「押し紙」問題の到達点と今後の争点、読売が申し立てた「押し紙」裁判の判決文に対する閲覧制限事件④、
「押し紙」問題が指摘されるようになったのは、1970年代である。日本新聞販売協会が販売店の苦痛をくみ上げ、1977年にアンケート調査を実施して「押し紙」の実態を公表したのが最初だ。(全国平均で8.3%)。その後、1980年代の初頭から85年まで、共産党、公明党、社会党が超党派で新聞の商取引に関する問題を国会質問で取り上げた。その中に当然、「押し紙」問題も含まれていた。
しかし、日本がバブル経済に突入すると、折込広告の需要が急増したために、「押し紙」が存在しても損害を受けない販売店が増えた。特に都市部ではその傾向が顕著になった。残紙が販売店に利益をもたらす「積み紙」の性質に変化したのである。これは販売店にとっては触れられたくないことであるが、客観的な事実である。販売店は、「もうかる仕事」だった。
しかし、バブルが崩壊すると徐々に折込広告の需要が減った。それにともない残紙が販売店の負担になってきたのである。言葉を替えると、残紙の性質が「積み紙」から「押し紙」に再び変化したのである。
◆新聞社と販売店の共通認識
新聞社と販売店の間には、残紙の責任が誰にあるのかという議論がある。販売店は新聞社に責任があると主張する。注文部数を新聞社が設定しているからである。
これに対して新聞社は、残紙の責任は販売店にあると主張してきた。折込広告の水増しをしたり、より多額の補助金を獲得するために、販売店が自主的に仕入れ部数を増やして、広告主や新聞社を欺いてきたとする主張である。たとえば、読売の代理人で自由人権協会代表理事の喜田村洋一弁護士は、20年以上もこの持論を展開してきた。読売に「押し紙」は1部も存在しないと主張している。
販売店の主張が正しいにしろ、新聞社の主張が正しいにしろ、紛れのない客観的な事実は、読者に配達されない新聞が大量に発生している事実である。この点に関しては、読売の濱中裁判でも裁判所が認定した。それゆえに、読売は判決文に閲覧制限をかけてきたのではないか。
判決の結果とは別に、 残紙は重大な社会問題なのである。というのも残紙を含む部数がABC部数として報告されているからだ。100万部を自称して広告営業を展開しても、実際には50万部しかない可能性もある。当然、折込広告の一部は廃棄されている。大量の広報紙が廃棄されてきた事実も、東京の江戸川区などで発覚している。残紙を隠すための2重帳簿(順路帳)も存在する。
今後、この点に公正取引委員会や裁判所、それに警察などがどのようなかたちでメスを入れるのか注視しなければならない。放置することがあってはならない。
◆「押し紙」の定義をめぐる議論
「押し紙」裁判のもうひとつの争点は、「押し紙」の定義である。
1964年に改訂された新聞特殊指定が定めた「押し紙」の定義は、新聞の実配部数に予備紙(2%)を加えた部数を「注文部数」と捉え、それを超えた部数は理由のいかんを問わず、「押し紙」に該当するというものである。「押し紙」を取り締まるために、このような定義が定められたのである。
1964年に新聞特殊指定で定められたこの定義に関しては、裁判所も認定している。
しかし、1997年になって新聞人はやっかいな問題と対峙する。公正取引委員会が1964年の新聞特殊指定を根拠として、北國新聞に対して「押し紙」の排除勧告を行ったのだ。その際、新聞協会に対しても、「押し紙」問題で釘を刺した。北國新聞と類似した状況が他の新聞社でも見られるという警鐘だった。
これを受けて、以後、日本新聞協会と公正取引委員会は話し合いを重ねるようになる。そして1999年に公正取引委員会は、新聞特殊指定の改訂を行った。改訂された特殊指定は、主旨こそ同じだったが、たとえば従来の「注文部数」という用語を「注文した部数」に変更した。
実は、この「注文した部数」が濱中裁判で争点になった。濱中さんは、1964年の新聞特殊指定に基づいて、新聞特殊指定でいう「注文部数」とは、既に説明したように、実配部数に予備紙を加えた部数であると主張した。従って「注文部数」を超えた部数は、すべて「押し紙」であるという主張だ。
これに対して裁判所は、1999年に改訂された新聞特殊指定に明記された「注文した部数」という用語を持ち出して、「注文した部数」とは販売店が注文書に書き込んだ外形的な数字であると認定した。つまり残紙はすべて販売店が注文したもので、そもそも「押し紙」など存在しないという論理である。
そもそも公正取引委員会と新聞業界は、北國新聞の「押し紙」問題を受けて、話し合いを重ねたのである。その結果、1999年に特殊指定を改訂して、より「押し紙」をしやすい規定に変更したとすれば、「押し紙」を取り締まるという新聞特殊指定の趣旨にすら合わない。
外形的な注文部数の中に残紙が大量に含まれているからこそ、社会問題になっているのであるのに、外形的な注文部数が真の注文部数であるという見解に立ってしまうと、この問題は永遠に解決しない。