中米グアテマラで進む戦争犯罪の検証、ジェノサイド作戦を指揮した元軍人18人を逮捕
軍事政権の時代に住民に対するジェノサイド(皆殺し作戦)を指示するなど著しく人権を侵害した当時の軍事政権の元大統領に対して、禁固80年の刑罰を課すなど、急激な社会変革を遂げている中米グアテマラ。そこで、また新しい動きがあった。キューバのプレンサ・ラティナ(Prensa Latina)紙などの報道によると、グアテマラ警察は、恩赦により刑罰を逃れていた18人の元軍人を逮捕した。
戦争犯罪を検証した結果である。
同国の検事総長の報告によると、逮捕された軍人らは、1981年から88年までの間に、グアテマラ北部のアルタベラパス県のコバンで、武器を持たない住民に対して、誘拐、拷問、レープ、などありとあらゆる人権侵害を行ったという。
発掘された558体の遺体には、90人の子供と3人の老人が含まれていた。遺体には拷問の証拠といえる猿ぐつわの跡、胸部の銃弾跡、首筋に刻まれたナタの跡、それに鎖の跡などが残っていた。
◇ラテンアメリカで最も古い内戦
グアテマラは1960年から1996年までの36年間、内戦状態にあった。ジャーナリズムの視線を釘づけにるすような激しい銃撃戦が都市部で交わされていたわけではなかったが、北部の山岳地帯では銃声が止むことがなかったのである。ニューヨークに本部を置く人権擁護団体・Human Rights Watch's の報告によると、内戦の死者は約20万人。その大半は、政府軍による戦闘とテロによるものである。
グアテマラは、第2次世界大戦後、ラテンアメリカで最初に米国の傀儡(かいらい)政権に対するゲリラ活動が始まった国である。その引き金となったのは、1954年の米国CIAによる軍事クーデターだった。
内戦が勃発するまでの10年、グアテマラはリベラル右派の政権であった。ところが当時の政府が農地改革のプロセスの中で、米国の多国籍企業、UFC(ユナイティド・フルーツ・カンパニー)の土地に手を付けたとたんに、UFCとCIAの謀略による軍事クーデターが起こり、その後、極めて強権的な軍事政権が敷かれたのである。将軍たちが国を牛耳るようになったのである。
これに対抗して山間部で解放戦線が組織されて行った。内戦が大きな転機を迎えるのは、1980年代である。79年にニカラグアのサンディニスタ(FSLN、サンディニスタ民族解放戦線)が、ソモサ王朝を倒し新政権を打ち立てると、新生ニカラグアの風に押されるように、エルサルバドルの5つのゲリラ組織が統一してFMLN(ファラブンド・マルティ民族解放戦線)を結成し、首都へ向けて大攻勢をかけた。
あせった米国のレーガン政権は、ホンジュラスを米軍基地の国に変え、そこから地理的な利点を利用して、ニカラグア、エルサルバドル、それにグアテマラに対する本格的な軍事的介入へ乗り出したのである。
こうした状況の中で、グアテマラは「殺戮の荒野」と化し、ゲリラに親和的なグアテマラ先住民族に対するジェノサイド作戦が大規模に断行されたのだ。
とはいえ1980年代の初頭にグアテマラの軍事政権が標的にしてのは、先住民だけではない。先住民は言うまでもなく、カソリック教会のリーダー、大学教授、ジャーナリストなども標的になっている。
国際政治の表舞台に出て、ジャーナリズムの光が当たっていたニカラグアとエルサルバドルとは異なり、グアテマラ内戦は、ほとんど報じられなかった。しかし、米国の映像ジャーナリストたちが、素晴らしい記録を残している。(冒頭と文末のYouTube参照)
◇戦争犯罪の検証
1996年に和平が成立した。その後、長い歳月を費やして戦争犯罪の検証が進んだ。2014年には、1980年代の初頭に大統領職にあったグアテマラ軍の元将軍リオス・モントに対して禁固80年の判決を下した。
しかし、和平の条件として軍人に対する恩赦があるために、憲法裁判所が再審の決定を下した。裁判は現在も続いている。
その後、2015年の1月、グアテマラの裁判所は、当時の警察トップに対して、禁固90年の判決を下した。これは、1982年のスペイン大使館焼き討ち事件に連座したものである。先住民族と学生37人が、軍による暴力を世界にむけてアピールするために、スペイン大使館に駆け込んだところ、軍が大使館のドアと窓を釘付けにして放火し、館内にいた人々を皆殺しにしたのである。生存者は、大使会員を含めて2人。事件後、スペインはグアテマラとの国交を断絶した。この事件の責任を問われたのだ。
今回の18人の元軍人の逮捕も、こうした民主化の流れの中で可能になったものである。
■グアテマラ内戦の記録・When the Mountains Tremble
※冒頭の動画:グアテマラ民族革命連合(URNG)の支配地域