『〈大国〉への執念 安倍政権と日本の危機』、史的唯物論に基づいた安倍政権論
政治家や政策をどう評価するのかという問題を考えるとき、個々人の歴史観が決定的な影響を及ぼすことは論をまたない。政治家個人の資質により、あるいは偶然の運命により、世界は変革されると考える人(英雄史観)は、NHKが得意とする「その時歴史は動いた」のような番組を制作することになる。
「安倍首相を退陣させれば、日本は変わる」と考えるのは誤った解釈である。
一ツ橋大学名誉教授・渡辺治氏による一連の政治評論は、英雄史観とは対極の歴史観(史的唯物論)に基づいて現代の政治を客観的に分析している。
『〈大国〉への執念 安倍政権と日本の危機』(大月書店、渡辺治・岡田知弘・後藤道夫・二宮厚美)の中にある「安倍晋三個人と安倍政権-歴史における個人の役割」と題する章には、渡辺氏の歴史観が色濃く反映している。
安倍政権が、戦後政治を転換させる大国化を掲げたことに関して、マスメディアの安倍報道にも大きな特徴が現れている。メディアは、とくに安倍政権に批判的な姿勢や意見の持ち主であればあるほど、安倍政権の政治を安倍晋三個人の復古的、タカ派的体質に求める傾向が極めて強いということだ。たとえば、『朝日新聞』をはじめとした紙面の安倍評価では、安倍さえ引きづり下ろせば安倍的政治は止まると考えているふしが濃厚にみられるのだ。
たしかに、安倍政権における安倍晋三個人の果たす役割はきわめて大きい。決定的ともいえる。しかし、安倍政権の政治を安倍の思いつきに起因するととらえることは、その背景にあるアメリカやグローバル企業の要請を決定的に過小評価することになる。安倍がいなくなったところで、それに代わる政治をめざす対抗構想との担い手が力をもたなければ、政策実行のスピードを落とすことはできても、第二、第三の安倍が出てくるにすぎない点を見ていない。
政策決定の背景に安倍首相個人の意思よりも、財界が望む方向性を中心に据えた政策があるという見方である。つまり1990年代の初頭から始まった新自由主義と軍事大国化の流れが、安倍政権の政策を決定しており、安倍首相個人の極右的な言動は本流ではないとする見方である。
◇構造改革の時代-小泉政権論
このような観点から著されたものは、『〈大国〉への執念 安倍政権と日本の危機』だけではない。たとえば『構造改革の時代-小泉政権論』(花伝社)でも、政治家個人の思想と「時代の要求」について、次のように述べている。
しかし、ここで急いで付け加えておかなければならないことは、小泉は、九〇年代初頭に支配層が既存の小国主義と開発主義の政治を再編して、軍事大国化と構造改革を凶暴に始めようとした時代(黒薮注:新進党の時代を意味する)には、その遂行を担う政治家とはなれなかっただろうということである。
小泉はあくまで、構造改革、軍事大国化が第二段階に入ってその加速化が求められるにいたって初めてハイライトを浴びる政治家となりえたのである。
なぜ、ドラスチックな構想改革を断行するために、小泉議員がうってつけだったのだろか。渡辺氏は言う。
第一に、小泉は政治家の三世であり、一世の政治家のように、地元の住民の意思に敏感に反応したり後援会の維持・培養に腐心する必要はなかった。したがって、構造改革により地方や自らの支持基盤に大きな打撃と困難をもたらすことにさほど痛痒を感じることなく、「大胆に」、かつ断固として既存階層の利益を切り捨てることができたのである。
これが、小泉のもっとも得がたい特質である。自民党の安定した社会統合を支えてきた周辺部の支持基盤を冷酷に切って捨てる改革ができるのは、民主主義の下ではなかなか大変だからである。
こうした小泉の資質は、「ブレない強さ」としていわれるが、政治家が、構造改革のような、諸階層の利益の削減を「ブレずに」やれるというのは、こうした住民の感情や利益に鈍感であることを意味する。急進的な構造改革の遂行期にはこうした鈍感な政治家が求められるのである。
歴代首相の個人的な政治信条とは別に、時の権力者たちが構築しようとしている社会のかたちが政策を決める大きな要素になるとする観点から見ると、安倍内閣が目指しているのは、小泉構造改革の後、一旦、停滞していた軍事大国化と新自由主義の流れを再び加速させることである。それを断行するに、安倍議員が適任だったということではないだろうか。
安倍首相は、日本を旧来の軍事大国に戻そうとしているわけではない。米国との連携により、多国籍企業防衛のための派兵を、ピンポイントに断行できる体制を目指しているのである。
ちなみに安倍内閣が重視している極右的な愛国心を養う教育は、国際競争の時代が求めていると考えれば説明が着く。国対抗の競争を勝ち抜くには、愛国心があった方が有利になるからだ。