1. 今も生き続ける2人の死者-アジェンデとネルーダ、チリの軍事クーデターから41年

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2014年09月11日 (木曜日)

今も生き続ける2人の死者-アジェンデとネルーダ、チリの軍事クーデターから41年

   1973年9月11日、ひとりの大統領がファシストの銃弾に倒れた。
   その時、彼は64歳、チリで最も情熱にあふれた青年だった。

「今も生き続ける2人の死者」とは、1982年のノーベル文学賞の受賞者で、『百年の孤独』(新潮社)などの作品で知られるガルシア=マルケスが『チリ潜入記』(邦訳・岩波新書)の中で、使った表現である。

1973年の9月11日から、41年の歳月が流れた。

今回紹介した動画『戒厳令下チリ潜入記』は、73年の軍事クーデターの後、国外へ亡命した映画監督、ミゲル・リィティンが、86年にチリに潜入してピノチエットによる軍事政権下の祖国を撮影したものである。日本語版は「上」「下」に分かれていて、よりインパクトが強い「下」をあえて冒頭で紹介した。

ちなみに潜入取材の方法は、CM撮影を口実にして、ヨーロッパの3つの撮影チームを合法的にチリに送り込む一方で、リィティン監督がパラグアイ籍のビジネスマンに変装し、偽のパスポートを使い、空港から堂々とチリに入国して、撮影を監督するという大胆なものだった。ジャーナリズムにおける「違法行為」の正当性を印象づける典型的な手法である。

『チリの記録』(下)は、おおむね3つの構成部分からなっている。

①故パブロ・ネルーダが詩を書いたイスラネグラの家(0:40~)

②FPMR(マヌエル・ロドリゲス愛国戦線)との会見(3:00~)

③サルバドール・アジェンデの最後の数時間(6:55~)

◇サルバドール・アジェンデ

圧巻は③である。
9月11日の朝、アジェンデは軍部から、命と引き替えに政権を明け渡して、海外へ亡命するように勧められる。アジェンデはこれを拒否。国民に向けてラジオで最後の演説をする。その後、空軍による大統領官邸への無差別爆撃で命を落とす。

『戒厳令下チリ潜入記』は、最後の数時間をアジェンデがどう生きたかを、当時、行動を共にした秘書、主治医、それに親交が深かったフィデル・カストロ、ガルシア=マルケスといった多様な人々の証言で再現している。

アジェンデの死については、自殺説が有力視されていた時期があったが、『戒厳令下チリ潜入記』の証言を聴く限りでは自殺ではない。

チリはイギリスの影響で、ラテンアメリカで最も議会制民主主義が発達した国だった。1970年に成立したアジェンデ政権は、世界ではじめて、選挙によって成立した左翼政権(社会党、共産党)である。それまでは、ロシア革命、中国革命、キューバ革命など、武力による革命が世界史のページを綴っていたのである。

チリの左傾化が進むと、米国CIAによる介入がはじまり、経済封鎖だけではなくて、「資本家によるストライキ」が勃発するなど経済が混乱に陥る。しかし、73年の総選挙で与党が勝利すると、合法的にアジェンデ政権を倒せないことが明白になり、CIAと軍部は軍事クーデターに走ったのである。

日米関係を考える時も、米国が海外でどのような殺戮(さつりく)を繰り返してきたかを考える必要がある。ぼんやりしていると民主主義や自由は簡単に崩壊してしまう。

◇パブロ・ネルーダ

パブロ・ネルーダは、ラテンアメリカ文学を代表する大詩人である。1970年度のノーベル文学賞受賞者。外交官としてスペインに赴任していた時期に、当時、詩人のガルシア・ロルカらと親交を深め、フランコに反旗を翻していたスペイン人民戦線を支援して解任された。

わたしが初めてパブロ・ネルーダの詩を読んだのは、高校を卒業した次の年、軍事クーデターから数年後だった。日本でも『ニクソンサイドの勧めとチリ革命への賛歌』(大島博光訳)が紹介され、たまたま図書館の新刊棚にあったのを借りて読んだのが最初だった。

読後、詩と詩人のイメージが覆ってしまった。それまで詩や詩人は、「ひ弱な世捨て人」という印象があった。典型例としては、たとえば、

閑さや岩にしみ入る蝉の声(松尾芭蕉)

ところがパブロ・ネルーダの詩は、こうした美観・芸術感とは対極にある。『ニクソンサイドの勧めとチリ革命への賛歌』の冒頭の詩は、

やむにやまれぬ わが祖国への 愛から
おれは きみに訴える 偉大な兄貴よ
指も灰色の ウォルト・ホイットマンよ

血まみれの 大統領 ニクソンを
詩の力で うちのめしてやる そのために
すばらしい きみの助力を かしてくれ

(略)

吟遊詩人よ やってきて はげましてくれ
おれは テロリストの 蛆虫(うじ)どもにたいして
十四行詩で武装した詩人の義務を 引きうけるのだ

(略)

詩人とは何か?
心の中に芽生えたこの自問は、その後、1987年にメキシコへ行ったときに再燃した。借りていたアパートの持ち主が、グアテマラから亡命してきた医者だった関係で、時々、この医者と話す機会があったのだが、当時、激化していたニカラグア内戦に話が及んだとき、医者は自分が受けたファシストによる迫害とニカラグアの人々の苦痛を重ねあわせて、こんなふうにつぶやいたのである。

「ニカラグアの人は、みんな詩人ですよ」

ラテンアメリカの人々にとって詩人とは、不当な事に対しては屈しない人のことを意味する。その意味では、サルバドール・アジェンデも詩人だった。

とはいえ、ネルーダは革命詩だけを書いたわけではない。ガルシア・マルケスの『チリ潜入記』によると、魔法使いのようにあらゆるものを詩に変えていったという。

ネルーダは、軍事クーデターの後、白血病が悪化して亡くなった。リィティン監督は、ネルーダがかつて詩を書いたイスラネグラの家を訪ねる。そこで目撃したものは・・・・

    そこには禁令と闇を突き破って、
  ネルーダに宛てた恋人たちのメッセージが書かれている。
  ひとつひとつの木片に情熱と政治的プロテストがとけあった無数の愛のメッセージが書き付けられてた。
    「君は自由を愛した、だから君を忘れない、パブロ」

◇FPMR(マヌエル・ロドリゲス愛国戦線)

FPMRは軍事政権の下で、武装闘争を展開していた組織である。「愛国」という名前が付いているが、チリの伝統だった民主主義を取り戻すことが彼らにとっての「愛国」である。

参考:前編