1. 国連人権理が日本の「報道の自由」に警鐘、日本における言論統制の客観的な構図とは

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2017年11月15日 (水曜日)

国連人権理が日本の「報道の自由」に警鐘、日本における言論統制の客観的な構図とは

日本における報道の自由に対して、世界で懸念が広がっているようだ。時事通信が、14日付けで、「日本の『報道の自由』に懸念=5年ぶり審査で国連人権理」と題する記事を掲載している。

 米国は、放送局の電波停止権限を規定する放送法など「メディアに対する規制枠組みを懸念」しているとして、政府から独立した監督機関の設立を提言。オーストリアやブラジルなどもメディアの独立性や特定秘密保護法に懸念を示した。日本側は「政府が不当な圧力をかけた事実はない」と反論した。

  日本での報道の自由をめぐっては、人権理のデービッド・ケイ特別報告者が5月に調査報告を公表。特定秘密保護法や放送法の改正を勧告していた。

◇政府広報費でメディアコントロール

記事によると、政府は「不当な圧力をかけた事実はない」と反論しているが、報道に対する圧力は、直接的に観察できるものではない。電波停止権限を政府が握っている構図自体が、メディアに対する圧力なのだ。

この種の圧力は他にもある。たとえばメディア向けの政府広報予算である。政府広報費は、国内メディア向け(内閣府分)のものだけでも年間50億円を超えている。

政府に批判的な報道をすれば、内閣府は政府広報費をカットすることを仄めかすだけで、メディアをコントロールできる。それゆえに現在の広告依存型のメディアでは、ジャーナリズムに限界がある。したがって世論調査の数字などは、捏造されているという前提に立って論考すべきだろう。

本来、こうした問題はオープンに議論しなければならないはずだが、日本のメディア研究者は、基本的にそれを避け続けてきた。最も肝心な問題には、一歩も踏み込めないのが実情なのだ。言論の自由に関して世界から警告されたことの責任は、彼らにもある。

◇メディア企業に見る経営上の汚点

メディア企業のビジネスモデルに汚点があれば、それを口実に公権力から圧力をかけられるリスクが高まる。その結果、公権力の批判が出来ない。あるいは自粛する。こうした構図の具体例をもうひとつあげてみよう。

次の動画は、水増しされた折込広告が、段ボールに梱包されて、新聞販売店から搬出される場面を撮影したものである。

このような行為は、日本の新聞社のほとんどで日常化しいる。、明らかな詐欺行為である。筆者は、これを「折り込め詐欺」と呼んでいる。広告主が知らないだけで、あたりまえに行われてきた。当然、「折り込め詐欺」は、刑事告訴・刑事告発の対象となる。

かにり全国一斉に警察が「折り込め詐欺」を摘発すれば、新聞社は経営の基盤を完全に失ってしまう。倒産する社も続出するだろう。

新聞社と公権力の関係を、メディアコントロールという観点から客観的に見ると、公権力は「折り込め詐欺」を放置することで、新聞社やその系列テレビ局の報道に介入しているのである。新聞紙面やテレビ番組で政権を転覆させかねない政府批判を展開すれば、メディア企業は「折り込め詐欺」やその温床となっている「押し紙」問題を指摘され、経営基盤を失うだろう。

それゆえに公権力(この場合は、政府、警察、公取委、裁判所)は「折り込め詐欺」に対しても「押し紙」に対しても、メスを入れるよりも故意に放置する政策と取ってきたのである。莫大な「押し紙」関連資料が公取委の手に渡っているのに、公取委が動かないこと自体が不自然だ。この問題についてもオープンに議論すべきだろう。

◇議論の大前提として客観的事実の把握

余談になるが、このところ新聞社の衰退が再びメディアで話題になっているが、その根拠のひとつが、ABC部数の激減である。しかし、ABC部数の減少と新聞の衰退を結びつける論法は正しくない。と、いうのもABC部数には、「押し紙」が含まれているからだ。

筆者が販売店を取材した限りでは、激減しているのは、新聞の実配部数ではなく、むしろ「押し紙」なのだ。新聞の実配部数は微減である。高齢者の増加や死亡に連動して減っているのが実態だ。

新聞の衰退を象徴する最も大きな現象は、実は折込広告の激減である。折込広告の需要がなくなった結果、「押し紙」で生じる損害を、折込広告の水増し収入で相殺できなくなっているのだ。つまり従来のビジネスモデル-「押し紙」による折込広告の水増しで販売網を維持するモデル-が崩壊し始めているのである。これが新聞衰退の本質的な部分なのだ。

一体、新聞を論じる場合に、正確な実配部数を把握する作業を怠って、客観的な検証などできるはずがないのだ。ところがこのあたりまえのことを怠っているのが、日本の新聞学者である。議論の前提として、客観的なデータの把握が不可欠になるはずだが、「押し紙」をタブー視して、ABC部数=実配部数という完全に誤った前提で議論しているのだ。同志社大学教授の浅野健一氏ら少数の例外はあるが、肝心のこうした人々は大学からも排除されるようだ。