1. 【書評】『敗れざる者たち』、元オリオンズ榎本喜八の悲劇、あふれる「異端者」への敬意

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2018年07月31日 (火曜日)

【書評】『敗れざる者たち』、元オリオンズ榎本喜八の悲劇、あふれる「異端者」への敬意

プロスポーツの選手は、肉体の衰えにともない、老年に達する前に第2の人生に踏み出すことを強いられる。栄光の舞台を降りた後、彼らはどのような人生を体験したのだろうか。

『敗れざる者たち』は、6人のスポーツ選手に焦点をあてた6編の中編ノンフィクションを収録している。ボクシングの世界で卓越した才能に恵まれながら、優しさゆえに世界王者になれなかったカシアス内藤、東京五輪のマラソンで3位に入賞し、メキシコ五輪で金メダルを期待されながら自ら命を絶った円谷幸吉・・・・。

6編の中でとりわけ印象深いのは、プロ野球の元オリオンズ・E選手の悲劇を描いた『さらば 宝石』だ。Eは、引退後はさっぱり表舞台に現れなかったが、現役時代には長島茂雄にほとんど劣らない成績を残している。

【安打数】
長島:2471本
E:2314本

【打率】
長島:0.305
E:0.298

2人の明暗を分けたのは何か?

Eは野球史上に残る名選手だった。しかし、どの球団もバッティングコーチとして、引退後の彼を抜擢しなかった。それか原因なのか、それとも他に何かわけがあったのか、Eは引退後も、復活を目指して現役時代と同じように厳しい練習を続けていたという。回りの人々は、Eが精神錯乱を起こしていると噂するようになり、ますます距離を置くようになった。

日本には、異質な考えを受け入れない風土が根強く残っているが、榎本のパッティング観にも、一種独特のものがあった。武士道の影響が強く、Eにとってバットを振ることは、「練習」ではなく、「けいこ」だった。

 オリコンズ担当記者の高山智明は、かなり親しくなったあとで、Eがよくこう呟いていたことを記憶している。
《体が生きて、間が合えば、必ずヒットになる》
 会心のミートで飛んだ打球が、記録上のヒットになるか野手の正面をつくかは運の問題だ。そして、それはさして重要なことではない、とEは考えていた。ダッグアウト中で、4打数3安打なのに《4の1か》と呟いたり、4打数ノーヒットなのに《4の4だ》と喜んでいるEを、オリオンズのナインはよく見ている。彼にとっては、テキサス安打やコースがよく転がって外野に抜けた安打など、ヒットではなかったのだ。「体が生きて間が合」ったものだけが、彼の心の中の、真のヒットだったのだ。
《ボテボテでも、テキサスでも、4打数4安打なら誰でも喜びますよね。ビールでも飲んでツキを祝うんだけど、Eさんは違うんですね。部屋の中でグリップを握って、じっと考え込んでいるんですよ。どうして打てなかったんだろうといって。打てないといっても4の4なんですよ」

Eの性格的なものもあったのか、Eの奇行はエスカレートして、どんどん孤立を深める。現役を退いた後も、1日に3時間も走るなど、厳しい練習に明け暮れる。引退後も、巨人軍の監督を務めるなど、野球界の重鎮であり続けた長島とは対照的な道を歩んだのである。

しかし、作者は長島よりも、Eの生き方に強く心を揺さぶられているように感じられる。作品の最後に敬意を込めて、Eの名前が明かされる。

あるいは、彼が求めているのは、ヒットの中のヒット、完璧なヒットという幻なのかもしれない。必死に走り続けていたE--榎本喜八の姿が眼に浮かんだ時、ふとそう思ったりした。

タイトル:『敗れざる者たち』(文春文庫)
著者:沢木耕太朗
版元:文藝春秋