「その言葉、単価でXX万円」、名誉毀損裁判と言論・人権を考える(1)武富士裁判から13年
裁判を提起することによって言論や行動を抑圧する「戦術」が、いつの時代から始まったのかを正確に線引きすることはできない。
たとえば1990年代に、携帯電話の基地局設置を阻止するために座り込みを行った住民に対して、電話会社が工事妨害で裁判所に仮処分を申し立てる事件が起きた。が、これが裁判の悪用に該当するかどうかは厳密には分からない。
言論抑圧という観点から裁判の在り方が本格的に検証させるようになったのは、今世紀に入ってからである。司法制度改革による賠償金の高額化の流れの中で、負の側面として、「戦術」としての裁判が浮上してきたのである。
◇武富士裁判
有名な例としては、サラ金の武富士がフリージャーナリストらに対して起こした武富士裁判がある。この裁判では、ロス疑惑事件の三浦和義被告や薬害エイズ裁判の安部英被告を無罪にした弘中惇一郎弁護士が、武富士の代理人を務めたことも話題になった。
その後、ジャーナリストの西岡研介氏が著した『マングローブ テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実』(講談社)に対して、JR総連とJR東日本労組が、総計50件の裁判を起こす事件が発生する。
私自身も読売新聞社から、わずか1年半の間に3件(請求額は約8000万円)の裁判を起こされたことがある。この裁判では、言論の自由を守るという観点から、多く出版関係者や弁護士の支援を得た。
さらに直近では、作曲家の穂口雄右氏がレコード会社31社から、2億3000万円の損害賠償を求められる裁判を提起された。
もちろんこれら一連の裁判の原告は、裁判提起の目的が言論抑圧にあるとは言っていないが、結果として、裁判によって被告側の言論や行動が萎縮させられたことは否定できない。
最近になって言論抑圧につながる裁判に新しい傾向が現れてきた。それは裁判を起こす相手が報道関係者や有名人ではなく、一般市民にまで広がってきたことである。名誉毀損裁判は、裁判を提起した側が、圧倒的に有利な法理になっているので、弁護士にとっても収入源になりやすい事情がある。客観的にみると、それが名誉毀損裁判が多発する要因とも考え得る。
◇金銭請求方法に疑問
2013年4月5日、ある一通の訴状が東京地裁に提出された。原告は、山崎貴子さん(仮名)という著書もあり、雑誌にも写真入りで登場するなど比較的著名な女性である。訴えられたのは、小川紅子(仮名)さん、小川五郎(仮名)さんという夫婦である。請求額は、約3200万円。
わたしが最初この裁判に注目したのは、山崎貴子さんの代理人が弘中淳一郎弁護士らになっていたからである。実際にこの裁判を担当しているのは弘中絵里弁護士であるが、訴状に名を連ねている弘中淳一郎弁護士は、かつて武富士裁判で武富士の代理人を務めて、フリージャーナリストの間で批判の的になった。『無罪請負人』と題する本を出版するなど、「人権派」の弁護士としても知られている。
その弘中弁護士の事務所が、武富士裁判から10年が過ぎて、名誉毀損裁判の原告代理人としてどのような弁護活動をするのかを知りたいと思ったのである。
事件の概要は、血縁関係にはないが遠い親戚関係にあった山崎さんと小川紅子さんがウェブサイトでコメントやメールのやりとりをしているうちに、感情のもつれから、山崎さんが名誉毀損を理由に突然、小川さん夫婦を提訴したというものである。
◇慣用句を連用した訴状
訴状を読んだ限りでは、わたしは訴えられた夫婦が山崎さんの社会的評価をおとしめたような印象を受けた。ただ、訴状の表現が大げさで苦笑を禁じ得ないタッチになっていた。
たとえば「被告らの攻撃の執拗さと悪質さは常軌を逸するもので・・・」とか、「被告らの攻撃によって原告が蒙った精神的苦痛は甚大」とか、大上段に構えた表現が使われている。
事実を冷静沈着に「翻訳」した文章ではなく、言葉だけが一人歩きしている作文の印象を受けた。
その後、わたしは準備書面で展開された小川さん側の反論を読み、裁判の進行を見守っていた。原告と被告の双方にも、取材を申し入れた。
