1. 「強者」が「弱者」を裁判にかける時代の到来、スラップと訴権の濫用を考える、エリートによる歪なイジメ

司法制度に関連する記事

2018年02月12日 (月曜日)

「強者」が「弱者」を裁判にかける時代の到来、スラップと訴権の濫用を考える、エリートによる歪なイジメ

昨年末から今年にかけて名誉毀損裁判が続発している。橋下徹、松井一郎、、見城徹(幻冬舎)、朝日新聞・・・・。次から次に裁判が起きている。こうした現象を危惧する人々の間では、これらの裁判を広義にスラップ訴訟と呼んでいる。

しかし、厳密にいえば、スラップ訴訟とは、「公共性のある言論活動に対抗するための戦略的な訴訟」のことで、名誉毀損裁判の全てがスラップというわけではない。日本でスラップと呼ばれている裁判の中には、むしろ訴権の濫用の色合が強いものもある。

訴権の濫用やスラップの何が問題なのだろうか。

発言力を持っている「公人」が裁判提訴により、自分よりも立場の弱い個人なり団体を法廷に立たせる異常。

何の発言力も持たない個人や小企業が、報道などで名誉を毀損された場合、裁判を起こして名誉の回復を図ることは当然の権利である。裁判以外にほとんど名誉を回復する機会がないからだ。

ところが日本では、発言力や影響力のある「公人」が弱者を名誉毀損裁判の法廷に立たせるケースが増えている。こうした行為は異常の極みといえよう。

なぜ異常なのか。たとえばボクシングのモハメード・アリがアマチュアのボクサーをリングに上げて対戦し、それを審判が判定する光景を想像してほしい。こんなことは起こりえないが、 もし、起こればアリの評価は地に落ちてしまうだろう。違法行為ではないが、アリ本人はもとより、この試合に荷担した人々の品性や人間性も問われ、大問題になるだろう。著名人や大企業による名誉毀損裁判についても同じである。

言論活動が引き起こした「喧嘩」の仲裁を裁判所に御願いする異常。

出版関係者の誇りとは、言論活動で自分の言論の正当性を主張することである。それを放棄して、裁判所に「喧嘩仲裁」を委ねるのは、自分の職能に限界を感じているからだろう。さもなければ、裁判による言論抑圧が目的ではないか。確かに訴権は憲法で保障されているが、だからと言ってそれを濫用していいことにはならない。

メディア企業が他のメディア企業を裁判の土俵に上げるのは、本気でジャーナリズム活動を展開していないからではないか。商業出版社としての認識しかないのだろう。ジャーナリズムで戦うという考えが欠落している可能性が高い。思想そのものが一般の大企業のような感覚ではないかと想像する。

言論を抑圧する国策との関係

安倍政権の下で、特定秘密保護法や共謀罪など言論を抑圧するための法案が次々と成立し施行された。息苦しい時代が始まっている。こうした動きと連動して、「強者」による名誉毀損裁判の提起が増えている事実は重い。裁判を起こした者に、このあたりの認識があるのかどうかは不明だが、安倍首相との人脈や彼らの思想的な傾向から考えて、認識しているのではないかというのが筆者の推測だ。少なくとも、特定秘密保護法や共謀罪の性質ぐらいは知っているだろう。

維新の会が「反自民」よりも、「反共」であることは周知の事実である。大阪都構想に象徴されるように、自民党以上に新自由主義の政党だ。

また、次のような日経新聞のデータもある。

◎2013年3月22日/首相動静
19時18分 公邸でテレビ朝日の早河洋社長幻冬舎の見城徹社長ら。菅長官が同席。

もっともこのデータでは、何を話したのかは分からないが。

言論を抑圧する空気に対して、市民が声をあげなければ、日本は物が言えない国になってしまう。対抗する方法は、知的な「ゲリラ戦」も含め、いくらでもあるだろう。