1. 森ゆうこVS志岐武彦の裁判が結審、提訴からわずか7ヶ月、本人尋問は実施されず志岐氏の勝訴が濃厚に

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2014年04月21日 (月曜日)

森ゆうこVS志岐武彦の裁判が結審、提訴からわずか7ヶ月、本人尋問は実施されず志岐氏の勝訴が濃厚に

森ゆうこ元参院議員が、『最高裁の罠』の著者で、ウエブサイト「一市民が斬る」の主宰者・志岐武彦さんを訴えた裁判が、18日、東京地裁で結審した。

森元議員が裁判を起こしたのは昨年の10月2日であるから、7ヶ月ではやばやと結審したことになる。裁判所が、森氏と志岐氏の本人尋問を実施しなかったことに加えて、訴因の発端となっている捏造報告書流出事件についての検証を避けたことから、森氏の訴えが棄却される可能性が極めて強い。

前回の口頭弁論で、原告の小倉秀夫弁護士は、審理の中で捏造報告書送付事件への関与疑惑が浮上しているX氏(訴状にもX氏で登場)の陳述書を提出する旨を表明していたが、結局、陳述書は提出されなかった。それに代わって、森氏本人と歌手・八木啓代氏、それに『サンデー毎日』の鳴海崇記者の陳述書が提出された。

これらの陳述書については、結審後にスタートする検証作業の中で、関係者の意見を考慮したうえで、インターネットで公開する機会があるかも知れない。 (裁判関係の書面の公開は、著作権法違反にはならない)

判決は、7月18日の13:10分、705号法廷で言い渡される。

◇名誉毀損裁判の法理

この裁判では、志岐氏が執筆して「一市民が斬る」に掲載した3件の記事をどのように解釈するかが争点になった。名誉毀損裁判では、まず、報道に公益性があるか否かを審理し、それが認められた場合には、次のステップとして、一般の人が普通の読み方をした時に、どのような受け止め方をするかを検証することで、争点となった表現が原告の社会的地位を低下させたか否かを判断する。

争点となった表現が事実であれば、たとえ原告の社会的地位を低下させても、被告は免責される。しかし、表現が事実であること、あるいは事実であると信じるだけの十分な根拠を示す責任は、被告側にある。

それゆえに名誉毀損裁判では、原告が圧倒的に優位になる傾向があり、SLAPPによる「訴訟ビジネス」を展開する弁護士にとって、格好の法理となっている。

原告の主張は、3件のブロク記事を横断的に読んだ時、森氏の社会的地位を低下させる事実摘示が構成されているという主張を展開してきた。これに対して被告は、それぞれのブログ記事は独立した評論という主張を展開した。

◇木を見て森を見ない法理

これまでわたしが取材した名誉毀損裁判では、記事中の個々のセンテンスが名誉毀損的表現としてピックアップされ、争点として絞り込む傾向が見られた。記事のほんのささいな一部分を構成する表現を取り上げ、それが原告の社会的地位を低下させるかどうかが審理されてきたのである。そのためにしばしば「揚げ足取り」の印象を受けてきた。

わたしが被告になった対読売裁判でも、たとえば「窃盗」という言葉が争点になった。

わたしはこうした論法は、それ自体が「木を見て森を見ない」誤りを犯していると思う。と、いうのも書かれた作品(記事)の解釈は、全体を読むことで初めて可能になるからだ。ほんの一部分を取り上げて、その他の構成部分から切り離して解釈するのは、一種の捏造に匹敵する。言葉尻を捉えて屁理屈を並べる態度となんらかわらない。

たとえば、高校野球部の厳しい練習風景を描いたあと、「あの監督は鬼だ」と表現した記事が、「鬼」という表現を理由に名誉毀損に問われたとする。

日本の裁判所の法理からすれば、監督は人間であって、鬼ではないから、事実に反しており、社会的地位を低下させたことになりかねない。実際、読売がわたしを訴えた名誉毀損裁判(地裁、高裁は黒薮の勝訴。最高裁で読売が逆転勝訴、黒薮に110万円の支払い命令)では、これに近い法理が適用された。

文章の全体を読めば、「鬼」が「厳しい監督」という意味を含んだ隠喩(メタファー)、「窃盗」が情け容赦のない物品(この場合は折込広告)の持ち出しという意味の評価であることが分かるが、日本の裁判所は、そんなふうには判断しない。おそらく隠喩(メタファー)が何であるかも分かっていないのではないか?

わたしは個人的には、3件のブログを総合的に判断するように求めた原告の論法は正しいと思う。が、皮肉なことに3件のブログを横断的に読めば読むほど、志岐氏が書いていることが、捏造報告書送付事件などに関する根拠のある推論であることがより明確になる。

このような論理の破綻を補うために原告が採用した戦略は、3件のブログから、自分たちの主張に合致する表現だけを個々にピックアップして、それを組み合わせることで、志岐氏が名誉を毀損したようなストーリーを構成するものだった。伝統的なSLAPPの手口である。少なくともわたしはそんな印象を受けた。

◇捏造報告書の流出の2つのルート

わたしが支援している志岐氏を被告とする裁判が結審したこと自体は歓迎する。ただ、裁判は勝敗だけが問題ではない。裁判の当事者が勝敗にこだわるのは当然だが、第3者には、勝敗よりも結論に至るプロセスの方により関心がある。

この裁判で検証しなければならない点は、改めて言うまでもなく、捏造報告書がどのようにして、検察から外部へ流出したのかという疑問である。この疑問の検証を裁判所が避けたのは間違いだ。と、いうのも検察の書面が、巷に出回ったただならぬ事実は、日本の司法の信用にかかわる根幹的な大問題であるからだ。蓋(ふた)をすれば、同じ事が再発しかねない。

既報したように捏造報告書の流出ルートは、窃盗などが行われていなければ、基本的には、次の2つしかない。

?検察が不正に外部に持ち出した可能性。

?小沢一郎氏本人か、彼の弁護団に合法的に渡った可能性。

改めて言うまでもなく、?は明らかな違法行為である。?は、捏造報告書を所持し得る者が第三者に開示していれば、公文書の目的外使用にあたり、処罰の対象になる。それゆえに裁判の場で検証することはいうまでもなく、公的な機関による調査が必要になるはずだ。

新聞は、この裁判を提訴当初からまったく報道しなかった。提訴後に報じたのは、、『ジャーナリスト』、『紙の爆弾』、ウエブサイト『MyNewsJapan』、『財界にいがた』などである。

新聞が報じなかった背景に、事件の根が深いという事情があったのではないだろうか。捏造報告書の流出事件が介在しているからだ。

が、重大な事件こそ、報じるに値するジャーナリズムのテーマではないだろうか。お行儀のいい優等生になるよりも、「冒険」も必要ではないだろうか。

この裁判に関する最新資料は、「一市民が斬る」の最新記事からリンクできる。