これに対して被告の小川夫婦は取材に応じ、原告の山崎さんは取材に応じなかった。(厳密には、弘中絵里弁護士から、現時点では取材を受けない旨の連絡があった。)そのため、どちらの言い分に理があるのか、判断できないまま、裁判の推移を見守るようになったのである。
◇「その表現、単価XX万円」
実は、わたしがこの裁判で最も興味を引かれたのは、事件の経緯でも双方の主張でもなかった。原告の金銭請求の方法に際立った特徴があることだった。
詳細については後述するが、端的に言えば、問題とする表現を、「名誉毀損」、「名誉感情侵害」、「プライバシー権侵害」、それに「肖像権侵害」に分類した上で、それぞれに単価を付け、その総数を基に損害賠償額を計算していたことである。こんな請求方法はこれまで見たことがなかった。
通常は、一括して500万円を請求したり、1000万円を請求してくるが、この裁判では、「単価×件数」で損害賠償額を割り出していたのである。
その結果、該当する記事などが417件にもなり、請求額が約3200万円に膨らんだのである。さらに訴状によると、原告は同じ方法で、紅子さんの同じブログの後半部分についても、請求額を算出すると述べている。そうすると最終的に請求額は、5000万円を超えるかも知れない。
小川さん夫婦のブログが、山崎さんの名誉を毀損しているか否かの問題以前に、こうした請求方法で高額の賠償金を請求することの倫理面を検証したいと思った。従って当初、わたしは名誉毀損裁判の在り方をテーマに取材をはじめたのである。
◇リーガルハラスメント
ところがその後、小川夫婦から次回期日を伝えられないまま月日が流れた。そこでわたしはこの裁判を担当している東京地裁の民事49部に裁判の進捗を問いあわせてみた。その結果、口頭弁論が中断していることが分かった。理由は教えてもらえなかった。わたしは和解の協議に入っているのではないかと、勝手に想像していた。
この裁判のことを思い出したのは、2015年の1月だった。一度取材したことがある小川五郎さんから、裁判が結審した旨を電話で告げられた。その時、小川さんは、裁判が公平ではないと不満を述べられた。代理人弁護士を依頼せずに小川さん夫婦が自分たちで書面を作成して、出廷していた本人訴訟であることも関係したのか、裁判所が公平に裁判をしなかったと言われたのである。
詳しく話を聞いてみると、妻の紅子さんが体調を崩して入院したのを受け、裁判期日の変更を申し立てたにもかかわらず、裁判所の書記官は結果を通知しなかった。次回期日を確実に知らせないまま予定通り口頭弁論を開き、裁判を結審してしまったという。そのために小川さん側が提出済みだった分厚い準備書面も証拠も受理されていない扱いにされてしまった。
小川五郎さんによると、裁判官は第3回の口頭弁論で早々と結審を言い渡したという。そこで小川さんは、反訴すると伝え、その後、裁判官忌避を申し立てて、裁判を継続させたのである。
このような実態を、小川さんは、本人訴訟であるがゆえに受けた「リーガルハラスメント」だと話している。
確かに小川さんの準備書面が体をなしていないのであれば、結審もやむを得ないかも知れない。しかし、訴状で原告が主張している事実に対して、認否を明らかにして、詳細に事情を説明している。さらに裁判所は、原告と被告の本人尋問すらも提案していない。少なくとも高額の金額を請求された側である小川夫婦の言い分は十分に聞くべきだろう。
奇妙なかたちで結審したので、小川夫婦は弁論の再開を1月27日と2月2日の2回申し立てたが、認められなかった。そこで、知人に紹介された弁護士に依頼して3月6日に3度目の弁論再開を申し立てた。
この裁判の背景には、「リーガルハラスメント」がある。そこでわたしは、裁判進行の足跡を検証すると同時に、訴えられた小川さん側の言い分を明らかにすることにした。釈明の機会が十分にないまま、判決を受けるのは公平ではないからだ。もちろん原告が取材に応じるというのであれば、原告側の言い分も紹介することを厭わない。(続)