裁判官の不可解な人事異動-木村元昭・田中哲朗の両氏、対読売の真村裁判・平山裁判・黒薮裁判で
2002年に福岡地裁久留米支部で始まった真村訴訟とそれに関連して派生した2つの裁判-平山裁判、黒薮裁判-でも、裁判長の不可解な人事異動が記録として残っている。
真村訴訟というのは、YC(読売新聞販売店)と読売新聞西部本社との間で争われた地位保全裁判だ。読売がYCの真村店主に解任を通告したところ、真村氏(厳密には原告は3名)が起こしたものである。読売側の代理人には、喜田村洋一・自由人権協会代表理事らが就いた。
この裁判は真村氏の完全勝訴だった。争点となった「押し紙」政策の存在を裁判所が認定した。これについての詳細は、ここでは言及せず、福岡高裁判決の全文のみをリンクしておこう。
◇歴史に刻まれた木村元昭氏の名前
真村裁判の判決は2007年12月に最高裁で確定した。最高裁が真村氏の地位を保全したのだ。従って本来であれば、真村氏はYCの経営を持続できたはずだが、読売は判決が確定してから7カ月後に、真村氏を一方的に解任したのである。その結果、真村氏は再び地位保全裁判を起こさなければならなかった。これが第2次真村訴訟である。
第2次真村訴訟では、仮処分申立てと本訴が同時進行した。
仮処分の裁判では1審から最高裁での特別抗告まで、真村氏の勝訴だった。このうち第2審(福岡地裁・異議申し立て)を担当したのは、木村元昭裁判官だった。木村氏は、真村氏を勝訴させた直後、那覇地裁に転勤になった。
一方、本訴の審理も進み、福岡地裁の判決が出たのは、2011年3月15日だった。この時点で仮処分申立ては、第3審まで終わっていたので、地裁での本訴の敗訴は、第1次真村裁判が始まって以来、真村氏には初めての敗訴だった。
当然、真村氏は福岡高裁へ控訴した。が、控訴審がはじまってまもなく、裁判長が交代することになった。新しい裁判長は、那覇地裁から福岡に戻ってきた木村元昭氏だった。真村氏を仮処分申立ての第2審で勝訴させた判事だった。当然、真村氏は救われたような思いになった。
ところが控訴審の判決は、真村氏の敗訴だった。木村氏が執筆した2つの判決-仮処分の判決と本訴の判決-を読み比べてみると、実に興味深い。同じ人間が執筆したとは思えないほど正反対の判断をしているのだ。(詳細については、拙著『新聞の危機と偽装部数』の6章「人権問題としての真村裁判」に詳しい)
はからずも2010年代の裁判の不可解な実態が、「木村元昭」の名前と共に永久に記録されたのである。その意味では貴重な記録だ。
◇田中哲郎裁判官の登場
話は前後するが、第1次真村訴訟の判決が最高裁で確定したころから、読売はわたしに対する裁判攻勢に打ってでる。既に述べたようにわたしは、1年半の間に3件の訴訟を起こされ、約8000万円の金銭を要求されたのだ。読売の代理人弁護士として、この裁判の先頭に立ち、自分たちの主張の正当性を主張したのは、喜田村弁護士らだった。
そのころYC久留米文化センター前の平山春男店主も裁判に巻き込まれた。残紙を断った数カ月後に店主を解任されたのが原因だった。読売は平山氏に店主としての地位が存在しないことを確認する裁判を起こし、平山氏は地位保全裁判を起こした。この裁判でも喜田村弁護士が登場した。
平山裁判の裁判長に就任したのは、福岡地裁久留米支部から異動になった田中哲郎裁判官だった。実は、この裁判官は、第1次真村裁判の判決を下した人であった。真村氏を勝訴させた人である。その人物が平山裁判の裁判長に就任したのだ。
◇田中判事から木村判事へ判事へバトン
平山裁判が進行していた2011年の秋、わたしは読売を反訴した。さらにその後、読売がわたしに対して3件目の裁判を起こしたのを機に、わたしは読売に対する請求内容を変更し、3件の裁判が「一連一体の言論弾圧」であるという主張の裁判を起こした。請求額は5500万円だった。
ところがこの裁判は、途中から裁判長が田中哲郎氏に変更になった。
読者は、おそらく判決の結果を想像できるだろう・・・・。平山裁判も黒薮裁判も読売の勝訴だった。田中哲郎氏に至っては、わたしに対する本人尋問すら認めなかった。わたしの陳述書も最初は受け取ろうとはしなかったのだ。そのために江上弁護士ら弁護団は、田中氏に対する忌避を申し立てたのである。
わたしは福岡高裁へ控訴した。そこに登場したのは、木村元昭裁判官だった。木村氏がどのような判決を書いて、わたしを敗訴させたかは、別に述べる機会があるかも知れない。
読者は最高裁事務総局が決めた人事に不可解なものを感じないだろうか?