1. 【書評】『抵抗と絶望の狭間』、半世紀を経た現在の視点、連合赤軍事件は日本の「組織思想」が招いた悲劇

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2021年12月22日 (水曜日)

【書評】『抵抗と絶望の狭間』、半世紀を経た現在の視点、連合赤軍事件は日本の「組織思想」が招いた悲劇

本書の冒頭インタビューで中村敦夫氏は、思い立ったらとにかく現場へ行く重要性について、次のように述べている。

「そこへ行くと行かないでは大違いで、行って目的が失敗したとしても、損ということはないですよね。もの凄く学ぶっていうことが残るわけです。だから、行動するときは迷わないですよね。反省はあとですればいいんだから、最初から反省してやらないというのは、人間が全然発展しないですよ。痛い目に遭うのだって勉強ですから。」

『抵抗と絶望の狭間』は、1960年代後半から1970年代にかけた時代を検証するシリーズの第4弾である。(関連図書を含めると第5弾)。戦後史の中で、この時期に津波のように日本列島に押し寄せた社会運動の高まりと、その後の衰退現象の検証を避けて通ることはできない。当時の社会運動やそれに連想した文化を肯定するにしろ、否定するにしろ、社会が激しく動いていたことは紛れない事実であるからだ。当時、小学生だった筆者も、テレビを通じて、日本でなにか新しい流れが生まれている予感を持ったものだっ

その激動の現場へ飛び込んだ人々が、半世紀を経た現在から、当時を検証したのが本書である。時代が執筆者たちの現在の生き方に何らかの影響を及ぼしていることが読み取れる。

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本書では、トラウマのように死の記憶がよみがえる。学生運動家の死であったり、機動隊員の死であったり、死者の記憶が影を落としている。

重信房子氏は獄中から、連合赤軍事件で命を落とした遠山美枝子氏の思い出を回想している。

「一九七一年二月二十八日、羽田空港からレバノンのベイルートに私が飛び立つ日の朝、空港に隣接する東急ホテルのラウンジでコーヒーで乾杯した別れが最後の別れになってしまいました」

その後、重信氏はパレスチナの闘いの中で、「日本の赤軍派との関係を絶ち、日本の闘う人々にとっての『国際部』として活動しよう、国際主義を堅持して進もう、と。」方向転換を図る。連合赤軍事件を知ったときは、「同志愛のない隊伍は成功しないこと、人民や同胞、同志の愛情と希望がパレスチナ解放闘争の中で、どんなに命を大切にしているか、日本に伝えようと語り合」ったという。

最も興味深いのは、現在の視点である。重信氏は言う。「『連合赤軍事件』は、日本社会の縮図の一面を持っています。上の者が言うことは、おかしいと思っても忖度したり自己納得させて唯々諾々と従ってしまう『組織思想』にそれは現れています。事態が極限の余裕のない中では、かつての日本軍ばかりか、財務省の公文書改ざん「赤木ファイル問題」にも、また、現在の会社など様々な組織にも、表れています。トップが過ちを犯せば善意の人々も歯止めない事態を招く日本の伝統的な文化と化した無責任なあり方と共通しています。」

重信氏は、来年、20年の刑期を終え、「亡命」から戻ってくる。

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「地方大学の一九七一年」を寄稿した山口研一郎氏は、自身と社会運動との最初の接点について、「六五年長崎県立高校へ入学して二年半ほど経た六七年十月、『京大生の山崎博昭さん、羽田にてデモ中死亡』のニュースが流れてきた。世の中の動きについて全く関心を持たなかった私たちにとって、『同世代の青年が何のために死亡したのか?』との素朴な疑問が沸いた」と述べている。

山口氏は予備校生だった時代から社会運動にかかわりはじめた。長崎大学医学部へ入学した後は、「自治体活動の傍ら、学園を飛び出し外の世界を見る、彼の地に住む人々と接し語り合うことを試みた」。その姿勢は、50年を経た今も変わらない。現在、長崎大学で進んでいる生物兵器の研究所にもなりかねない施設の建設に反対する運動に取り組んでいる。その原点に自らが体験した社会運動がある。山口氏は、現在の世相を次のように批判している。

「七〇年代の私たちの闘いは『市民と共に、市民に学ぶ』ものであった。現在、市民が大学を相手取り厳然と闘いに挑んでいる時、大学側から一人として手を差し伸べる学生や教官が出てこないのは極めて異常である」

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鹿砦社代表の松岡利康氏の「私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?」からは、組織内暴力に対する批判が行間に読み取れる。「連合赤軍事件があったり、内ゲバが激しくなったりして、それまで曲りなりにもあった学生運動への一般市民や一般学生の理解も失くなった」。それから半世紀、鹿砦社は、民族差別に反対するカウンター運動の中で内ゲバに巻き込まれた大学院生の救済に乗り出す。

その背景について、松岡氏は次のように述べている。「私の所に辿り着くまで被害者は放置され正当な償いも受けずに『人権』を蔑ろにされてきた。かつて学費値上げに怒りを覚えたのと同様に怒りがこみ上げてきた。私の怒りはシンプルだ。悪いことは悪い!」。「私にとって五十年前に学費値上げに抗議したことと集団リンチ問題に関わることは同じ〈位相〉なのだ」。

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本書を通じて筆者が初めて知った事実もある。たとえば空手部など体育系のクラブがスト破りに動員されていたこと。機動隊員らにも捕虜となり手錠をかけられていた者がいたこと。学生運動家から日本を代表するビジネスマンが誕生したこと。そして筆者にとってなによりも意外だったのは、テレビのワイドショーで引っ張りだこのジャーナリスト・田崎史郎氏が三里塚闘争の闘志だったことである。

本書から、現場へ飛び込んだ人々の半世紀が浮かび上がってくる。

田所敏夫氏の「佐藤栄作とヒロシマ(一九七一年八月六日の抵抗に思う)」については、被害者の感性という観点から、別の機会に取り上げたい。

///////////////////目次////////////////////////////

中村敦夫:ひとりで闘い続けた(俳優座叛乱、「木枯し紋次郎」の頃)

濱志喜朝一:本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
--そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは否定する

松尾眞:破防法から五十年、いま、思うこと

椎野礼二:ある党派活動家の一九七一年
--極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過度

柴田勝茂:或ル若者ノ一九七一年 三里塚

小林達志:幻野 一九七一年

田所敏夫:佐藤栄作とヒロシマ
--一九七一年八月六日の抵抗に想う

山口研一郎:地方大学の一九七一年
--個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い

板坂剛:一九七一年の転換

高部務:一九七一年 新宿

松岡利康:私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?

板坂剛:民青活動家との五十年目の対話

長崎浩:連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに

重信房子:遠山美枝子さんへの手紙

【年表】一九七一年に何が起きたのか?

【年表】連合赤軍の軌跡

「7・6事件」とは何だったのか?: 鹿砦社編集部

重信房子:『一九七〇年 端堺期の時代』を読んで

中島慎介 「7・6事件」再考
--新たな証言を元に、さらに真相究明に務める!

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タイトル:抵抗と絶望の狭間-一九七一年から連合赤軍へ

編集:鹿砦社編集部

版元:鹿砦社