えた上、その後、仲間であるAがMに暴行を加えている事実を認識していながら、これを制止することもなく飲酒を続け、最後は、負傷したMの側を通り過ぎながら、その状態を気遣うこともなく放置して立ち去ったことが認められる。

ところが『週刊金曜日』はこの事件をタブー視していて、事件の概要すらも報じていない。同誌の支援者にしばき隊の関係者が多いこともその原因かも知れない。

この事件を扱った『ヘイトと暴力の連鎖 反原連─SEALDs─しばき隊─カウンター』の書籍広告を『週刊金曜日』に掲載したところ、抗議が殺到したことは、先に植村社長の書面を引用して説明した通りである。

しばき隊の他にも、過激な市民運動は存在する。たとえば「喫煙撲滅運動」を推進している人々である。彼らは喫煙者に対して憎悪に近い感情を持っていて、自宅で窓を閉めて煙草を吸った住民に対して、4500万円の損害賠償を求める裁判を支援した。支援の具体的な方法として、たとえば市民運動のリーダーである医師が裁判の原告のために偽診断書を作成した。この診断書交付は、「裁判の中で医師法20条違反の認定を受けている。この事件については、拙著『禁煙ファシズム』に詳しい。

電磁波問題に取り組んでいる市民運動体の中にも、首をかしげたくなる運動体がある。たとえばAという団体は、体の不調の原因を全て電磁波のせいにする。本当の「電磁波過敏症」と精神疾患の区別もしない。誰でも自分たちの運動に巻き込んで、会員を増やして、会費(機関紙代)収入を増やす意図があるからだ。科学的根拠に基づいた情報発信とは無縁と言っても過言ではない。情報の信憑性という点でも鵜呑みにするのは危険なのだ。

わたしが観察する範囲では、有益な市民運動体がある反面、反社会的な性質をした市民運動体もかなり多い。となれば市民運動も当然ジャーナリズムの監視対象にしなければならない。

『週刊金曜日』は、創刊の原点に立ち返って、あらゆるものに対するタブーを排除すべきではないか。

【初出はデジタル鹿砦社通信】