1. 詩人パブロ・ネルーダの死因、国際調査委員会が毒殺だった可能性を示唆するDNA鑑定を発表、浮上したピノチェットの新犯罪

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2017年10月23日 (月曜日)

詩人パブロ・ネルーダの死因、国際調査委員会が毒殺だった可能性を示唆するDNA鑑定を発表、浮上したピノチェットの新犯罪

複数の海外メディアによると、チリのノーベル賞詩人で『大いなる歌』などの詩集で知られるパブロ・ネルーダの死因を調査していた国際委員会は、20日、ネルーダがピノチェット支配下の軍部に毒殺されていた強い可能性を裏付ける調査結果を発表した。

国際調査委員会は、6カ国16人の科学者で構成されている。

ネルーダは、1973年9月11日の軍事クーデターの後、精神的なショックから持病の前立腺ガンを悪化(悪液質)させ、9月23日に病死したというのがこれまでの定説だった。容態が悪くなり病院へ搬送された後、軍医がネルーダに注射した後、急激に症状が悪化したというネルーダの運転手の証言を根拠とする毒殺説もあったが、調査は行われていなかった。

2011年にネルーダが所属していたチリ共産党が、毒殺の疑いで法的手続を取ったのを機に調査がはじまった。2013年にネルーダの遺体は、発掘されて調査が行われたが、この時は骨から毒物の形跡は発見されなかった。2015年に再度、墓が発掘され再調査が行われた。

そしてカナダとデンマークでDNA鑑定を行ったところ、ネルーダの歯から、ガンによる悪液質ではありえない別のバクテリアの形跡が発見された。調査チームは、さらに死因を調査する。

◇国外からの「反ピノチェット」運動の可能性を断つ

ネルーダは1970年の大統領選挙では、共産党の大統領候補になった。しかし、社会党のサルバドール・アジェンデをUP(人民連合)の統一候補として支援し、みずからの立候補は取り下げた。

アジェンデ政権が成立した後は、フランス大使としてフランスに赴任していたが、72年にガンで帰国した。そして、翌73年に軍事クーデターで、アジェンデ政権が崩壊。その直後からネルーダの住居は、家宅捜索で軍靴に踏みにじられていた。

クーデターの後もネルーダの健康は普通で、メキシコへの亡命が決まっていたという情報もある。かりに亡命が実現していれば、ネルーダの影響力から察して、チリ国外からの「反ピノチェット」運動の中心になっていた可能性が極めて高い。それをピノチェットが恐れて、毒殺に至ったとする説は、説得力を持っている。さらに毒殺説の生物学的根拠も、今回の調査で明らかになってきたのである。

ちなみにアジェンデ大統領の死についても、クーデターの直後は、自殺したとされ、それが定説となっていた。筆者も長い間この説を信じていた。しかし、ジャーナリストなどによるその後の取材で、アジェンデは銃撃戦で死亡したことが分かっている。

 

【写真】パブロ・ネルーダ。出典:Prensa Latina