1. ニカラグア革命34周年  1984年の取材と2008年の裁判による取材中止

ラテンアメリカに関連する記事

2013年07月19日 (金曜日)

ニカラグア革命34周年  1984年の取材と2008年の裁判による取材中止

中米のニカラグアは、7月19日、34回目の革命記念日を迎える。1979年の7月17日の明け方、独裁者ソモサが、自家用ジェットでマイアミへ亡命した。その2日後の19日、FSLN(サンディニスタ民族解放戦線)が首都マナグアに入城して新生ニカラグアが誕生した 。

わたしが最初にニカラグアを取材したのは1985年で、最後に取材したのは1995年である。2008年に取材を予定していたところ、読売新聞社(渡邊恒雄主筆兼新聞文化賞受賞者)から3件の裁判を仕掛けられて、取材は中止に追い込まれた。同じ出版人から、このような妨害を受けるとは、夢にも思わなかった。

すでに18年もニカラグアの土を踏んでいないわけだから、わたしにはもはや現在のこの国について語る資格はない。せいぜいラテンアメリカから発信させるニュースを紹介するのが精いっぱいだ。

それにもかかわらずニカラグアは、わたしの原点である。わたしがルポルタージュを書こうと思って対象にした最初の国であるからだ。

取材といっても、公式のルートで取材先を紹介してもらい、それに沿ってインタビューをしたわけではない。わたしは公式の会見で発せられる言葉をほとんど信用していない。初対面の記者に対して、会見者がいきなり真実を語ることは、まずありえないからだ。

バイアスがかかっていると考えて間違いない。特に心に傷を負った人の中には、コミュニケーションの手段をみずから断ってしまうことも珍しくない。会見者の話はステレオタイプのことが多い。

◆取材の糸口が偶然に

既に述べたように、はじめてニカラグアを取材したのは1985年である。 それまで戦中の国に足を踏み入れた体験はなかった。そのためにニカラグアのあちらこちらで、銃撃戦が行われているかのようなイメージを持っていた。(実際に戦闘があるのは、山間部)。マイアミの空港へ向かう前から体がこわばり、身体の内部が震えているような感覚に襲われた。

焦りは慌てにつながる。そのためかわたしは早々にニカラグア航空のカウンダ―で登場手続きを終え、ゲートへ向かった。が、あまりにも時間が早かったので、客の姿はなかった。だだっぴろい待合エリアにいるのは、わたし一人だった。

しかし、わたしは早く空港へ到着したために、偶然にも極めて貴重は取材の糸口を掴むことになる。

まもなく待合エリアに40歳ぐらいの小太りした男性が、老人の手を引いて姿を現した。老人の歩き方はおぼつかない。病気だと分かった。やがて2人はわたしに近づいてきた。後に、この2人は親子であることが分かった。

「すみません、ニカラグアへ行きますか?」

息子さんがわたしに尋ねた。

「はい」

「これはわたしの父なんですが、目が見えないんです」

「・・・」

「ニカラグアの空港まで面倒をみてやってくれないですか」

「いいですよ」

2人の表情が和んだ。

「内戦はどんな様子ですか」

わたしが尋ねると、息子さんが顔に笑みを浮かべ、腰のあたりで機関銃を構えるポーズを取った。

「戦争だ」

「・・・」

「大丈夫だよ」

マイアミからニカラグアのマナグアまでは3時間の飛行だ。眼下にカリブ海が広がっていた。濃い緑の海が延々と広がっていた。海原の向こうにまた海原が広がっている。波間に光の粒が反射する。

◆われらがラテンアメリカ

わたしは30数年前にグラマン号で光の海を渡ったチェ・ゲバラやフィデル・カストロのことを思った。それはわれわれの世代が失った「冒険」と「挑戦」だった。同時にニカラグアの革命も、ラテンアメリカの先祖たちが歩いてきた道の延長線上にあるのだと思った。

操縦室の扉の前に戦闘服を着て銃を持った兵士が、尻もちをついて座っている。こんな光景を見るのも初めてだった。

ニカラグアに到着して、わたしは盲目の老人の手を引いてタラップを降りた。熱風のなか老人の手を引いて、徒歩で空港ビルに向かった。入国手続きを終え、空港のロビーに入ると老人の家族と思われる人々が近づいてきた。

「あんた、今夜、泊まるところはあるのか?」

「これからホテルを探します」

「うちに来なさい。泊めてあげるから」

われわれは乗合バスで空港を後にした。夜の帳が下りていた。その中に人々の鋭い眼が光っているような気がした。広がっているのは、貧困の光景だった。民家というよりも、ブリキや板切れの小屋が点在している。これが革命を経た国かと思うと衝撃を受けた。

ニカラグアの民家は、窓も戸口も開けっ放しにしているので、通りからでも中の様子がよく見える。老人の家に到着し、一息ついて、家族の人々が口にしたのは、驚いたことに、FSLNの批判だった。反体制派の家に紛れ込んでしまったのではないかと思った。

「じわじわと共産主義が近づいている」

「みんな空腹だ。食べ物がない」

米国はニカラグアに対して経済封鎖を断行していた。

翌日、息子さんたちがマナグア市内を案内してくれた。都市といっても、観光地のようなものは皆無である。中心街は、72年の大地震の後、そのまま放置されて、荒れ放題だった。唯一の例外は、コンチネンタル・ホテルだった。  ここには世界各国から新聞記者が集まっていた。庶民は水のシャワーを浴び、豆を中心とした質素な食事に終始するが、コンチネンタル・ホテルの記者たちは、湯のジャーワーを浴び、肉やカクテルを口にする。ここだけ別の経済圏になっているのだ。

ニカラグアに長期滞在する旨を告げると、盲目の老人は、親戚の家に部屋が空いているので、そこへ引っ越して、滞在するように言ってくれた。歩いて5分ほどの距離だった。この家は、FSLNの支持者で、同居させてもらったダニエルさんの部屋には、カルロス・フォンセカ(FSLNを再建した革命家)とサンディーノの肖像画が張ってあった。

サンディーノは、1927年、米国の海兵隊がニカラグアを占領した際、少数精鋭のゲリラ部隊を率いて、執拗なゲリラ戦を展開して、海兵隊を撤退させた英雄である。

参考:ミゲル・リティン監督「Sandion」

◆読売の記者に期待

・・・・ニカラグア取材の原稿は、現在も出版には至っていない。ほんの一部を『バイクに乗ったコロンブス』(現代企画室刊)に使ったにすぎない。2008年の取材が実現していれば、ニカラグアの過去と現在をつなぐルポになっていたかも知れない。その仕事を読売の記者にお願いしたいものだ。

幸いにコンチネンタル・ホテルは昔よりももっと快適になっているはずだ。もちろん銃弾が飛んでくることもない。安全地帯である。