新聞販売店の間に広がる公取委に対する不信感、怒りが沸騰、「公務員としての職務を果たせ」
新聞販売店の関係者の間で公正取引委員会に対する不信感が高まっている。関係者の話によると、これまで相当数の店主が公取委(公正取引委員会)に「押し紙」に関する証拠を提出しているようだ。しかし、公取委は対策に乗りださない。1997年に北國新聞に対して、「押し紙」の排除勧告を発令したケースを除いて、公取委が本気で「押し紙」問題と対峙したという話を聞いたことがない。
店主らの証言をもとにいろいろと、その原因を探ってみると、どうやら新聞社が販売店にノルマとして、不要な新聞の買い取りを強制した事実が見あたらないから、たとえ残紙があっても、それは「押し紙」ではないという論理を採用している事情があるようだ。
この論法は、読売には「押し紙」が一部たりとも存在しないと主張してきた喜田村洋一弁護士(自由人権協会代表理事)らの解釈と共通している。裁判所も喜田村弁護士らの論法を鵜呑みにして、そういう判断をしてきたので、それが正当な論理として、幅をきかせ、ついには定着してしまったといえよう。極めて、その可能性が高い。
しかし、最近になって江上武幸弁護士らが、佐賀新聞を被告とする「押し紙」裁判の中で、従来のこの解釈の誤りを指摘している。結論を先に言えば、「実配部数+予備紙」(これが注文部数)を超えた部数は、若干の例外を除いてすべて「押し紙」であるという見解だ。
この理論は公取委の新聞の商取引に関する見解を歴史的にさかのぼって検証すれば明らかになるだけではなく、岐阜新聞を被告とする「押し紙」裁判の名古屋高裁判決(2003年)の中でも、採用されている。この裁判では、原告の販売店が敗訴したが、裁判所は、「押し紙」の定義について、公取委の見解を歴史的にみれば極めて当たり前の、それでいて斬新で示唆に富む新見解を示しているのである。
独禁法が「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進することを目的とする」経済取締り法規であり、これに基づく本件告示が特殊指定であり、もっぱら客観的要件を重視していることにかんがみると、主観的認識の有無を不法行為に関する違法性について考慮することはともかく、「押し紙」の有無について考慮することは適当ではないというべきである。
ここでいう「主観的認識の有無」とは、「新聞の買い取りを強制されたか否か」といった主観により結論が左右されるあいまいな要素の有無である。それを違法性についての判断をする場合に考慮してもいいが、だからといって「押し紙」の有無を判断する基準にしてはいけないと言っているのだ。
となれば、何を基準に「押し紙」の有無を判断するのか。答は既に述べたように、「実配部数+予備紙」を新聞の商取引における注文部数と定義し、それを超える部数は、理由のいかんを問わず機械的に「押し紙」と認定すべきだと言っているのだ。実は、これが公取委の正しい見解なのだ。公取委の職員は、それを知らないか、嘘をついているのだ。
◇「押し紙」の認定は残紙の事実だけで十分なはず
こうした「押し紙」の定義を新聞社も認識しているのか、彼らは予備紙の定義をねじ曲げはじめている。それしか対抗策がないからだ。
予備紙は従来は搬入部数の2%とされていた。これは業界の自主ルールだった。ところが新聞社はこの「2%」ルールを削除して、残紙はすべて「予備紙」と声高く叫び始めたのである。それにより独禁法による取締から逃れよとしているのだ。従って残紙が50%でも、彼らにとっては「予備紙」である。
しかし、冷静に考えれば分かることだが、多量の残紙がトラックで回収されている事実は、残紙が「予備紙」として使われていない事実を物語っている。と、すれば回収されている新聞の大半は「押し紙」と考えるのが論理にかなうだろう。新聞社の「新聞を押し売りした証拠がないから、『押し紙』ではない」という論理は破綻しているのだ。
たとえ販売店側が「押し売り」の証拠(たとえば担当員との会話録音)を持っていなくても、大量の残紙が販売店から回収されている事実だけで、「押し紙」の証拠は十分だろう。販売店は、「押し紙」の写真や動画を残しておくべきだろう。
改めていうまでもなく、「押し紙」に連動した折込広告の水増し問題の責任は、「押し紙」政策をやめない新聞社の側にある。本来、公取委が指導しなければならない。都内の店主が言う。
「公取委は、公務員としての職務を果たすべきです」